東方閃電-小羊の足跡に従っていくこと

東方閃電全能神教会は世界に”神様が帰ってきた”ことを公に証ししています。彼は再臨の主イエスです。神様の羊は神様の声を聞き分けます。多くの真理を渇仰する人は、東方閃電全能神教会を考察します。

肉なる者は誰も怒りの日を逃れることはできない

今日は、あなたがた自身が生き残るために、わたしの働きが順調に進み、全宇宙にわたるわたしの幕開けの働きがより適切に、また完全に実現するように、すべての国家の人々に対するわたしの言葉、権威、威厳、裁きを明らかにし、あなたがたに警告を与える。あなたがたの間でわたしが実行する働きは、わたしの全宇宙にわたる働きの始まりである。今はすでに終わりの日であるが、「終わりの日」は時代の名前であり、この言葉は律法の時代や恵みの時代とまったく同じように時代を意味し、最後の数年間や数カ月ではなく、時代全体を表すことを知りなさい。ただし、終わりの日は、恵みの時代や律法の時代とはまったく異なる。終わりの日の働きはイスラエルで実行されるのではなく、異邦人の間で実行される。それはわたしの玉座の前でのイスラエル以外の全ての国々と人々に対する征服であり、これにより全宇宙にわたるわたしの栄光が宇宙全体に満ちるのである。これは、それによりわたしがさらに大きな栄光を得、地上のすべての被造物がすべての国家にわたしの栄光を、世代を超えて引き継ぎ、天と地のすべての被造物が、わたしが地上で得たすべての栄光を見ることができるようになるためである。終わりの日に実現される働きは、征服の働きである。これは地上のすべての人間の生活に対する導きではなく、人類の絶えることのない地上での数千年にわたる苦難の生活の結末である。そのため、終わりの日の働きは、イスラエルでの数千年にわたる働きや、ユダヤでの十年間の働き、それに続く、神の第二の受肉まで数千年続いた働きとは異なる。終わりの日の人々が出会うのはただ受肉した贖い主の再現であって、この人々は神から自ら働きと言葉を受ける。終わりの日が終結するまでに二千年はかからない。イエスユダヤで恵みの時代の働きを実行したときと同様に、終わりの日は短い。これは、終わりの日は時代全体の結末だからである。終わりの日は六千年にわたる神の経営(救いの)計画の完了と終結であって、これによって人類の苦しみの人生の旅路が終わる。終わりの日は、人類のすべてを新時代に連れて行ったり、人類の生活を続けさせたりするわけではない。それはわたしの経営(救いの)計画や人類の存在にとって何の意味もない。人類がこのようであり続けるなら、遅かれ早かれ悪魔によって完全に食い尽くされ、わたしに属する魂は最終的に悪魔の手によって取り去られるだろう。わたしの働きは六千年しか続かない。そしてわたしは人類全体に対する悪い者の支配もまた、六千年より長くは続かないと約束した。もう時間はない。わたしはこれ以上続けたり遅らせたりはしない。終わりの日に、わたしはサタンを打ち負かし、わたしの栄光をすべて取り戻し、わたしに属する地上のすべての魂を取り戻して、これらの苦悩する魂が苦しみの海から逃れられるようにする。これにより地上におけるわたしの働き全体が結末を迎えるのである。この日より先、わたしは地上で再び受肉することはなく、すべてを支配するわたしの霊が地上で働くことは決してない。わたしが地上で行うのはひとつのことだけである。わたしは人類を、聖なる人類に造り直す。それは地上におけるわたしの忠実な都である。わたしは世界全体を滅ぼしたり、人類すべてを滅ぼしたりはしないことを知るべきである。わたしはその人類の残りの三分の一、わたしを愛し、完全にわたしに征服された人類の三分の一を保ち、イスラエル人が律法の下でそうであったように、この人類の三分の一を、多くの羊と家畜、そして土地のすべての実りにより育み、豊かにし繁栄させる。この人類はわたしのもとに永遠にとどまる。ただし、この人々は今日のどうしようもなく汚れた人類ではなく、わたしに得られたすべての人の集まりである。この人類はサタンにより傷つけられ、混乱させられ、包囲されることはない。彼らはわたしがサタンに勝利した後も地上に存在する唯一の人類となる。これは今日わたしに征服され、わたしの約束を得た人々である。そのため、終わりの日に征服された人間は、永遠に続くわたしの恵みも受ける。これはサタンに対するわたしの勝利の唯一の証拠であり、わたしのサタンとの戦いの唯一の戦利品である。これらの戦利品はサタンの支配下からわたしにより救われたのであり、わたしの六千年にわたる経営(救いの)計画の唯一の結晶であり実りである。この人々はあらゆる国家と教派から、また全宇宙のあらゆる場所と国から来る。彼らはさまざまな人種、さまざまな言語、習慣、肌の色を持ち、地球のあらゆる国家と教派、世界のあらゆる場所に広がっている。彼らは、完全な人類、サタンの力が及ばない人間の集合を形成するために集まって来る。人々の内でわたしに救われ征服されていない者は、海の深みに音もなく沈み、永遠にわたしの焼き尽くす火により焼かれる。わたしは、エジプトで初子と牛、羊の初子を滅ぼし、子羊の肉を食べて子羊の血を飲み、かもいに子羊の血を塗ったイスラエル人だけを残したのとまったく同じように、この古い、きわめて汚れた人々を滅ぼす。わたしに征服され、わたしの家族である人々はまた、子羊であるわたしの肉を食べ、子羊であるわたしの血を飲み、わたしに贖われ、わたしを礼拝する人々でもあるのではないか。このような人々は常にわたしの栄光に伴われていたのではないのか。子羊であるわたしの肉を持たぬ者はすでに、海の深みに音もなく沈んだのではないか。今日、彼らはわたしに反対し、わたしの言葉はちょうどヤーウェがイスラエルの子孫に語った言葉のようである。あなたがたの心の深みにある頑なさによりわたしの怒りが蓄えられ、あなたがたの肉体にさらなる苦しみが生じ、あなたがたの罪に対してさらなる裁きが、不義に対してさらなる怒りがもたらされる。今日わたしをこのように扱うなら、誰がわたしの怒りの日に赦されるというのだろうか。わたしの刑罰の目を誰の不義が逃れられるだろうか。誰の罪が全能者であるわたしの手を避けられるだろうか。誰の反逆が全能者であるわたしの裁きを受けられるだろうか。わたしヤーウェが異邦人の家族の末裔であるあなたがたに話す。わたしがあなたがたに語る言葉は、律法の時代と恵みの時代のすべての言葉を超えるものである。しかしあなたがたは、エジプトのすべての人々よりもさらに頑なである。わたしが穏やかに働いている間にも、あなたがたはわたしの怒りを蓄えているではないか。どうやってあなたがたは、全能者であるわたしの日から無事に逃れられるというのか。

