東方閃電-小羊の足跡に従っていくこと

東方閃電全能神教会は世界に”神様が帰ってきた”ことを公に証ししています。彼は再臨の主イエスです。神様の羊は神様の声を聞き分けます。多くの真理を渇仰する人は、東方閃電全能神教会を考察します。

ゴスペル キリスト教映画「呪縛を解く」抜粋シーン(4)聖書を信仰することと、主を信仰することは同じことなのか

宗教界の牧師や長老たちの多くは、聖書は主を代弁し、主を信じることは聖書を信じることだと考えています。聖書から離れる者は、信者とは言えず、聖書にしがみついている限り救われ、天国に行くことができるのだと信じています。本当に聖書は主を代弁することができるのでしょうか?聖書と主とは一体どのような関係にあるのでしょうか?主イエスは言われました。「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない。」(ヨハネによる福音書 5:39-40)全能神が言われます。「どちらが偉大なのだろう。神か、それとも聖書か。なぜ神の働きが聖書に沿ったものでなければならないのか。神には聖書を超える権利がないということか。神は聖書から離れて別の働きをすることができないのか。なぜイエスとその弟子たちは安息日を守らなかったのか。…神と聖書と、どちらが先に来たかわかっているはずである。神は安息日の主であると同時に、聖書の主でもあるのではないか。」(『言葉は肉において現れる』より)

あなたは真理を受け入れる人になるべきだ | 東方閃電

Oh…あなたは自分自身の道を選びなさい。真理を拒んだり、聖霊を冒瀆したりしてはならない。無知にならないで、傲慢にならないで、聖霊の導きに従いなさい。イエスの再臨は真理を受け入れることができる全ての人々にとって大いなる救いだ。イエスの再臨は真理を受け入れられない人々を罪に定める。Oh…

真理を渇望し、真理を求めなさい。それはあなたが益を得る唯一の道だ。真理を聞いてもそれを鼻であしらう者は、皆とても愚かで無知だ。イエスの再臨は真理を受け入れることができる全ての人々にとって大いなる救いだ。イエスの再臨は真理を受け入れられない人々を罪に定める。Oh…Oh…真理を受け入れる、Oh…真理を受け入れる

神への信仰の道を軽い足取りで歩みなさい。勝手に結論を下さないで。神への信仰において、いい加減にならないで。神を信じる人は敬虔で謙遜であるべきだ。真理を聞いても勝手に結論を下したり、真実なことを罪に定める者は傲慢きわまりない。イエスの再臨は真理を受け入れることができる全ての人々にとって大いなる救いだ。イエスの再臨は真理を受け入れられない人々を罪に定める。Oh…キリストを信じる者には、他の人を呪ったり咎めたりする資格はない。 (Oh…真理を受け入れる。)あなたは理性を備え、真理を受け入れるべきだ。イエスの再臨は真理を受け入れることができる全ての人々にとって大いなる救いだ。

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明日の希望のために | 東方閃電

神はなぜ神の働きを受け入れ従う教会のみを祝福するのか。なぜ神は宗教団体を呪うのか。

関連する神の言葉

「なぜなら、宗教の中にいる者は神の新たな業を受け容れることが出来ず、旧来の業に固守するだけであり、したがって神はそうした人々を見捨てて、神の新たな業を受け容れる人々に対して、その業を行うからである。そうした者は神の新たな業において協力する者であり、神の経営計画を完遂出来るのは、その方法によるほか無い。」

『言葉は肉において現れる』の「神の業と人間の実践」より

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聖霊の流れの中にいる者全員が聖霊の存在と鍛錬を備えており、聖霊の流れの中にいない者はサタンの支配下にあり、そうした者には聖霊の業が不在である。聖霊の流れの中に居る者は、神の新たな業を受け容れ、それに協力する者である。⋯⋯聖霊の新たな業を受け容れる者は聖霊の流れの中で生活し、聖霊の慈しみと守りを授かるであろう。真理を実践することを望む者は、聖霊により啓かれ、真理を実践することを望まない者は、聖霊から鍛錬を受け、罰を受けることさえあるであろう。そうした者がどのような人間であれ、そうした者が聖霊の流れの中にいる限り、新たな業を神の名において受け容れる者全てについて、神は責任を負うであろう。⋯⋯しかし、新たな業を受け容れない者は、この限りでは無い。そうした者は聖霊の流れの外に居て、⋯⋯聖霊の流れの中に居ない者の行動は、いずれも聖霊の新たな業と無関係である。そのため、そうした者がどう行動するかを問わず、そうしたものは聖霊の修練を欠いている上、聖霊の啓きを欠いている。何故なら、そうした者は全員真理への愛が一切無い者であり、聖霊から嫌い捨てられた者だからである。そうした者は邪悪を行う者と呼ばれる。何故なら、そうした者は肉にあって歩み、神の看板の下に、自分が満足するあらゆる物事を行うからである。神が業を行う間、そうした者は神に対して故意に敵意を抱き、神と反対方向に向かって走る。人間が神と協力しないことは、それ自体が最も反逆的であり、そうした人々の故意による神からの逃避に関しては、言うまでも無い。それでは、そうした人々は然るべき罰を受けるのではないだろうか。そうした人々の邪悪な行いを述べると、そうした人々を呪わずには居られない者も居るが、神はそうした人々を無視される。人間にとって、そうした人々の行為は神の名に係わるもののように思われるが、実際には、そうした行動は神の名や証には何の関係も無い。そうした人々が何をしたとしても、それは神と無関係である。その行動は、神の名とも、神の現在における業とも無関係である。そうした人々は自分自身を辱め、サタンを示している。そうした人々は邪悪を行う者であり、怒りの日の看板を掲げている。現在、そうした者の行動を問わず、そうした者は、神の経営を阻害せず、神の新たな業と無関係である限り、相応の罰の対象とはならない。なぜなら、怒りの日はまだ到来していないからである。神が既に取り扱われているべきであると人々が考えている物事は多数あり、人々はそのような邪悪を行う者は、出来るだけ早く罰を受けるべきであると考えている。しかし、神の経営の業は未完了であるため、また怒りの日がまだ到来していないため、不義な者は不義な行動を行い続ける。宗教に参加している人々には、聖霊聖霊の業が存在しない、またそうした人々は神の名に恥辱をもたらす、という者も居る。それならば、何故神はそうした人々を滅ぼさずに、そうした人々の抵抗に寛容にしているのであろうか。そうしたサタンの現れであり、肉を示す人々は、無知で低能な人間であり、不合理な人間である。そうした人々は、神が人間の中でどのように業を行うかを理解する前に、神の怒りの発生を見のあたりにすることは無く、そうした人々が完全に征服された後、そうした邪悪を行う者は、全員罰を受け、一人として怒りの日を逃れることが出来ないであろう。現在は、人間の罰の時では無く、征服の業を行う時であるが、神の経営を阻害する者が居る時はこの限りでなく、その場合、そうした人々は、行動の深刻度により罰を受けるであろう。神が人類を経営されている時、聖霊の流れの中にいる者は、全て神と関連する。聖霊に嫌い捨てられた者はサタンの影響下で生活し、そうした者が実践する物事は、神と一切無関係である。神の新たな業を受け容れ、神と協力するものだけが、神との関連性を持つ。なぜなら、神の業は、人間がそれを受け容れるかどうかを問わず、人間全員ではなく、それを受け容れる者だけを対象とするからである。神が行う業には常に目的があり、業は気まぐれで行うものではない。サタンと同盟している者は、神の証しに立つ者として不適であり、いわんや神と協力する者として適してなどいない。」

