東方閃電-小羊の足跡に従っていくこと

東方閃電全能神教会は世界に”神様が帰ってきた”ことを公に証ししています。彼は再臨の主イエスです。神様の羊は神様の声を聞き分けます。多くの真理を渇仰する人は、東方閃電全能神教会を考察します。

神はなぜ神の働きを受け入れ従う教会のみを祝福するのか。なぜ神は宗教団体を呪うのか。

関連する神の言葉

「なぜなら、宗教の中にいる者は神の新たな業を受け容れることが出来ず、旧来の業に固守するだけであり、したがって神はそうした人々を見捨てて、神の新たな業を受け容れる人々に対して、その業を行うからである。そうした者は神の新たな業において協力する者であり、神の経営計画を完遂出来るのは、その方法によるほか無い。」

『言葉は肉において現れる』の「神の業と人間の実践」より

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聖霊の流れの中にいる者全員が聖霊の存在と鍛錬を備えており、聖霊の流れの中にいない者はサタンの支配下にあり、そうした者には聖霊の業が不在である。聖霊の流れの中に居る者は、神の新たな業を受け容れ、それに協力する者である。⋯⋯聖霊の新たな業を受け容れる者は聖霊の流れの中で生活し、聖霊の慈しみと守りを授かるであろう。真理を実践することを望む者は、聖霊により啓かれ、真理を実践することを望まない者は、聖霊から鍛錬を受け、罰を受けることさえあるであろう。そうした者がどのような人間であれ、そうした者が聖霊の流れの中にいる限り、新たな業を神の名において受け容れる者全てについて、神は責任を負うであろう。⋯⋯しかし、新たな業を受け容れない者は、この限りでは無い。そうした者は聖霊の流れの外に居て、⋯⋯聖霊の流れの中に居ない者の行動は、いずれも聖霊の新たな業と無関係である。そのため、そうした者がどう行動するかを問わず、そうしたものは聖霊の修練を欠いている上、聖霊の啓きを欠いている。何故なら、そうした者は全員真理への愛が一切無い者であり、聖霊から嫌い捨てられた者だからである。そうした者は邪悪を行う者と呼ばれる。何故なら、そうした者は肉にあって歩み、神の看板の下に、自分が満足するあらゆる物事を行うからである。神が業を行う間、そうした者は神に対して故意に敵意を抱き、神と反対方向に向かって走る。人間が神と協力しないことは、それ自体が最も反逆的であり、そうした人々の故意による神からの逃避に関しては、言うまでも無い。それでは、そうした人々は然るべき罰を受けるのではないだろうか。そうした人々の邪悪な行いを述べると、そうした人々を呪わずには居られない者も居るが、神はそうした人々を無視される。人間にとって、そうした人々の行為は神の名に係わるもののように思われるが、実際には、そうした行動は神の名や証には何の関係も無い。そうした人々が何をしたとしても、それは神と無関係である。その行動は、神の名とも、神の現在における業とも無関係である。そうした人々は自分自身を辱め、サタンを示している。そうした人々は邪悪を行う者であり、怒りの日の看板を掲げている。現在、そうした者の行動を問わず、そうした者は、神の経営を阻害せず、神の新たな業と無関係である限り、相応の罰の対象とはならない。なぜなら、怒りの日はまだ到来していないからである。神が既に取り扱われているべきであると人々が考えている物事は多数あり、人々はそのような邪悪を行う者は、出来るだけ早く罰を受けるべきであると考えている。しかし、神の経営の業は未完了であるため、また怒りの日がまだ到来していないため、不義な者は不義な行動を行い続ける。宗教に参加している人々には、聖霊聖霊の業が存在しない、またそうした人々は神の名に恥辱をもたらす、という者も居る。それならば、何故神はそうした人々を滅ぼさずに、そうした人々の抵抗に寛容にしているのであろうか。そうしたサタンの現れであり、肉を示す人々は、無知で低能な人間であり、不合理な人間である。そうした人々は、神が人間の中でどのように業を行うかを理解する前に、神の怒りの発生を見のあたりにすることは無く、そうした人々が完全に征服された後、そうした邪悪を行う者は、全員罰を受け、一人として怒りの日を逃れることが出来ないであろう。現在は、人間の罰の時では無く、征服の業を行う時であるが、神の経営を阻害する者が居る時はこの限りでなく、その場合、そうした人々は、行動の深刻度により罰を受けるであろう。神が人類を経営されている時、聖霊の流れの中にいる者は、全て神と関連する。聖霊に嫌い捨てられた者はサタンの影響下で生活し、そうした者が実践する物事は、神と一切無関係である。神の新たな業を受け容れ、神と協力するものだけが、神との関連性を持つ。なぜなら、神の業は、人間がそれを受け容れるかどうかを問わず、人間全員ではなく、それを受け容れる者だけを対象とするからである。神が行う業には常に目的があり、業は気まぐれで行うものではない。サタンと同盟している者は、神の証しに立つ者として不適であり、いわんや神と協力する者として適してなどいない。」