わたしはこのようにあなたがたの中で働き、話した。わたしは多くの力と努力をつぎ込んだが、あなたがたはわたしがはっきりと語った言葉に耳を傾けたことがあっただろうか。あなたがたはどこで全能者であるわたしにひれ伏したか。なぜあなたがたはわたしをこのように扱うのか。なぜあなたがたが話すことすることすべてがわたしの怒りを呼び起こすのか。なぜあなたがたの心はそれほど頑ななのか。わたしはあなたがたを撃ったか。なぜあなたがたはわたしを悲しませ心配させることしかしないのか。あなたがたはわたしヤーウェの怒りの日があなたがたに及ぶのを待っているのか。あなたがたの不服従により呼び起こされた怒りをわたしがあらわすのを待っているのか。わたしがするすべてのことはあなたがたのためではないのか。それなのにあなたがたはいつもわたしヤーウェをこのように扱ってきた。わたしの捧げ物を盗み、わたしの祭壇のいけにえを家に持って帰り、オオカミの巣にいる子や孫を養った。「人々」は互いに戦い、怒りに満ちたまなざしで、剣と槍を持って向かい合い、全能者であるわたしの言葉を便所に投げ込み、排泄物のようにけがれたものにしてしまった。あなたがたの人格はどこにあるのか。あなたがたの人間性は獣性になってしまった。あなたがたの「心」はずっと前に石になってしまっている。あなたがたは、わたしの怒りの日が来るときこそ、今日あなたがたが全能者であるわたしに対して行う悪をわたしが裁くときであることを知らないのか。このようにわたしをだまし、わたしの言葉を沼地に投げ込んで耳を傾けず、わたしの背後でこのようにふるまって、わたしの怒りの目を逃れられると思うのか。あなたがたがわたしのいけにえを盗み、わたしの物を欲しがったとき、あなたがたはわたしヤーウェの目に既に見られていたことを知らないのか。あなたがたがわたしのいけにえを盗んだとき、それはいけにえが捧げられた祭壇の前であったことを知らないのか。このようにわたしをだませるほど自分たちが賢いなどとなぜ思うのか。あなたがたの憎むべき罪からどうやってわたしの怒りをそらせるだろうか。どうしてわたしの怒りがあなたがたの悪行を見逃せるだろうか。あなたがたが今日行う悪は、あなたがたに逃げ道を用意することはなく、あなたがたの明日に刑罰を積み重ねる。それは、あなたがたに対して全能者であるわたしの刑罰を招く。あなたがたの悪行と悪しき言葉が、どうしてわたしの刑罰から逃れられるだろうか。どうしてあなたがたの祈りがわたしの耳に届くだろうか。どうしてあなたがたの不義に、わたしが逃げ道を用意するだろうか。どうしてわたしに逆らって行うあなたがたの悪行をそのままにしておけるだろうか。蛇の舌のように毒に満ちたあなたがたの舌を切らずにいられるだろうか。あなたがたは自分の義のためにわたしに依り頼まず、自分の不義の結果としてわたしの怒りを積んでいる。どうしてわたしがあなたがたを赦せるだろうか。全能者であるわたしの目には、あなたがたの言葉と行いは汚れている。全能者であるわたしの目は、あなたがたの不義を無限の刑罰とみなす。どうしてわたしの義なる刑罰と裁きがあなたがたから離れるだろうか。あなたがたがわたしにこれを行い、わたしを悲しませ怒らせるのに、わたしがあなたがたをわたしの手から逃れさせ、わたしヤーウェがあなたがたを罰し、呪う日から離れさせることなどできようか。あなたがたのすべての悪しき言葉が、すでにわたしの耳に届いていることを知らないのか。あなたがたの不義がすでにわたしの聖なる義の衣を汚したことを知らないのか。あなたがたの不服従がすでにわたしの激しい怒りを呼び起こしたことを知らないのか。あなたがたがわたしを怒ったまま長いこと放置し、わたしの忍耐をずっと試してきたことを知らないのか。既にあなたがたがわたしの肉体をぼろぼろに傷つけたことを知らないのか。わたしはこれまで我慢してきたが、わたしはわたしの怒りを解放し、あなたがたに対してもはや寛大ではいない。あなたがたの悪行がすでにわたしの目に届き、わたしの叫びがすでにわたしの父の耳に届いていることを知らないのか。どうして彼が、あなたがたがわたしをこのように扱うことを許すだろうか。わたしがあなたがたに行うすべての働きはあなたがたのためではないか。それなのにあなたがたのうち誰が、わたしヤーウェの働きをさらに愛するようになっただろうか。わたしが弱いために、わたしが受けた苦しみのために、わたしの父の心に忠実でないことができるだろうか。わたしの心が分からないのか。わたしはヤーウェがしたのと同じようにあなたがたに話す。あなたがたのためにわたしは多くを捧げたではないか。わたしが父の働きのためにこの苦しみすべてに喜んで耐えるとしても、わたしの苦しみの結果としてあなたがたの上にもたらす刑罰を、どうしてあなたがたが免れられるだろうか。あなたがたはわたしの多くを享受したではないか。今日、わたしはわたしの父によってあなたがたに与えられた。あなたがたは、わたしの気前の良い言葉より、はるかに多くを享受していることを知らないのか。わたしの命が、あなたがたの命とあなたがたが享受する事柄と引き換えられたことを知らないのか。わたしの父がサタンと戦うためにわたしの命を使い、またわたしの命をあなたがたに与えて、あなたがたが百倍も受けるように、多くの誘惑を避けられるようにしたことを知らないのか。あなたがたが多くの誘惑と、また多くの火の刑罰を免れたのは、ただわたしの働きによってであることを知らないのか。あなたがたがこれまで楽しむことをわたしの父が許していたのは、ただわたしの故であることを知らないのか。どうしてあなたがたの心は、たこができてしまったかのように、頑ななままでいられるのか。あなたがたが今日行う悪が、わたしが地上から去った後に来る怒りの日を、どうして逃れられるだろうか。これほど心の頑なな者を、どうしてヤーウェの怒りから逃れさせることができるだろうか。