『言葉は肉において現れる』の「神の業と人間の実践」より

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神はいかにして宇宙世界全体を支配し管理するのか。 | 東方閃電

関連する神の言葉

「広大な宇宙に、どれほどの生ける物が、一つの普遍的な規則にしたがって生き、いのちの法則にしたがって、何度も何度も再生しているのか。死ぬ者は生きる者の物語を抱えて行き、生きている者は死んだ者と同じ悲惨な歴史を繰り返す。そこで、人は自問せずにはいられない─なぜわたしたちは生きているのか。そして、なぜわたしたちは死ななければいけないのか。誰がこの世界を支配しているのか。そして、誰が人間を創ったのか。人間はほんとうに母なる自然の生み出したものなのか。人間はほんとうに自分の運命を支配しているのだろうか。…人間は、宇宙万物の支配者が誰であるかを知らないし、まして、人間の始まりも未来も知らない。人間はこの法の中で、ただ生きている、否応なしに。誰一人、逃れることができないし、誰もこれを変えることはできない。あらゆる物事の間と天において、永遠から永遠にすべてを支配しているのは、ただお一方だけなのだから。彼は、かつて人間が見たことがないお方、人間が一度も知ることもないお方、その存在を人間は信じたこともない。しかし、彼は人間の祖先に息を吹き込み、人間にいのちを与えたお方である。彼は人間が存在するよう施し、養い、今日まで導いて来たお方である。さらに、人間が生き残るために頼める唯一のお方なのである。神は万物を支配し、天の下のすべての生ける物を支配している。神は四季を支配し、風と霜、雪、雨を呼ぶ。神は人間に陽光を与え、夜の訪れをもたらす。天と地とを整え、人間に山々と湖、川、すべての生き物を与えたのは神である。神の業はあらゆるところにあり、その力はいたるところにあり、その知恵はすべてに満ち、その権威はすべてに及ぶ。その律法や法則は神の業を示すものであり、そのすべては神の知恵と権威とを現している。誰が神の支配を免れよう。また、誰が神の配剤から逃れることができようか。万物は神の眼差しの下にあり、さらに、神の支配の下で生きている。神の業と力の前には、神がほんとうに存在し、万物を支配していると認めざるを得ない。神を除いては、他の何も宇宙を支配できず、まして、やむことなく人間に施すこともできない。」

『言葉は肉において現れる』の「神の経営の中でだけ人は救われる」より

神を知る
「いのちの道は、誰でも持てるものではなく、誰にでも簡単に得られるものでもない。なぜなら、いのちは神のみに由来しているからだ。それはすなわち、神自身のみがいのちの本質を持っており、神自身なくしていのちの道は存在せず、神のみが、いのちと永遠に流れつづけるいのちの生ける泉の源であることを意味する。神が世界を創造したとき以来、神はいのちの活力に関わる多くの働きをし、人にいのちを与える多くの働きをし、人がいのちを得られるよう多大な代償を払ってきた。神自身が永遠のいのちで、神自身が、人が復活できる道だからである。神が人の心に不在であることはなく、常に人の中に生きている。神は人の生活の原動力であり、人の存在の基盤であり、誕生後の人の存在にとっての豊かな鉱物である。神は人を生まれ変わらせ、人が自分の持つあらゆる役割においてしっかりと生きられるようにする。神の力と、神の消えることのないいのちの力のおかげで、人は何世代も生きてきた。その間ずっと、神のいのちの力は人の存在の支えであり、神は普通の人間が誰も払ったことのないような代償を払ってきた。神のいのちの力は、いかなる力にも勝る。そしていかなる力をも超越する。神のいのちは永遠であり、神の力は非凡であり、神のいのちの力はいかなる被造物や敵の力によっても簡単に圧倒されない。神のいのちの力は存在し、時と場所にかかわらず明るい輝きを放つ。神のいのちは、天や地が激変する間も永遠に不変である。万物は過ぎ去るが、神のいのちは依然としてそこにある。それは、神が万物の存在の源であり、それらの存在の根幹だからだ。人のいのちは神に由来し、天の存在は神に拠り、地の生存は神のいのちの力から生じる。活力を有するいかなる物体も神の主権を越えることはできず、いのちの力を有する何物も神の権威の及ぶ範囲から逃れ出ることはできない。このようにして、誰もが神の支配下服従し、神の命令の下で生きねばならず、誰も神の支配から逃れられない。」

『言葉は肉において現れる』の「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」より

「宇宙、すなわち惑星、天の星は、すべて人類が出現する以前に、既に存在していた。マクロレベルでは、こうした天の物体は、神の支配下で、それらが存在している年月を通して、軌道を規則的に回り続けてきた。どの惑星が、何時、何処に移動するか、どの惑星が何時どのような役割を果たすか、どの惑星がどの軌道に乗るか、どの惑星が何時消滅するか、置換されるかなどといった事柄は、すべて寸分違わず正確に進行している。惑星の位置や惑星同士の間の距離は厳密な規則に従っており、正確なデータで説明可能である。惑星が移動する経路、速度、そして軌道の規則、特定の位置に到達する時刻は、正確に数値で表し、特定の法則により説明できる。数十億年にわたり、惑星は、これらの法則に全く逸脱することなく従ってきた。惑星の軌道や、惑星が従っている規則性を変化させたり中断させたりすることのできる力は存在しない。惑星の運動を律する特定の法則と、それを解明する正確なデータは、創造主の権威により事前に決定されており、惑星は創造主の統治と制御の下で、そうした法則に自然と従う。マクロレベルでは、ある程度の規則性やデータ、そして異常で説明出来ない法則や現象を見出すことは、人間にとってそれほど困難ではない。人類は神が存在することを認めず、創造主が万物を造り、支配しているという事実を受け入れず、さらには創造主の権威の存在を認めないにもかかわらず、人文科学者、天文学者、物理学者は、宇宙における万物の存在、そして万物の運動を律する原理と法則が、巨大で目に見えない暗黒のエネルギーにより支配され、制御されているという結論に達することが益々多くなってきている。この事実により、人間は、こうした規則性の中に全能者が存在し、全てを指揮しているということに向き合い、認めざるを得なくなっている。彼の力は非凡であり、その素顔を見ることが出来る者はいないものの、彼は常に全てを支配し、制御している。彼による統治を超えることが出来る者や力は存在しない。こうした事実に鑑み、人間は万物の存在を支配する法則は人間が制御したり変えたり出来ないものであること、こうした法則は人間が完全に理解できないものであることを認める必要がある。さらに、そうした法則は自然に発生するものではなく、支配者により支配されている。こうした物事は、全て人間がマクロレベルで認識できる神の権威が表出されたものである。