『言葉は肉において現れる』の「神の業と人間の実践」より

「神に従う中で最も重要なのは、すべては神の現在の言葉に拠らねばならないということである。いのちに入ることを求めているのであれ、神の心にかなうことを求めているのであれ、すべては神の現在の言葉を中心にしなければならないということである。親しく交わり求めるものが神の現在の言葉を中心にしていなければ、あなたは神の言葉を知らない人であり、聖霊の働きを完全に失っている。神が求めるのは神の歩みに従う人々である。あなたが前に理解したことがどれほど素晴らしく純粋であっても、神はそれを求めておらず、そうしたことを脇へやることができないなら、それは将来あなたが真理に入るときの大きな障害になるだろう。聖霊の現在の光に従うことができる人々はみな祝福されている。⋯⋯聖霊の現在の働きに従うことができ、神の歩みに従える人々は、神が導くところがどこであろうと神に従うのだが、神に祝福されている。聖霊の現在の働きに従わない人々は神の言葉の働きに入っておらず、どれほど働こうとも、苦しみがどれほど大きくとも、どれほど右往左往しようとも、そのどれも神には意味がなく、神はそんな人々を賞賛しないであろう。今日、神の現在の言葉に従う人々はみな聖霊の流れの中にある。神の現在の言葉を知らない人々は聖霊の流れの外にあり、そのような人々を神は賞賛しない。聖霊の現在の言葉から離れた奉仕は肉の奉仕であり、観念の奉仕であり、神の心に従うことができない。人々が宗教的観念の中に生きるなら、神の心に見合うことをすることはできず、たとえ神に奉仕しても、それは想像や観念のただ中での奉仕であり、神の心に従って奉仕することはまったくできない。聖霊の働きに従うことができない人々は神の心を理解せず、神の心を理解しない人々は神に奉仕できない。神は神自身の心に従う奉仕を望む。神は観念と肉の奉仕を望まない。人々が聖霊の働きの歩みに従うことができないのであれば、観念の中に生きているのであり、そのような人々の奉仕は中断し混乱する。その奉仕は神に反し、そのため神の歩みに従えない人々は神に奉仕できない。神の歩みに従えない人々は、間違いなく神に反対しており、神と調和できない。『聖霊の働きに従う』とは、今日の神の心を理解し、神の現在の要件に従って行動することができ、今日の神に従順で服従することができ、神の最新の言葉に従っていのちに入ることを意味する。このような人のみが聖霊の働きに従い、聖霊の流れの中にいる。そのような人々は神の賞賛を受け、神を見ることができるばかりでなく、神の最新の働きから神の性質を知ることができ、そして人の観念や不従順、人の本性と本質を神の最新の働きから知ることができる。さらに、奉仕の過程で自らの性質をだんだんと変えることができる。このような人々のみが神を得ることができ、真の道を純粋に見つけた人々である。聖霊の働きにより排除される人々は、神の最新の働きに従うことができず、神の最新の働きに反逆する人々である。そのような人々が公然と神に反対するのは、神が新しい働きを為し、神の姿が彼らの観念にある神の姿と同じではないからである。その結果、公然と神に反対し、神を非難し、そのため神により嫌悪、拒絶される。神の最新の働きの認識を持つのは簡単ではないが、しかし意図的に神の働きに追従し、神の働きを求めることができれば、神を見、聖霊の最新の導きを得る可能性が得られるだろう。神の働きにわざと反対する人々は聖霊の啓蒙や神の導きを受けられない。そのため、神の最新の働きを受けることができるか否かは神の恩寵次第であり、人々の求め次第であり、人々の意図次第である。」