過去のことを思い出してみなさい。あなたがたに対していつわたしの視線が怒りに満ちており、わたしの声が厳しかったか。いつわたしがあなたがたにささいなことを言い立てたか。いつわたしがあなたがたを理不尽に叱責したか。いつわたしがあなたがたを面と向かって叱責したか。わたしの働きのために、わたしが父にあなたがたをすべての誘惑から守ってくれるように頼むのではないか。なぜあなたがたはわたしをこのように扱うのか。わたしが、あなたがたの肉体を撃つためにわたしの権威を使ったことがあるだろうか。なぜあなたがたはそのようにわたしに報いるのか。わたしに対する態度をころころ変えた後で、あなたがたは熱くも冷たくもない。そしてあなたがたはわたしをだまし、わたしから物事を隠す。あなたがたの口は不義の唾で満ちている。あなたがたは自分の舌でわたしの霊をだませると思うのか。あなたがたの舌がわたしの怒りを逃れられると思うのか。あなたがたはあなたがたの舌が望みのままに、わたしヤーウェの業をさばかれると思うのか。わたしは人がさばかれる神であろうか。どうして小さな蛆虫がわたしを冒涜するのを許せるだろうか。どうしてこのような不従順な者たちをわたしの永遠の恵みの中に置けるだろうか。あなたがたの言葉と行いはずっと前から白日の下にさらされており、あなたがたを罪に定めた。わたしが天を拡げ、万物を創造したとき、わたしはどの被造物にも彼らの望みのままに参加することを許せず、ましてやどの被造物にも、その望むままにわたしの働きとわたしの経営を妨げさせたりはしなかった。わたしは人間にも物にも我慢しなかった。どうしてわたしに対して残酷で無慈悲な者を見逃せるだろうか。どうしてわたしの言葉に逆らう者を見逃せるだろうか。どうしてわたしに対して不従順な者を見逃せるだろうか。人間の運命は全能者であるわたしの手の内にあるのではないか。どうしてあなたの不義と不服従を聖であると見なせるだろうか。どうしてあなたの罪がわたしの聖さを汚せるだろうか。わたしは不義の汚れ不純によって汚されることはなく、不正を行う者の捧げものを喜ぶこともない。あなたがわたしヤーウェに忠実であるのなら、わたしの祭壇のいけにえを取って自分のものとすることなどできるだろうか。あなたは毒のある舌を使って、わたしの聖なる名を冒涜できただろうか。このようにわたしの言葉に反逆できただろうか。わたしの栄光と聖なる名を悪い者であるサタンに仕える道具として使えるのだろうか。わたしのいのちは聖なる者たちの喜びのために与えられた。どうしてあなたの望むままにわたしのいのちをもてあそび、それをあなたがた同士の争いの道具として使うのを許せるだろうか。なぜわたしに対してそのように心無く不親切になれるのか。わたしがすでにこれらのいのちの言葉にあなたがたの悪行を書いたことを知らないのか。わたしがエジプトを罰するとき、あなたがたがどうして怒りの日から逃れることができようか。このように繰り返し、あなたがたに敵対され反逆されることがどうしてあるのだろうか。はっきり言うが、その日が来ると、あなたがたへの刑罰はエジプトのそれよりも耐えがたいものになるだろう。わたしの怒りの日をどうして逃れられようか。まことにわたしは言う。わたしの忍耐はあなたがたの悪行のために用意されているのであり、その日のあなたがたの刑罰のために存在するのである。いったんわたしが忍耐の限界に達したら、怒りに満ちた裁きに苦しむことになるのはあなたがたではないのか。すべてのことは全能であるわたしの手の内にあるのではないのか。どうして、天の下であなたがたがそのようにわたしに逆らうのを許すことができるだろうか。来ると言われていながら来たことのないメシアに出会ったので、あなたがたの人生は非常に困難なものになるだろう。あなたがたは彼の敵ではないのか。イエスはあなたがたの友だったが、あなたがたはメシアの敵である。あなたがたがイエスの友であっても、あなたがたの悪行が嫌悪されるべき人々の器を満たしたことを知らないのか。あなたがたがヤーウェと非常に親しくても、あなたがたの悪しき言葉がヤーウェの耳に届き、彼の怒りを招いたことを知らないのか。どうして彼があなたがたと親しくあれるだろうか。どうして悪行で満たされたあなたがたの器を焼かずにいられようか。どうして彼はあなたがたの敵とならずにいられようか。