ミクロ段階では、人間が地上で見る山々、川、湖、海、大陸、人間が体験する季節、植物、動物、微生物、人類を含めた地球上の万物は、全て神の権威の対象であり、神により支配されている。神による統治と支配の下においては、万物は神の旨に従って出現し、消滅し、その生命は全て特定の法則により管理され、その法則に従って生長し、繁殖する。これらの法則を超える人間や物事は存在しない。」

『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身3」より

「神は、万物創造時に、山、平野、砂漠、丘、河川、湖沼の境界を定めた。地上には山、平野、砂漠、丘、そして様々な水域が存在するが、これらは何であろうか。これらは地形ではなかろうか。神は、様々な地形全ての間に、境界を定めた。境界の設定といった場合、それは何を意味するだろうか。それは、山や平野、砂漠、丘にはそれぞれ領域、範囲ないし一定の面積がある。さらに、河川や湖沼などの水域にも一定の水量がある。つまり、神が万物を造った時、神は全てを明確に分割した。…こうした神が造った様々な地形や地理的環境の中では、あらゆる物事を、計画された秩序ある方法で神が管理している。そうしたわけで、これら全ての地理的環境は、それを神が造ってから数千年、数万年後の現在も依然として存在する。こうした地理的環境は、依然としてそれぞれの役割を果たしている。ある期間に火山が噴火したり、地震が発生したり、地面が大きく動くことがあるが、それでもなお神は地形がその機能を喪失することを許さない。人間が享受し、見ることのできるこれら全てが地球上で秩序をもって存在することができるのは、ひとえにこのような神の管理とそれらのものに対する神の支配、そして律法を掌握しているからである。それでは、神はなぜ、地上にある全ての地形を、このような方法で管理するのであろうか。」

『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身9」より

「こうした奇妙に見える現象について話をしている理由は、1か所に固定されているか、呼吸して歩くことが出来るか如何を問わず、神が造った万物には、すべて生存のための律法が存在するということを、あなたがたに理解してもらうためである。神がこれらの生き物を造る遥か以前に、神はそれらの生き物のための棲息地、つまり固有の生存環境を用意した。これらの生き物には、それぞれ固定された生存環境、固有の食料、固定の棲息地、生存のための気温などがそうした生き物の生存に適した、固定された棲息地がある。このように、そうした生き物は方々を彷徨ったり人間の生存を侵害したり、人間の生活に影響を及ぼしたりすることは無い。これが、神が全ての生き物を管理する方法である。こうした事は、すべて人間に最適な生存環境を与えるためのものである。万物のうち、生き物には、それぞれ固有の生存環境の中に生き延びるための食料がある。その食料により、生き物は土着の生存環境に固定されている。生き物はその環境に固定されているのである。そうした環境においては、生き物は、それらの生き物のために神が定めた律法に従い、依然として生存と繁殖を続けている。この種の律法や神の予定があるため、あらゆる生き物は人間と調和して相互作用し、人間とあらゆる生き物は相互依存している。」

『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身9」より

「神が万物を造った時、神は様々な手段と方法により、万物の釣り合いを取るようにし、山や湖沼の存続条件、植物や様々な動物、鳥、昆虫の生活条件の釣り合いを取った。神の目的は、神が定めた律法に従って様々な生き物が生活し、繁殖できるようにすることであった。あらゆる生き物はこれらの律法に反することができず、またこれらの律法は破ることが出来ないものであった。人間が安全に生活し、何世代にもわたって繁殖可能であるのは、この種の基本的な環境の中のみであった。ある生き物が、神が定めた量や範囲、神が支配している増加率、頻度、数を超えている場合、人間の生存環境は様々な程度の被害を受けるであろう。それと同時に、人間の生存が危機に瀕することになるであろう。ある種の生き物の個体数が多すぎる場合、その生き物は人間の食料を奪い、人間の水源に損害を与え、人間の生活地域が破壊されるであろう。このように、人間の繁殖と生存状態は、即座に影響を受ける。」

『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身9」より

「神が万物を造って以来、神が定めた律法に基づき、万物は機能を続け、常に発展してきた。神に見守られ、神に支配されて、万物は人間の生存とともに常に発展し続けて来た。いかなる物も、これらの律法を変えたり破壊したり出来ない。あらゆる生き物が増殖できるのは、神による支配があるからであり、あらゆる生き物が生存できるのは、神の支配と管理があるからである。つまり、神の支配下においては、あらゆる生き物が規則正しく現れ、繁栄し、消滅し、復活する、ということである。」

『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身9」より

「神はこの世界を創造し、この人類を創造した。また、それだけではなく、神は古代ギリシア文化ならびに人類文明の設計者でもあった。神のみがこの人類を慰め、神のみが日夜人類のことを思いやる。人類の発展と進歩は神の支配と切り離すことはできない。また、人類の歴史と未来は神の計画と切っても切れない関係にある。あなたが真のクリスチャンならば、あらゆる国または民族の興亡は、神の意図によって起こるということを必ず信じるであろう。神のみが国または民族の運命を知っており、神のみがこの人類の進むべき道を制御する。人類が良い運命を望むなら、また国家が良い運命を願うなら、人間はひれ伏して神を礼拝し、神の前で悔い改め、罪を告白しなければならない。さもなければ人間の運命と終着点は災難となることは避けられない。

…………

神は人間の政治に参加しないが、国または民族の運命は神によって支配されている。神はこの世界と全宇宙を支配している。人の運命と神の計画は密接に関連しており、誰もどの国も民族も神の支配から免れない。人間の運命を知りたいなら神の前に来なければならない。神は神に従い、神を崇拝する人々を繫栄させ、抵抗し、拒絶する人々に衰退と絶滅をもたらす。」