聖霊の現在の言葉に従うことができる人々はみな祝福されている。そのような人々が過去どうであったか、聖霊が人々の中でどのように働いていたかは問題ではない。最新の働きを得た人々は最も祝福され、今日の最新の働きに従えない人々は排除される。」

『言葉は肉において現れる』の「神の最新の働きを知り、神の歩みに従う」より

「神の足取りに緊密に追随出来ない者は、そうした生活を得ることが出来ない。そうした者は自ら闇へと沈み、そこで泣きながら歯ぎしりするであろう。そうした者は神を信じているが神に付き従わず、神の業の一部に従わない者である。人間は、神を信じているのであれば、神の足取りに緊密かつ段階的に追随する必要がある。人間は『子羊が行く場所であれば、どこへでもついて行く』必要がある。そうした人々のみが真の道を求める者であり、聖霊の業を知る者である。奴隷のように文字や教義に従う人々は聖霊の業により既に排除された者である。各期間において、神は新たな業を開始し、人間には新たな始まりがあるであろう。人間が『ヤーウェは神である』ないし『イエスはキリストである』といった、ある1つの時代のみに該当する真理のみに従うのであれば、人間は聖霊の業と足並みを揃えることは決して出来ず、聖霊の業を得ることは永遠に出来ないであろう。神がどのように業を行うかを問わず、人間は全く疑うこと無く、緊密に付き従う。このような場合、どうして人間が聖霊により排除されることがあろうか。神がどのような業を行うかを問わず、それが聖霊の業であることを人間が確信し、人間が何も疑わずに聖霊の業に協力し、神の要求を満たそうとする限りにおいて、どうして人間に罰が与えられることがあろうか。⋯⋯人間は、イスラエルの民が『ヤーウェのみを信じてイエスを信じなかった』のは誤っていると考えるが、殆どの者が『ヤーウェのみを信じてイエスを拒絶する』役そして『メシアの再来を待ち望み、しかしイエスというメシアに反対する』役を演じている。それならば、人間が聖霊の業のうちひとつの段階を受け容れた後も、依然としてサタンの領域で生活し、依然として神の祝福を受けていないことに、何の不思議も無い。これは、人間の反逆性の結果ではなかろうか。現在の新たな業から遅れている世界各地のキリスト教徒は、自分達が幸いな者である、神は自分の望みを全て満たすであろうという考えに固執している。しかし、そうした者は神が自分達を第三の天へと引き上げるのが何故かを明確に述べることが出来ず、イエスがどのようにして白い雲に乗って自分達を採り集めるかについても確信しておらず、ましてや自分達が想像している日に、本当にイエスが白い雲の乗って来られるかどうかを絶対的な確信を持って述べることなど出来ない。そうした者は皆不安であり、迷っている。そうした者は、各教派で讃美する少数の多様な人間である自分達を神が全員引き上げられるかどうかさえ知らない。神が現在行っている業や、現在人間が存在する時代、神の心といった物事について、そうした者は全く把握しておらず、自分の指で日数を数える事しか出来ない。最後まで子羊の足取りに追随する者のみが、最後の祝福を得ることが出来るが、そうした最後まで付き従えないにもかかわらず、自分が全てを得たと考えている巧妙な者は神の姿の証しに立つことが出来ない。そうした人々は全員、自分が地上で最も賢いと信じており、何ら理由なく神の業の継続的な展開を中断させ、そうした『神に対する至高の忠義があり、神に付き従い、神の言葉を遵守する』自分を、神は天に引き上げられると、完全な確信を持っているようである。そうした者は、神の言葉に対して『至高の忠義』があるにもかかわらず、言動が極めて忌まわしい。なぜなら、そうした者は聖霊の業に反対し、謀略や邪悪をはたらくからである。最後まで付き従わない者、聖霊の業から遅れる者、旧来の業に固執する者は、神への忠誠を満たせなかったどころか神に反抗する者となり、新たな時代に拒否され、罰を受ける者となっている。それ以上に哀れなことがあるだろうか。多くの者は、旧来の律法を拒否して新たな業を受け容れた者は、良心が無いとさえ信じている。良心に関して話をするだけで聖霊の業を知らない者は、究極的には自らの良心のために見通しを中断される。神の業は教義に準拠しておらず、またそれは神自身の業であるが、神はそれに固執しない。否定されるべき物事が否定され、排除されるべき物事が排除される。しかし、人間は神の経営の業のうち、ほんの一部に固執し、よって自ら神と対立している。それは人間の不合理ではなかろうか。それは人間の無知ではなかろうか。人間が神の祝福を得られないことを畏れて臆病になり、用心し過ぎればし過ぎるほど、より大きな祝福と、最後の祝福を得ることが一層不可能となる。盲目的に律法を遵守している人々は皆、律法に対して最高の忠義を示し、そうした者が律法に対して最高の忠義を示せば示すほど、そうした者は一層神に反抗する反逆者である。現在は律法の時代ではなく神の国の時代であり、現在の業を従来の業と比較することはできず、過去の業を現在の業と比較することは出来ない。神の業は既に変化しているので、人間の実践もまた変化した。現在の実践は、律法を守ることでも、十字架を負うことでも無い。したがって、律法や十字架に対する人間の忠義は、神の承認を得ないであろう。」