朗読 神の言葉 「唯一の神自身5神の聖さ(2) 」 その2

神が物事に関して人と同様の見解を抱くのを皆さんが見ることはありませんし、さらに、神が人間の視点や知識、科学、哲学、想像を用いて物事を処理するのを皆さんが見ることもありません。その代わりに、神が行なうすべてのことと、神が明らかにするすべてのことは真理につながっています。つまり、神が発したすべての言葉と、神が行なったすべての行為は真理に関係しているのです。この真理とそれらの言葉は、根拠のない空想ではなく、それどころか神の本質と神のいのちゆえに神により表されます。これらの言葉と神が行なったすべてのことの本質は真理なので、神の本質は聖なるものであると言うことができます。言い換えると、神の言動のすべては人に活力と光をもたらします。それにより、人は前向きな物事と、その前向きな物事の現実性を見ることができ、正しい道を歩くことができます。これらの物事は神の本質ゆえに決定され、これらは神の聖なる本質ゆえに決定されます。
『言葉は肉において現れる』より

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素晴らしい讃美聖歌 「いのちの水の川」

いのちの水の川は水晶のように透き通り
神と子羊の玉座から流れ出ている
川の両側にある命の木は毎月12種類の果実を実らせ
木の葉は民の病を治す
もはや呪いはなく
神と子羊の玉座は都にあり
僕たちは神に仕え 神の顔を見るだろう
その額には神の名がしるされる
そこには夜がなく
明かりも太陽の光さえもいらない
主なる神が光を与えるからだ
彼らは永遠に統べ治めるだろう

聖なる都である新しいエルサレム
神のいる天から下ってくる天から
神の幕屋は人と共にあり
神は人と共に住む
彼らは神の民となり
神は彼らの神となるだろう
涙は拭われ
死も 悲しみも 嘆きも 苦しみもなくなる
古きものは過ぎ去り
神は全てを新しくする
神はアルパでありオメガであり
初めであり終わりである
渇いている者に神は命の泉の水を与える
打ち勝つ者はすべてを受け継ぎ
神はその人の神となり
その人は神の子となる

稲妻は東からきて西を照らす
終わりの日のキリスト 全能神は人々のもとに来た
全能神は真理 道 いのちであり
言葉は肉において現れる
人々は神の玉座の前で
神の国の訓練と完全にされることを受け入れる
終わりの日のキリストは
いのちへの永遠の道をもたらした
民は神と顔を合わせ
甘美なる神の言葉を楽しむ
言葉はもろ刃の剣
人を清め救うために裁く
神の家から終わりの日の審判が始まった
全ての民が全能神の名を讃える
神の国に全能神が来て
業は成就した
神は全ての栄光を獲得した!
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より

クリスチャン映画「福音の使者」全ての国々と人々に永遠の福音を伝える 完全な映画 日本語吹き替え

キリスト教徒チェン・イーシンは主を長年信じ、終わりの日の主イエス・全能神をお迎えする幸運に恵まれていた。彼女は全能神の御言葉から、人類を一刻も早く救いたい神の御心と、被造物が果たすべく使命と責任を理解したため、福音を伝えて終わりの日の神の働きを証し始めた。その間、多くの都市や省に渡り、何度も宗教界からの抑圧と拒絶や中共政府による追跡と迫害に見舞われる。多くの苦難に遭う彼女だが、神の御言葉の導きの下、使命を背負い続け、危険を恐れず勇敢に前進する。

キリスト教 美しい讃美歌 「あなたは真理を受け入れる人になるべきだ」 イエスキリストの再臨をどのように扱うか


自分自身の道を選びなさい
真理を拒んだり聖霊を冒瀆せずに
無知にならないで、傲慢にならないで
聖霊の導きに従いなさい
エスの再臨は
真理を受け入れる全ての人にとって
大いなる救いだ
エスの再臨は
真理を受け入れられない人を罪に定める
Oh…

真理を渇望し、求めなさい
あなたのためになる唯一の道だから
真理を聞いてもそれを鼻であしらう者は
とても愚かで無知だ
エスの再臨は
真理を受け入れる全ての人にとって
大いなる救い
エスの再臨は
真理を受け入れられない人を罪に定める
Oh…真理を受け入れる
Oh…真理を受け入れる

神への信仰の道を軽やかに歩みなさい
勝手に結論を下さずに
神への信仰において、いい加減にならないで
神を信じる人は敬虔で謙虚であるべきだ
真理を聞いても勝手に結論を下したり
真実を罪に定める者は傲慢だ
エスの再臨は
真理を受け入れる全ての人にとって
大いなる救いだ
エスの再臨は
真理を受け入れられない人を罪に定める
キリストを信じる者には
他人を呪ったり咎めたりする資格はない
あなたは理性を備え、真理を受け入れるべきだ
エスの再臨は
真理を受け入れる全ての人にとって
大いなる救いだ
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より