『言葉は肉において現れる』の「神は全人類の運命を支配する」より

「それでは、神にとって、『神による万物の統治』の『万物』には、何が含まれるであろうか。この『万物』には、人間が見て触れることのできる物だけでなく、目に見えず、触れることの出来ない物も含まれる。これは、神による万物の統治の真の意味のひとつである。これらの物事は目に見えず触れることの出来ない物事であるが、これらの物事もまた実在する物事である。神にとっては、その物事が神の目で観察可能であり、かつ神の統治の範囲内にあれば、その物事は実在する。人間にとって、それらの物事は抽象的であり、想像不可能なことであり、目に見えず触れることが出来ないとしても、神にとって、それらの物事は実在する。神が支配する万物のもうひとつの世界は、そのようなものであり、それが神が支配する万物の範囲の、もうひとつの部分である。...神が霊的世界をどのようにして支配し、統治するか。」

『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身10」より

「霊的世界の存在は、人間の物質世界と不可分の関連性がある。霊的世界は、神による万物の統治のうち人間の生死の周期において重要な役割を担い、この役割がその存在が重要である理由のひとつである。...このように、人間が見ることのできない世界における天の命令や律法、統治組織は、物質世界におけるどの国家の法令や組織よりも遙かに優れており、この世界に生きるもののうち、そうした命令や律法、統治組織に背いたり濫用したりしようとする者は、一切居ないであろう。これは神による統治と管理に関連するであろうか。霊的世界には、明確な行政命令と、明確な天の命令、規則がある。様々な段階と領域において、執行官は厳密にその任務と規則を遵守する。なぜなら、執行官は天命に背いた時の報いが何か、神がどのように邪悪を罰し、善良に報いるか、神がどのように万物を統治し、支配するか、そして神がどのようにして天の命令と憲章を実施するかを明確に理解しているからである。...霊的世界は、物質世界と共存し、同時に神による支配と統治の対象となっているものの、神による霊的世界の統治は、神による物質世界の統治よりも遙かに厳格なものである。」

『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身10」より

「人類の運命と万物の運命は、創造主による統治と密接に絡み合い、創造主の指揮と不可分の繋がりがあり、最終的にそれらの運命を神の権威から引き離して翻弄することはできない。人間は、万物の法則により創造主の指揮と統治を理解するようになり、生存の法則により創造主の統治を認識し、万物の運命により創造主がその万物に対する統治と支配を行使する方法に関して結論を得る。また人間は、人間と万物のライフサイクルによって、万物やあらゆる生物に対する創造主の指揮と采配を真に経験し、そうした創造主による統治や采配が、この世の法令や規則、制度その他の権力や威力よりも優先されるのを目の当たりにする。これに鑑みると、創造主による統治は、いかなる被造物も侵害出来ないものであり、いかなる権力も創造主によって予定された物事に干渉したり変更したり出来ないものであることを、人類は認めざるを得ない。人類や万物の何世代にもわたる生活や繁殖は、こうした神性の法則や規則の下で行われる。これは創造主の権威が真に具現化されたものではなかろうか。」

『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身3」より

「神は万物の主である。万物を支配し、管理しているのは、神である。神は、存在するあらゆる物事を造り、管理し、また支配し、施す。これが神の地位であり、身分である。万物すなわち存在する全ての物事について、神の真の身分は創造主であり、支配者である。それが、神が所有する身分であり、神は万物にあって唯一の存在である。神の被造物のうちひとつとして、人間の世界にあるか、霊的世界にあるかを問わず、何らかの方法や申し開きにより、神の身分や地位を装ったり、神の代理となったりすることの出来るものはいない。なぜなら、万物を支配する身分と力、権威、そして能力を持つ者は、ただひとりしか存在せず、それが唯一の神自身であるからである。神は万物の中で生き、動いている。神は万物のうち最も高い場所へと昇ることができる。また神は、血と肉のある人間のひとりに身をやつし、人間と対面して苦楽を共にすることも可能である。それと同時に、神は万物に命じ、万物の運命や方向性を決定する。さらに、神は人類全体の運命と方向性を導く。このような神は、あらゆる生き物が崇め、付き従い、知るべき存在である。したがって、どの種類の人間に属するかを問わず、神を信じ、付き従い、敬うこと、またあなたの運命に対する神の支配と神の采配を受け容れることのみが、あらゆる人間や生き物にとって、必然の選択肢である。」

『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身10」より

神は私を救われた | 東方閃電

神は私を救われた、神は私を救われた。受肉して人となり、雨、風に耐え、人の間に隠れ、誰も彼を知らなかった。神は救うために私を裁き、清めるために懲らしめ、私は多くの痛みに苦しんだ。私は心から神を愛するようになり、神のやさしさと恵みを享受した。救いがなければ私の最後はすさんで、破滅し、何の恵みもない。救いがなければ私の最後はすさんで、破滅し、何の恵みもない。私の神なしには私はあり得ず、私が今日ここにいることは決してなかったであろう。神は私を救われた、神は私を救われた!神なしに私はあり得ず、今日ここにいることは決してないだあろう。神は私を救われた、神は私を救われた!私は永遠に神を賛美する。

神は語りかけ、私を目覚めさせて下さった。神の業が私を変えた。私に人生を与えて下さった、私は心から神に感謝する。私の真の愛を神に捧げ尽くしたい!背きの罪はまだ私の内にあるが、私は神の麗しさを見た。どんな試練が来ても、私は決して神を離れない。私は自分ことばかり考え、一度も神を愛さなかった。神を苦しめ涙させ、その心を引き裂いた。私は自分の腐った性質を憎む。私は神を慰めるつもりだ。私は神を慰めるつもりだ。救いがなければ私の最後はすさんで、破滅し、何の恵みもない。救いがなければ私の最後はすさんで、破滅し、何の恵みもない。私の神なしには私はあり得ず、私が今日ここにいることは決してなかったであろう。神は私を救われた、神は私を救われた!神なしに私はあり得ず、今日ここにいることは決してないだあろう。神は私を救われた、神は私を救われた!私は永遠(とわ)に神を賛美する。神なしに私はあり得ず、今日ここにいることは決してないだあろう。神は私を救われた、神は私を救われた!神なしに私はあり得ず、今日ここにいることは決してないだあろう。神は私を救われた、神は私を救われた!私は永遠(とわ)に神を賛美する。

更に多くの内容:

真の変化とは何を意味するのでしょうか? | 東方閃電

終わりの日における神の裁きの業の意義 | 東方閃電

 