『言葉は肉において現れる』の「神の業と人間の実践」より

磔刑と復活の後、イエスは白い雲に乗って天に戻り、神の右に座したと人は信じている。同様に、イエスは再び白い雲に乗って(この雲はイエスが天に戻るとき乗った雲を指している)何千年もの間イエスを待ち焦がれている人々のもとに降りて来るであろうこと、イエスユダヤ人の姿をし、ユダヤ人の衣服を身に着けているであろうことを人は心に描いている。人の前に現れた後、イエスは食物を彼らに授け、生ける水を人々に向けてほとばしり出るように流し、恵みと愛に満ち、人々のあいだで生き生きと現実に暮らすだろう、等々。しかし、救い主イエスはそうはしなかった。彼は人が心に抱いたこととは反対のことをした。イエスはその再来を切望していた人々のもとには到来せず、白い雲に乗ってすべての人の前に現れもしなかった。彼はすでに来ていたが、人は彼を知らず、その到来に気づかないままである。イエスがすでに白い雲(イエスの霊、言葉、全性質、そして彼のすべてである雲)に乗って降りてきて、終わりの日に彼が作る克服した者たちの一団のもとに今ではいることに人は気づかず、虚しく彼を待っているだけである。人はこのことを知らない。聖なる救い主イエスは人に対して慈しみと愛に満ちているが、どうして彼が腐敗と不純な霊が宿っている『神殿』で働くことができようか。人はイエスの到来をずっと待っているが、不義の者の肉を食べ、不義の者の血を飲み、不義の者の衣服を着る人々、イエスを信じるが彼を知らない人々、絶えず彼からだまし取る人々の前にどうしてイエスが現れることができようか。人は救い主イエスが愛と哀れみに満ちており、赦しに満ちた贖罪のための捧げものであることしか知らない。しかし、イエスは同時に神自身であり、義、威厳、怒り、および裁きにあふれており、権威を所有し、尊厳に満ちていることはまったくわかっていない。そこで、たとえ人が贖い主の再来をしきりに切望し、天が人の祈りによって動かされたとしても、救い主イエスは、彼の存在は信じても、彼のことを知らない人々の前には現れない。」

『言葉は肉において現れる』の「救い主はすでに『白い雲』に乗って戻って来た」より

「なぜわたしは、宗教界の人々は神の存在を信じず、悪を為す者たちで、悪魔と同じ種類に属すると言うのだろうか。彼らが悪を為す者たちだとわたしが言うのは、彼らが神の意志を理解せず、神の知恵が分からないからだ。神が、彼らに神の業を明らかにするようなことは決してない。彼らは神の行為が見えない盲人である。彼らは神に見捨てられた者たちで、彼らには神の配慮や守りはまったくなく、ましてや聖霊の働きを有することなどは絶対にない。神の働きを持たない人々は悪を為す者たちで、神に対立する者たちだ。」