神との正常な関係を確立することは極めて重要である

人間は、自らの心で神の霊に触れることにより、神を信じ、愛し、神を満足させ、それによって神の満足を獲得する。また、自らの心で神の言葉に接する時、彼らは神の霊によって動かされる。正常な霊的生活を実現し、神との正常な関係を確立することを望むのであれば、あなたはまず自らの心を神に捧げ、神の前で自分の心を静めなければならない。自らの心を全て神に注いだ後、初めて、人間は徐々に正常な霊的生活を得ることが出来る。人間が神への信仰の中で自らの心を神に捧げず、心が神の中にあらず、神の負担を自分自身のものとして扱わなかった場合、彼らが何をしても、それは神を欺くことである。そして、まさしくそれが宗教に熱心な人々の行動のすべてである。これでは神から称賛を受けることは出来ない。神はこのような人からは何も得る事が出来ない。こういう人は、神の家の装飾品のように場所を取るだけで何の役にも立たず、神の業の脇役以外に使い道がない。神はこのような者を用いない。このような人間の内では、聖霊の働く機会はない。しかしそれ以上に、このような人には完全にする価値が無い。こういう部類の人間はまさしく「生ける屍」であり、彼らには聖霊により用いられることの出来る要素が全く無い。彼らは、すべてサタンによって占有され、サタンにより極端に腐敗させられ、また、神によって排除される対象である。現在、聖霊は、人間の長所を活用することのみならず、人間の欠点を完全なものとし、変化させることによっても、人々を用いている。あなたの心を神に注ぎ、神の前に静めることが可能であれば、あなたには、聖霊により用いられ、聖霊の啓示と光を受ける可能性と資格があり、またそれ以上に、聖霊によって自分の欠点を補ってもらう機会があるであろう。自分の心を神に捧げる時、あなたは更に深く肯定的な側面に入ることができ、より高いレベルの洞察に達することができる。否定的な側面においては、自らの過ちや欠点が一層分かるようになり、神の意志を満足させることをもっと熱心に求めるようになり、受動的にではなく、活発に真理の道に入るであろう。それは、あなたが正しい人間であることを意味するであろう。あなたの心が神の前に静まっていることを条件として、あなたが聖霊から称賛を享受できるかどうか、また、神を喜ばせるかどうかということの鍵は、あなたが積極的に入ることが出来るかどうか、ということである。聖霊が人に明察を与え、人を用いる時、それは、その人を決して消極的にすることはなく、常にその人を積極的に前進させる。たとえその人に短所があっても、その人はその短所に従って生きることを回避し、自分のいのちの成長の遅延を阻み、また、神の心を満足させることを求め続けることができる。これが、あなたが聖霊の臨在を得たことを充分に証明する基準である。人が常に消極的であり、啓示を受けて自分自身を知った後も依然として消極的で受動的であり、立ち上がり神と調和して行動出来ないのであれば、この種の者はただ神の恵みを受けるが、聖霊はその人と共にいない。人が消極的である時、それは、その人の心は神へ向いておらず、その人の霊が神の霊によって動かされていないことを意味している。このことは、全ての者たちによって認識されるべきである。

神との正常な関係を確立する,極めて重要である,デボーション