裁きをくだすことにおける神の業は人の性質全てを二、三の言葉で明確にすることではなくて、長い時間をかけて、人を露わにし、人を取り扱い手入れすることなのである。このような形の取り扱いは ありふれた言葉では置き換えようがなく、人が根本的に持たない真理のみがそれを行うことができる。このような業だけが裁きと呼ぶにふさわしい。このような裁きのみが人を心の中でも、口にする言葉、人の内側、外側においても、神に従わせ、真に神を知るようにさせることができる。

裁きの業によって人は神の顔そのものと自分の反抗の真相を知る。「それは人に神の業の背後にある目的と意図、また、人には理解できない奥義を知らせる。」それは人が自らの堕落を知り、自分自身の醜さを見るのを助ける。このような業だけが裁きと呼ぶにふさわしい。このような裁きのみが人を心の中でも、口にする言葉、人の内側、外側においても、神に従わせ、真に神を知るようにさせることができる。

神の業のこれらの効果は裁きの業を通してもたらされる。なぜなら本質的に、それは神を信じる全ての者に神の真理、道、そしていのちを現すことだからである。これが裁きにおいて神が為すことである。このような業だけが裁きと呼ぶにふさわしい。このような裁きのみが人を心の中でも、口にする言葉、人の内側、外側においても、神に従わせ、真に神を知るようにさせることができる。

もっと知る:三位一体 | 東方閃電

私はなぜパリサイ人の道を歩んでいたのでしょうか | 東方閃電

私は傲慢で、うぬぼれた人間です。地位は常に私の最大の弱点でした。何年もの間、私は評判と地位に縛られ、自分を解放する事ができない状態にありました。昇格されては、異動させられるという事を何度も繰り返してきました。自分の地位を担う中、何度も挫折を経験し、これまで多くの難関を乗り越えてきました。何年にも渡って取り扱われ、精錬された後、私は自分の地位に重きを置かなくなったと感じました。リーダーの地位を維持してさえいれば、神に完全にしていただける、リーダーでなければ、もう希望がない、と考えていた昔の自分には戻りたくありませんでした。どんな本分を尽くしていようとも、真理を求めてさえいれば神に完全にしていただける、評判と地位を追い求めるのはキリストの敵のあり方であると理解しました。現在、私は、どの本分を尽くしているかに関係なく、地位を与えられなくても構わないと感じています。神の創造物がそれぞれの役割を果たす事は天地の律法です。どこに配置されるかは関係ありません。神の采配を受け入れるべきです。名声と地位を取り巻く堕落が現れたら、真理を求めて解決する事ができます。私は、自分の本分を尽くす中でどのような事態に遭遇しようとも、真理を理解できてさえいれば喜んでその代償を払うでしょう。この点から見ても、私は既に真理を求める道を歩んでいたと思っていました。私は人間性と理性を取り戻せていたと思っていました。神は心を探り、精神をつぶさに調べます。神は、私が不純な動機で真理を求めていた事、真理を求める道を歩んでいなかった事を知っていました。そして神は、私を清め、救うための手段も分かっていました。