『言葉は肉において現れる』の「神を知らない者はすべて神に反対する人々である」より

「彼らは神の性質あるいは本物の神が自分たちの心を支配することを望まない。彼らの望みは、自分の欲望が、想像力が野心が満たされることだけである。つまり彼らは神を信じ、従い、家庭や仕事を神に捧げてはいるかもしれないが、悪の道を進み続けるのである。ひどい場合には献金を盗んだり浪費したり、私生活で神を呪う言葉を言ったりする者もあれば、自分の地位を利用して繰り返し自分に有利な証言をして自分の立場を強化し、人や地位に関して神と争おうとするのである。彼らはあらゆる手段を用いて人々に自分を崇拝させ、常に人々の心を虜にし、支配しようとする。さらにひどい場合には意図的に彼ら自身が神であるかのように扱われると考えさせるように誤って導くのである。彼らは自分が堕落しているとは決して言わない。自分も堕落した高慢な存在であり、崇拝の対象にはなりえないことを人々に決して伝えない。また彼らがどれだけ立派にやっているとしても、それは神の行ったことのゆえであり、単にすべきことをしているに過ぎないとは言わない。なぜ彼らはこの事実を伝えないのか。それは人々が自分に見向きもしなくなるのを恐れているからである。このような者は神を理解しようとしたことがないので、決して神をあがめず、神の証人とはならないのである。」

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 1」より

「悪魔は真理を明瞭に理解しているにもかかわらず、故意に真理に逆らう。まさに反逆の子である。それは、地獄にいる悪魔達の王が玉座に就いたので、自惚れて他人を全て侮辱しているかのようである。真理を求め、義に付き従う者は、何人いるだろうか。そうした悪魔は皆、肥やしの中のはえがたかり、ぶたや犬のような、頭を振って混乱を招く獣である。そうした悪魔は、自分達が腐敗物に群がるはえに過ぎないことには気づかず、地獄にいる自分達の王が、全ての王の中で至高の存在であると考えている。それだけではなく、自分達のぶたや犬の両親に頼り、神の存在に対して中傷的なことを述べる。そうした小ばえのような者は、自分達の両親がハクジラのように大きいものであると考えている。そうした者は、自分達は極めて小さい存在であるが、自分達の両親は自分達よりも10億倍大きく不浄なぶたや犬であることに気付かないのであろうか。そうした者は、自分の卑しさに気付かず、ぶたや犬の腐った臭いを根拠として暴れ回り、将来の世代を生み出す妄想にとらわれる。これは完全なる厚顔無恥である。そうした者は、自分の背中に緑色の羽根がある(自分が神を信仰していると主張することを指す)ことで、自惚れて自分の美しさと魅力を至るところで自慢するようになり、密かに自らの不浄を人間になすりつける。さらに、そうした者の自惚れは、あたかも虹色の羽根が自分の不浄を隠すことが出来るかのようであり、それゆえに真の神の存在を迫害する(これは、宗教界の内情を指す)。人間は殆ど知らないが、はえの羽根は美しく魅力的だが、所詮は不浄に満ち、細菌に覆われた、小さなハエである。そうした者は、両親であるぶたや犬の力を借り、圧倒的な凶暴さで地の上で暴れ回る(これは、真の神と真理を裏切る国家の強力な支援を受けて神を迫害する宗教関係者を指す)。それは、あたかもユダヤのパリサイ人の幽霊が、古巣である赤い大きな竜の国家へと、神と共に戻ったかのようである。そうした者は、自らの迫害の業を再開し、その数千年にわたる業を継続する。こうした堕落した者の集団が最後に地の上で滅びることは確実である。数千年が経過した後、不浄な霊は、さらに狡猾で悪賢くなっているようである。そうした者は、密かに神の業を台無しにする術を常に考えている。そうした者は狡猾で悪賢く、自国で数千年前の悲劇を再現することを望んでいる。そうした行いにより、神は突き動かされて大声で叫ぶ寸前の状態にされ、神は第三の天に戻ってそうした者を滅ぼさずにいられない。」

『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(7)」より

「世界は崩壊しつつある。バビロンは麻痺している。宗教的世界——どうしてこれが、わたしの地上の権威により破壊されないことがあろう。誰がまだわたしに逆らい、敵対しようとするのか。律法学者たちか。すべての宗教関係者か。地上の支配者や権力者か。天使たちか。誰がわたしのからだの完全さと豊かさをたたえないだろう。すべての民の中で、誰がわたしの讃えをやむことなく歌わず、誰がいつでも幸福でないのか。⋯⋯どうして地上の国々が滅びないことがあろう。どうして地上の国々が倒れないことがあろう。どうしてわが民が歓声を上げないことがあろう。どうして喜びに歌わないことがあろう。」

『言葉は肉において現れる』第一部「全宇宙に向かって語った神の言葉」の「二十二番目の言葉」より

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