経験から分かることだが、最も重要な課題の一つは神の前で心を静めることである。それは、人々の霊的生活といのちの成長に関する課題である。唯一あなたの心が神の前に静まっている場合のみ、あなたの真理の追求とあなたの内の性質の変化が実を結ぶであろう。なぜなら、あなたは重荷を荷って神の前に来るからである。また、あなたは、絶えず自分に至らないことが多過ぎると感じ、知るべき真理があまりにもたくさんあり、経験すべき現実があまりにも多くあり、神の意志に全ての注意を集中させる必要があると感じているからである。また、これらのことが常にあなたの心を占めており、あたかもそれらがあなたを強く圧迫し、息ができなくなるかのようである。こうして、あなたは心に重荷を感じる(しかし、これは否定的な状態ではない)。神の言葉による啓示を受け、神の霊に動かされる資格があるのは、こうした人々のみである。彼らが神の啓示と光を受けられるのは、彼らの重荷の故である。また、彼らの心は重いからである。またそれは、彼らが払った代償と、神の前で受けた苦しみのためであると言える。というのは、神は誰も特別扱いしないからである。神は人々を常に公平に扱うが、人々に供給する際は無造作ではなく、人々に無条件で与えることはない。これは、神の義なる性質の一面である。実生活においては、まだ殆どの人々がこの領域に達していない。少なくとも、人々の心はまだ完全には神の方を向いていない。それゆえに、人々のいのちの性質には、まだそれほど大きな変化がない。それは、人々がまだ神の恵みの中だけに生きており、聖霊の働きを得ていないからである。神が人々を用いる際の条件は次のようである。人々の心が神に向いており、神の言葉の重荷を負い、神の言葉を慕う心を持ち、真理を求める決意を持っていることである。このような人々だけが、聖霊の働きを得て、頻繁に啓示と光を得ることが出来る。神が用いる人間は、礼儀正しく話し、不注意に語ることが無く、神の前で常に心を静めておくことが出来るが、外見から見ると不合理であり、他の人々と正常な関係を持っていないように見える。しかし、正にこういう人こそ聖霊に用いられるに充分なのである。神の言われるところの、この「不合理な」者は、他の人々と正常な関係を持っていないように見え、彼らには外面だけの愛や実践がない。しかし、霊的なことを分かち合っている時は、彼らは心を開き、神の前での実経験から得た啓示や光を、無私無欲で他の者たちに分け与えることが出来る。彼らはこのようにして神への愛を表し、神の心を満足させるのである。他の者たちがみな彼らを中傷し、嘲笑する時、彼らは外部の人々や出来事、物事により支配されるのを回避することができ、また、なおも神の前で静まっていることが出来る。このような人には、独自の洞察があるようだ。他の者たちがどうであれ、彼らの心は決して神を離れない。他の人たちがにぎやかに、また、おもしろそうにしゃべっている時でも、彼らの心は依然として神の前にあり、彼らは神の言葉について熟考したり、あるいは黙して心の中で神に祈り 、神の意図を求めたりしている。彼らは、他の人々との正常な人間関係を維持することを決して主眼とすることが無い。このような人には全く人生哲学が無いように見受けられる。こういう人は、外見上は陽気で、愛想よくて、無邪気であるが、冷静な心も備えている。これが、神が用いる人の人間像である。人生哲学や「正常な理性」などは、このような種類の人間には伝わらない。このような人は、自らの心をすべて神の言葉に捧げており、その心には唯一神しか持っていないように見受けられる。このような種類の人こそ、神の言われるところの「理性の無い」人間であり、このような人こそが、まさに神により用いられる者である。神に用いられている人の印とは、いついかなる所においても、自らの心が常に神の前にあり、他人がいかに放埓であろうと、また彼らがどれほど欲情と肉に耽溺していようと、その人の心は、決して神を離れることが無く、群衆に流されることが無いということである。唯一このようなタイプの人のみが、神が用いるのに適し、まさに聖霊により完全にされる者である。このような境地に達することが出来なければ、あなたには、神のものとされ聖霊により完全にされる資格は無い。