2013年の6月末に、ここのリーダーが異動となりました。その後、私は兄弟姉妹達から新リーダーに抜擢されました。神の家族は私が昇格し、新しい働きを担う事を許可しました。このような重大な責任を負う事になると聞いて、真理の現実性を知らぬ私はそのような働きはこなせないと感じました。働きの範囲はとても広く、兄弟姉妹も沢山いました。どうやって私が皆の先頭に立てるというのでしょうか。異動となった人の中には私よりも素質のある人が大勢いました。私がどうやってこの人達よりも優れた働きができるというのでしょうか。私の現状が露見してしまうのではないでしょうか。私は苦労するのが嫌だったのです。私は、自分の本分を尽くす事ができる限り、仕事がどこで必要となろうと最善を尽くします。結局、私は、「いいえ、私はこの働きに適任ではありません。……」と言ってその場で辞退ました。私はありとあらゆる理由と言い訳を見つけました。このように判断した自分は理にかなっていて、自分の話した事も真実だと完全に信じていました。後ほど、私は、兄弟姉妹達の交流によって、赤い大きな竜の毒、すなわち、「高く上がれば上がるほど落ちた時の衝撃が強くなる」や「上に上がれば上がるほど寒くなる」といった姿勢が自分の内にあった事に気が付きました。私は高い地位を持つ事でまた辛い経験をするのが嫌だったのです。私は、先程言った人達が異動となった理由は、真理を追い求めていなかっただけでなく、本性が悪質過ぎ、ありとあらゆる悪事を働いていたからだと理論的には分かっていましたが、私は心の奥底で、自分が偉大なリーダーでなければ、悪事を働く機会すらないはずだと信じていたのです。私はこうして自分を守ろうとしていたのです。そして、現在の家族と私の将来性を失い、大きな赤い竜に追われる事について考えました。もし偉大なリーダーになったとしても、最終的に神の性質を害するような事をして、真理を抱いていなかった事を理由に除名されるような事になったら、私は生きていけなくなってしまいます。こういった観念と毒に縛られていた私は、暗闇の中で苦しみながら生きていました。痛みの中で私はこう神に助けを求めました。「ああ、神様。この責任に直面し、私は、あなたが私を引き上げてくださったのだと分かっております。この責任を拒む事は、神様を裏切る事になると分かっております。そんな事はしたくありません。私は神様の怒りをかう事を畏れています。しかし、私は今、サタンの毒に縛られながら生きていて、抜け出す事ができません。私はこの大きな責任を担う事が心配でなりません。私の本性は危険でないか、真理を抱けていないのではないか、重大な悪事を働いて罰を受けるのではないかと心配です。ああ、神様、私は痛みを感じながら、困惑しています。神様の御救いとは何か、神様にどう服従すればよいのかも分かりません。神様どうか、私を御助けください、どうかお救いください。」私が祈りを捧げていると、神様は私に次の御言葉を啓示してくれました。『地上の神をどのように知るか』の一節を読みました。「このような誤解だけなどではない。神の霊への冒とくや天に対する悪口、それらがあなた方のわたしに対する見識だ。だからわたしは、あなた方の信仰はわたしから遠ざかり、わたしに強く反発するだけだと言うのだ。何年もの間、あなた方は多くの真理を見てきたが、わたしの耳に何が聞こえたのか分かるだろうか。あなた方の中で真理を受け入れる意思がある人はどれくらいいるだろうか。あなた方は真理のためにはどんな代償でも払うと信じているが、真理のために本当に苦しんだ人はどれだけいるだろうか。あなた方の心の中にあるものはすべて不義であるため、誰でもみな狡猾でねじ曲がった者だと思い込んでいる。……」神の裁きの御言葉はまるで突き刺さる雷のようで、私の困惑と痛みは畏れと化し、身震いがしました。特に、「神の霊への冒とくや天に対する悪口」と「あなた方の心の中にあるものはすべて不義であるため」といった言葉はまるで心に刺さる剣のようで、神の性質の義、威厳、怒りを感じました。私は、現在、まさに神に抵抗し、神を冒涜し、とても痛ましい状態にある事が分かりました。これにより私の反抗的な心は好転を遂げ、私は神の前に平伏し神に服従しようと求めました。私は明らかになった自分の部分をよく検討してみました。長年の間、神の裁きと刑罰を何回受けたかは分かりませんが、私は神を知らなかっただけでなく、神を誤解し、警戒までして状況をさらに悪化させていました。私は、まるで神の働きが人にとって煩わし過ぎると言わんばかりに、理にかなわない事を全てを神のせいにしていました。神の働きを長年受けていたにもかかわらず、私の神との関係は距離が縮まっても、普通になってもいませんでした。むしろ、私は神をますます敬遠し、遠ざかっていたのです。神と私の間には、私が超えられない隔たりがありました。これだけの年月が過ぎ去った後、私はこんなものしか得られていなかったのでしょうか。この時私は、自分の利己的で哀れな本性が自分の良心を裏切るように仕向けていた事に気が付きました。神が私のために払ってくださった犠牲を忘れていました。私は、神からの御救いと御教化を忘れていました。この時、私は再度神に祈りを捧げました。「ああ、神様、私は今後、サタンの毒に従って生きる事を止め、二度とあなたの御心を傷つけたりはいたしません。神様の裁きと刑罰を受けて、自分の誤った観点を変えてみせます。」その後、私は兄弟の交わりから6月15日に発行された次の説教を読みました。「神を愛さない者は全員キリストの敵の道を歩んでおり、最終的には暴かれ、除外されます。世の終わりにおける神の働きは人々を救い、完全にする事で、救われない邪悪な人々は全員が暴かれ、除外されるのです。したがい、人はそれぞれが同類の行く道を歩む事になるのです。地位と権力を乱用して悪事を働き、それを暴露される人がなぜこれほど多くいるのでしょうか。それは、その者達の地位が問題なのではありません。根本的な問題は人の本性の本質にあります。地位は間違いなく人の中身を明らかにします。しかし、親切な人が高い地位にいたとしても、さまざまな悪事を働く事はありません。地位が高くない人の中にも悪事を働かない人はいます。表面的には善良な人に見えても、地位を得たとたんに様々な悪事を働きます……」(『いのちの供給ための説教集』の「あなた達は神に完全にしていただくために神の御言葉の真理の現実性に入る必要がある」より)。私は、この交流を通じて、自分の心の中にあった観念がどれだけ不合理で非常識であったのかが分かりました。人が皆真理を求める道を歩んでいけるかどうかという事は、高い地位に就いているかどうかは関係がありません。高い地位に就いているがために真理を求める道を歩む事が難しくなる訳でもありません。大切な事は、人が本質的に真理を好んでいるかどうかや、人が神を愛しているかどうかにあります。私は、「自分自身を抑制して」過ごした長い年月において、私は自分の地位に重きをおかず、まるで大きな木に育つ事を求められずにいる雑草のようだと思いながら、真理を求め、本分を尽くす事に対して正直に向かい合えていると思っていました。神の家族が自分の代わりに他の人を昇格させていても、以前のように辛さや弱さを感じたり、否定的になったり、絶望する事はありませんでした。こういった考えを持てているからこそ、私は、自分の性質がある程度は変化を遂げ、自分は既にペテロの道を歩んでいるのだと信じていました。今日、私は、事実と真理を踏まえて自分の本性をはっきりと見る事ができました。私は自分の地位を手放そうとせず、むしろずる賢く、悪知恵を働かせていました。何度もこれを経験しているにもかかわらず、私は依然として自分の心を神に捧げておらず、正直に神を愛そうともしていませんでした。むしろ私は自分を守ろうとしていました。将来性といったものが常に心の重荷となっていました。私は「高い地位に就くのは危険だ」という不合理な観念を心の中に植え付けていたのです。私が神に愛を示し、ペテロの道を歩めていた訳がないのです。

自分の誤った観点について、私は『あなた達が原則を持って物事に対応するために入る必要のある真理の現実』に記載された原則131「自分の本分と地位を実証する原則」および原則155「神のために費やす原則」を読みました。これらの原則の中にこのペテロが捧げた祈りの言葉がありました。「あなたは私ができることを御存知で、私の役目ももっとご存知です。あなたの願いは私の指令で、私はあなたに持っているもの全てを捧げます。私があなたにできることはあなただけが御存知です。サタンは私をずいぶん欺き、私はあなたに反抗したけれども、あなたはこのような罪を犯した私を覚えておられず、それを基準に私を取り扱われないと信じています。あなたに私の全人生を捧げたいです。私は何も求めませんし、他の望みも計画も持っていません。私はただあなたの意図に従って行動し、あなたの御心を行うことを望むだけです。あなたの苦い杯から飲み、私はあなたの意のままです。」そして「人の本分とその人が祝福を受けるか呪われるかの間には、何の関係もない。本分は人間が全うすべきことだ。それは人間が果たすべき必須の使命であって、報酬や条件、理由に左右されるべきではない。そうしてはじめて、本分を尽くしているといえるのだ。祝福された人は裁きの後で完全にされた時に、幸いを享受する。呪われた者は、刑罰と裁きの後もその性質が変わらないのなら、即ち完全にされていないなら、罰を受ける。被造物として、祝福されるか呪われるかに関わらず、人間はその本分を果たし、自分のするべきことをし、できることをしなければいけない。これが神を求める者として、人間の最も基本的な条件である。あなたは幸いを受けるためだけに本分を果たそうとしてはいけない。また、呪われることへの恐れから、行動することを拒んではいけない。一つだけ言っておこう。人間が自分の本分を尽くすことができるということは、その人がしなければいけないことを遂行するということだ。もし人間が本分を尽くせないのなら、それはその人の反抗心の現れである。」神の御言葉から、ペテロは彼の人生を通じて心から神を愛せるようになろうと求めた事や、全てにおいて神の采配に従っていた事が分かります。彼は自分で物を選択したり、要件を課したりしませんでした。彼は神がどのような采配をされようとも常にそれに従ったのです。最終的に、彼は創造物としての自分の本分を尽くし、神に自分のいのちと極めて深い愛情を捧げました。ペテロが神を信仰する事に成功したのは、高い地位を持っていたからではありません。彼は使徒であり、主イエスが彼に教会を引率する重要な任務をお与えになりました。しかし彼は使徒としての立場で働いていたのではありません。彼は無名で知られてすらいない者だったのです。しかし、彼は創造物としての自分の本分を尽くすため、神を心から愛するため、そして神に服従するために勤勉、かつ誠実に取んだのです。彼は自分の本分を尽くす事に最善を尽くす事で神を満足させる事ができたのです。これが彼の成功に隠された秘訣です。私は、自分をペテロの祈りと神の御言葉による裁きおよび刑罰と対比して、とても恥ずかしくなりました。神の御言葉は私の心に響き、私は神に対し不従順で、反抗していた事を知りました。神を信じるにあたり、私は常に希望と計画を維持したのです。長年の間、私は、自分の終着点、将来性、名声、利益に地位を手にしようと走り回っていました。私は、自分の本分を幾分か尽くした時点で神と取引をし、自分が救われる事を確実にしようと神から承認を得ようとしたのです。神に対してこんな要件を課した事で、自分の中にいたサタンの本性が利己的過ぎる、嘆かわし過ぎる、そして邪悪過ぎる事を明らかにしました。私には神の創造物が持つべき知性と良心が全くありませんでした。人間らしい本性などは微塵もありませんでした。私は自分の不誠実な本性により任務を断ったのです。私は自分を守るために神からの御召命を断ったのです。そればかりではなく、私は非常識な根拠を用いて言い訳を見つけようとしました。私は、まるでこれが理性的な事であるかのように神と話をしていたのです。私は、まぎれもなくサタンの共犯者で、神の敵でした。この時、私は神の次の御言葉を読みました。「人間が自分の本分を尽くすことができるということは、その人がしなければいけないことを遂行するということだ。もし人間が本分を尽くせないのなら、それはその人の反抗心の現れである。」私は、自分の良心に深い自責を感じました。私は、自分の持っていたものは全て神がくださったものであり、自分が行う事ができたもの、経験したものは全て神が御用意してくださったものであったのだと、あらためて考えました。私が自分の理性と良心を取り戻せるように、創造物としての本分を真の形で尽くす事ができるように、神の裁きと刑罰が幾度となく私に降りかかってきました。神が私に何を必要とされようと、私は自分を神に捧げ、神の愛にお応えするべきでした。そうしなければ、それは神に対する裏切りであり、私は罰を受けるべきです。神の御言葉による裁きと刑罰はついに私の誤った観念を改め、私の良心を呼び覚ましてくださいました。今日、問題は、神からの任務は誰かが取り決めたかどうかという事ではありません。むしろ、長い年月に渡って私が歩んできた道と、その過程で私が何を求めてきたのかを神が試しているという事です。現在、私は真理の現実を知らず、霊的背丈も低い状態です。神が私にこの責任を与えたのは、私が現在、適任であるからではありません。むしろ、神は、真理を求める事、訓練を受け入れる事において、私を成長させようとしています。これは私が自分自身を神に捧げ、私の心と魂、力そして精神の全てをもって、神を愛する実際に入る事を余儀なくさせます。私は以前、不合理な観念を持って生きていました。自分の本分と地位をよく確かめていたつもりでしたが、このような態度と経緯の中で自分の本分を尽くしていた時、私は大した精錬を受けてもいなければ、大したプレッシャーも感じていませんでした。しかし、現状に満足する私の姿が自分の堕落した性質を明らかにしました。それは私の利己的で嘆かわしい観点を明らかにしました。私は神を信じながら自分の本分を尽くそうとしていましたが、神の御心を満たしておらず、神を愛するために最善も尽くしてはいませんでした。この時、私は我に返る事ができました。これ程の年月が過ぎた今、私は既にペテロの歩んだ道を歩みながら真理を求めていると思っていました。しかし、今日、私は自分の将来性を最も重視していたという事が事実として明らかになりました。私は神を全く愛しておらず、重い負担に耐える気もなく、神に自分の全てを捧げる気もありませんでした。こんな事がペテロの求めていた事に一致している訳がありません。

私は、検索した中から、「神に選ばれた人々が受け実践する必要がある神の言葉100節」の中から2節を読みました。「人は、被造物としてその本分を尽くすこと、そして他の選択肢を持たないで神を愛することを追い求めるべきなのである。それだけ神は人に愛される価値があるのである。神を愛することを追い求めるのであれば、それ以外の個人的な利益あるいは望みを追い求めてはならない。そしてこれが追求の最も正しい形である。」「あなたが追い求めるものが真理であり、実践することが真理であり、それによってあなたが得るものが自分の性質の変化であるなら、あなたが歩む道は正しいのである。もしあなたが追い求めるものが肉的な祝福であり、実践するものが自分の考える真理であり、自分の性質に変化がなく、また肉において神に全く従わず、未だ曖昧さの中に生きているのであれば、あなたの追い求めるものはあなたを確実に地獄へと導くであろう。なぜなら、あなたの歩む道は失敗の道だからだ。あなたが完全にされるか排除されるかは、あなた自身の追求にかかっている。つまり、成功するかどうかはその人の歩む道にかかっていると言える。」(『言葉は肉において現れる』の「成功するかどうかはその人の歩む道にかかっている」より)神の御言葉は真理であり、真の道であり、そして、いのちです。そして、この時私は、自分の現状を神の御言葉の2節ともう一度すり合わせて、神の御言葉が既にペテロの歩んだ成功への道についてだけでなく、成功への道とは何かという事まで明らかにされていた事に気付きました。ペテロが成功した理由を、高い地位を求めなかったためや、本分を選んだためとは記載していませんでした。単に否定的な部分を克服するという事ではなく、それよりも、神を愛する事を積極的に求め、創造物としての本分を尽くす事と記載されていました。さらに、正しい道を歩む事で、神をより深く知り、真理を求め実践する事でますます服従できるようになり、利己的な要件、希望、不純な動機を持たなくなる等、沢山の肯定的かつ真の結果を生み出す事ができます。あなたの性質は変化を遂げ、何よりも、人々はより好適な形で真理に入れるようになり、神をますます心から愛せるようになります。この結果、人々は自分自身を完全に神に捧げ、それ以外には何も求めずに、人生を通じて神を愛する事に努めるようになります。私は、自分が正しい道を歩んでおり、既にいくつかの真理の現実性に入っているとも思っていました。しかし、明らかにされた真実において、私が真理を得て性質の変化を遂げた事についてはどこで明らかにされていたでしょうか。私が神を心から愛している事についてはどこで明らかにされていたでしょうか。私が真理に入れていたのならば、神から試されても耐える事ができるはずです。神が何を用意しても、私はそれに服従できるはずです。真理に入れているのなら、自分の中にいるサタンの本性の本質を見抜き、真の形で神の御救いを目にする事ができるはずです。神に対してもっと自分を捧げ、神の愛に応えたくなるはずです。これらの事実と神の裁きおよび刑罰を目の当たりにし、私は間違った道を歩んでいたのだと分かりました。私は神の創造物としての本分を尽くす道も、神を愛するための道も歩んでいなかったのです。むしろ、私は自分の利己的な関心と個人的な希望を求める道を歩んでいました。それは、自分を守り、自分が確実に終着点に辿り着けるように、無理やり従い、わずかな代償を払いながら神を欺く道でした。私は常に肉の欲求を満たす事を求めていたのです。一時的な平安を満たすために、神の裁きや刑罰を受け、真理を得ようとしていませんでした。私は、神の裁きや刑罰、そして試練と精錬を通じて、神を愛そうと、神に全てを捧げようと、神のために全てを費やそうとしていませんでした。私は、心の奥底では、「本分を円満に尽くす事を求めて、神の性質に背かなければ良い。最終的には良い終着点に至るから、それで十分だ」という見方をしていました。神の御言葉は、パウロが失敗した根本原因は神と取引をしようとした事にあると、何度も示されています。彼は将来の報いと名誉のために働き、創造物の主に対する服従と愛を全く抱いていませんでした。最終的に、彼は失敗し、神の罰を受ける結果となりました。神の御言葉は私達に対してこのように明確に忠告しています。「自分の終着点のために努力する者は、最終的に失敗するであろう。なぜならば、神への信仰における人々の失敗は偽りに起因するからである。」(『言葉は肉において現れる』の「終着点について」より)このような投資は誠実な動機では行われません。それは見せかけで、欺きの行為です。私は実に頑固な態度で、自分自身の選んだ道を歩み、神の御言葉の裁きを受ける事を避けていました。自分の本性に支配されていた私は、常に失敗した人の道を歩んでいました。神の御救いの働きが私に向けられた時、良し悪しの区別がつかず、恩をあだで返していました。私がした事と言えば、神を誤解し、抵抗し、裏切る事のみでした。この時、私は自分の本性がどれだけ利己的で、嘆かわしく、悪質であったかが明確に分かりました。長年神を信仰し、神を喜びとしてきたにもかかわらず、私は神に対する計略を企み、神と取引をする機会を絶えず伺っていたのです。私は心の中で全く神を愛していませんでした。これこそが、私が間違った道を歩んでいた理由で、正に神が仰られていたことなのです。「人は、神にそのすべてを捧げることが得意でなく、創造主に対する本分を進んで尽くそうともせず、真理を知ったにも関わらずその道を避けて自分の道を行き、これまで失敗した人の道に沿って追い求め、常に天に背くことで常に失敗し、サタンの誘惑に負け、自らしかけた罠に落ちてしまうのである。」(『言葉は肉において現れる』の「成功するかどうかはその人の歩む道にかかっている」より)