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信仰とは何か、どのように信仰を持つようになるか

信仰とは何でしょうか?主にある多くの兄弟姉妹たちは、神様の御名を認め、根気よく聖書を読み、集会に参加し、祈り、更にはすべてを犠牲にして勤めさえできれば、自分は神様への信仰をもつ信者であると思っています。しかし、これは一面的な解釈です。実際、神様への真の信仰とは、私たちの精神と身体が精錬や逆境の中で大きな苦難に耐えるとき、それでも神様を誤解したり、神様について文句を言ったりせず、その代わりに神様に服従し、たゆまずに神様を信じ、神様に従えることを意味します。

信仰とは何か,どのように信仰を持つようになるか

聖書の記録から私たちは次のことを知ることができます。ヨブがサタンによって誘惑されたとき、ヨブの家畜は盗賊に強奪され、使用人たちは殺され、子供たちは惨事にみまわれ、彼自身は体中に痛い腫物ができ、ヨブの妻は彼をあざ笑い、神様の御名に背くように言いました。これらの突然の災難に直面したとき、彼は心身ともに痛みに耐えました。しかし、ヤーウェ神様が彼から奪われたことについて文句を言わず、ヨブは「ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ。ヤーウェのみ名はほむべきかな」ヨブ記1:21)と言いました。彼は神様に関する強く顕著な証しを立てたので、これがサタンに恥をかかせ、サタンを負かせたのです。ヨブの神様への信仰を見て、神様は二倍にヨブを祝福し、更なる牛や羊と美しい子供たちを彼に授けました。そして最終的にヨブは年老いて死にました。ヨブは信仰の模範であり、主を信じる私たち一人ひとりが見習うに値する人物です。

ヨブの証しからわかるのは、神様が彼を祝福したとき、ヨブは人の持っているものはすべて神様の祝福によるものであると信じていたので、彼は神様に感謝し、神様を礼拝し、また彼が神様の試練にあったときも、たとえそれを理解できず、心の中で痛みを感じても、彼はまだ神様に服従し、文句を言わなかったことです。これこそが神様への真の信仰であり、神様への人間の誠実な心なのです。「信仰とは何を指すのであろうか。信仰とは、あるものを人間が見たり触れたり出來ない時、神の業が人間の観念と一致しない時、また、それが人間の手に屆かない時に、人間が持つべき真の信念であり、誠実な心である。これこそが、わたしの言う信仰である。人々は、苦難や精錬の時、信仰を必要とする。そして信仰には精錬が伴う。これらは切り離せない。」と神様の御言葉にあるとおりです。

それでは、私たちはどうしたら神様への真の信仰を育てることができるのでしょうか?このためには、私たちは日々の暮らしの中で神様の御働きを実践的に経験し、その価値を十分に認識することが必要です。私たちの人生のための神様の支配と指揮と采配、また神様の権威と御業を見ることができ、それらを通して神様についての本物の認識をもつことができたとき、どれほど神様の御働きが私たちの観念に沿わなくても、それにもかかわらず私たちは神様への信仰を保つことができます。これはヨブと全く同じです。彼は神様について聞いたことはあっても、神様を見たことはありませんでした。しかし、彼は神様の権威を知り、すべての物事において神様の義を見ることができました。例えば、人間の運や不運、どれほどのお金を人が手に入れるか、生涯で何人の子供ができるか等、これらすべては、人間自身の計画や計算に関わらず、神様の権威の下にあることをヨブは知っていました。誰が邪悪で神様によって罰せられ、誰が心が優しく神様の恵みと祝福を授かるか等を、彼は見ていました。神様に関するこれらの認識があったため、彼は神様への真の信仰を育てたのです。ですからサタンの誘惑にあったとき、惨めではありながらも、彼はその享受していたものすべてが神様から与えられたものであり、彼自身の勤勉な働きにより手に入れたものではなく、また神様がそれらを取り上げられるのであれば、彼は神様について文句を言ったり、神様を誤解したりするべきではなく、神様に服従するべきであることを知っていたのです。ですから彼は神様に対して一切の要求をせず、神様の指揮と采配を受け入れて服従し、サタンの前で神様への顕著な証を立て、神様に受け入れられたのです。もう一つの例はモーセです。彼は四十年間荒野にいました。そこには誰もいなく、友人は昼は羊、夜は星だけでした。しかし神様に頼ることで、このつらい四十年間をモーセはついに乗りきりました。この経験を通して、神様の御手によってすべてが指揮され、神様にできないことは何もないと、彼は本当に実感しました。このような神様についての認識が、神様への真の信仰を育てる助けとなったのです。ですから、神様が彼にイスラエルの民をエジプトから導き出すように言ったとき、彼は神様の御前にひれ伏し、その任務をためらわず受け入れたのです。彼はどうしてエジプトの軍隊を一人で打ち負かすかなど心配せず、ただ単純に服従しました。これはすべての物事が神様の御手の中にあり、神様によって指揮されていると彼は信じていたからです。最終的に、神様への真の信仰に頼ることにより、彼はイスラエルの民をエジプトから導き出すことに成功したのです。

ですから、もし私たちが神様への真の信仰をヨブとモーセのように育てたいのであれば、私たちの日常生活において神様の御働きを実践的に経験しなければなりません。特に何らかの苦労や悲惨な状況にみまわれたとき、私たちはまず初めに意図的に服従するべきであり、それから神様を仰ぎ、神様に祈り、神様の御旨を求めるべきです。これらを通して神様への真の従順を達成できたとき、私たちは必ず神様の素晴らしい御業を見、神様への真の信仰を育てることでしょう。この時点で、私はある新しい姉妹の経験を思い起こします。彼女が神様の新しい御働きを受け入れて間もなく、彼女は病気になりました。その後、病状はだんだんと悪くなり、顔面神経麻痺になる危険さえありました。そのころ彼女はとても弱く、酷い痛みに悩まされていました。しかし、祈りと神様の御言葉を読むことを通して、彼女はサタンが病気を利用して彼女をかき乱そうとしていることを理解するようになりました。この病気はサタンの誘惑であり、また神様の試みだったのです。神様の御意向を理解した後、彼女は神様に祈り、自分のすべてを神様に委ねて証しを立てる決意があると言いました。その後、彼女は驚くほど速く回復しました。このようにして、彼女はその病気のために神様から離れなかっただけではなく、神様の素晴らしい御業を見たことによって、神様に従う決意をいっそう強めたのです。また、一人の兄弟がいました。彼は最初に神様を信じ始めたとき、とても情熱的でした。しかし、その後彼は神様への信仰のせいで中国共産党に追われたので、家を離れて放浪者のようなホームレスの暮らしを余儀なくされました。これは非常に苦しく、彼は弱ってしまいました。後に、神様の御言葉を読むことを通してのみ、彼は自分の神様への信仰の不純に、その信仰が神様の祝福と恵みを授かるためだけのものであったことに気付いたのです。ですから彼は自分の神様への信仰についての間違った見方を正しました。その後、彼は厳しい状況の中において絶えず神様に頼り、福音 を述べ伝えるその本分を尽くしたので、何度も中国共産党の追っ手から逃れることができました。このことを通して、彼は神様の素晴らしい御加護を身をもって体験し、神様の全能性と知恵も見ることができました。そして彼の神様への信仰はますます育ったのです。

このような実践的な経験は、私たちが実際の状況において神様の導き、支え、助け、または懲らしめや鍛錬をしっかりと経験する限り、神様が私たちの中でなさることはすべて私たちへの神様の愛と救いであると理解できる、と教えています。そうすれば私たちは神様について真の認識を得、その全能性と知恵の偉大さを実感し、神様の義なる御性質が人間によっては不可侵であることをよりよく知ることができます。その時がきたら、私たちは神様を畏れる心を持ち、それによって私たちは神様への真の信仰を育てることでしょう。