その後、私は兄弟の説教を読みました。「このような不安を必然的に抱えてしまう人達がいます。『私は自分の本分を尽くしていますが、キリストの敵の道を歩んでしまう事を恐れています。何か間違った事を犯して神に逆らってしまう事を恐れています。』このような不安を抱えている人は多くいるのでしょうか。特に、働き手やリーダーとして仕える人達は、真理をとても熱心に求め、才能があり、善良な精神を持っていたにもかかわらず、結局は堕落してしまう人を目のあたりにする事があります。これらの人は説教にとても長けており、詰まるところ、リーダーたちはこのような人も堕落してしまうとは予測しないでしょう。彼らはこう言います。『私がこれらの事をしたら、彼らと同じように堕落してしまうのでしょうか。』あなたが神を愛しているなら、それでもこのような事を恐れるでしょうか。神を心から愛しているのなら、それでもこのような不安にコントロールされるでしょうか。神を愛する人達は常に神の御心に配慮し、間違った事はしないものです。……キリストの敵の道を歩む事と、真理を求め完全にされる道を歩む事を区別できるのなら、なぜキリストの敵の道を歩む事を恐れるのですか。それを恐れているという事は、あなたが依然としてその道を歩みたがっており、そしてあなたが過ちの道を捨て去りたくないという事を証明しているのではないでしょうか。問題はそこにあるとは思いませんか。」(『いのちに入ることに関する交わりと説教 第九巻』の「神の愛を求め、神の証言をする方法」より)兄弟の説教による私は、神を愛していない人達はキリストの敵の道を歩んでおり、神を愛していない事が失敗につながる原因なのだと、より明確に分かりました。さらに、自分の中に潜んでいたサタンから受けていた根拠や口実もよりはっきりと分かりました。サタンの策略を見抜く事ができたのです。大きな責任を負いたくなかった事と失敗につながる道を歩む事を恐れていたという事は、私の本性が利己的で、嘆かわしく、邪悪であった事を明らかにしていたのです。それは、私が自分自身とサタンを深く愛していた事、そして地位と名誉、および将来性と終着点を求めるという、キリストの敵が歩む道を嫌ってもいなかった事を明らかにしたのです。私は真理を大切にしてもいなければ、神を全く愛していませんでした。兄弟の説教の言っていた、長年に渡り神を信仰したけども神を全く愛していなかった人々は人間性を抱いていなかったという事もよく理解できました。彼らは皆、何らかの邪悪な本質を持っていたと言っても過言ではないでしょう。この者達は皆、利己的で、嘆かわしく、邪悪な人達でした。このようにして、私は自分の本性の本質について確かな認識を得ました。同時に、私がこれ以上、利己的に嘆かわしく生き続ける事がないように、私の間違った観点を改め、それから私を解放し、正しい方向と実践の道に仕向けてくれました。全ては神が御取決めるものであり、私はただ、自分の本分を尽くしながら、真理を真の形で求め、神への愛を実践していれば良いのです。

私は、裁きと刑罰をもって私が求めていたものを改め、過ちの道から引き戻してくれた神を讃えます。おかげで、私は自分の中にいたサタンの持つ本性の本質を正確に見分け、自分の失敗を引き起こしていた根本原因を見い出す事ができました。私は長年に渡り神を信仰してきたにもかかわらず、決して神を愛してはいませんでした。私は恥と自責の念に駆られました。神を本当に失望させ、傷つけてしまいました。私は神に対する真の愛を育む事を心から渇望しています。ペテロは神を心から愛し、真理を求める意思と不屈の努力を持っていたからこそ、完全にされました。私はそこからかけ離れた状態にありますが、これからは、これまでのように、自分を守ろうと卑劣で醜悪な生き方はしません。神を愛する事をこの先の追求の目標とし、努力を惜しまず、自分の本分を尽くすために必要な犠牲を払っていきます。私は、自分の本分を尽くしながら誠実に自分に課された責任の重荷を背負い、真理を実践し、そして神を愛する現実に入っていきます。

山西省 蘇醒