東方閃電-小羊の足跡に従っていくこと

東方閃電全能神教会は世界に”神様が帰ってきた”ことを公に証ししています。彼は再臨の主イエスです。神様の羊は神様の声を聞き分けます。多くの真理を渇仰する人は、東方閃電全能神教会を考察します。

神に愛を捧げる | 東方閃電

神に愛を捧げる
1

神は肉となり、神は肉となり、私たちの間に来た。彼は全ての屈辱と恥を通して私たちに救いを与えて下さった。しかし私は不平ばかりで彼のことを知りもせず理解もしなかった。私の反逆と抵抗にどれほど彼は胸を痛められたことであろうか!私の愛する全能神よ、あなたは私の過ちを憶えられない。あなたは私の反抗的な態度のすべてに耐えられ、再び恵みを与えて下さった。あなたが私を引き上げて下さったことを知り、私はひどく恥ずかしくなった。どれだけあなたの愛を受ける価値のない私であることか!

2

私の愛する全能神よ、あなたの語られた言葉が聞こえてくる。あなたの言葉を握りしめると、涙が頬に流れ落ちる。あなたの言葉の一つ一つが私の心に暖かく、私をあなたの方へと引き寄せる。消極的な態度から解放され、あなたに従うために私は立ち上がる。今、私の目は見開かれ、心は自責の念に駆られている。生まれ変わってあなたの望まれるように生き抜く準備ができている。私はあなたの愛に報い、最後まで忠心を尽くす。あなたの心を慰めるために力強く証しする。あなたの愛は私を目覚めさせた、私は私の使命を果たす。最後まで忠実に、あなたの願いに心を留める。私はあなたの愛に報い、最後まで忠心を尽くす。あなたの心を慰めるために力強く証しする。あなたの心を慰めるために力強く証しする。

神の働きの各段階と神の名前との関係は何か。

(1)律法の時代に神がヤーウェという名を用いたことの意義
参照聖書箇所

神はまたモーセに言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい『あなたがたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と。これは永遠にわたしの名、これは世々のわたしの呼び名である。」(出エジプト記3:15)

関連する神の言葉

「ヤーウェ」はわたしがイスラエルで働きを行っている間に用いた名前であり、人を憐れみ、人をののしり、人の生活を導くことのできる、イスラエル人(神に選ばれた人々)の神という意味である。それは偉大な力を所有し、英知に満ちた神という意味である。……すなわち、ヤーウェだけがイスラエルの選ばれた人々の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、モーゼの神、イスラエルのすべての人々の神である。そこで現代、すべてのイスラエル人は、ユダヤの部族は別として、ヤーウェを崇拝している。彼らは祭壇でヤーウェに捧げものをし、神殿で祭司の祭服を着て神に仕える。彼らが望むのは、ヤーウェの再来である。……ヤーウェの名前は律法の下に生きたイスラエルの人々のための特別な名前である。各時代、各段階の働きにおいて、わたしの名前は根拠のないものではなく、代表的意味を持っている。それぞれの名前は一つの時代を表す。「ヤーウェ」は律法の時代を表し、イスラエルの人々が崇拝した神の敬称である。……

『言葉は肉において現れる』の「救い主はすでに『白い雲』に乗って戻って来た」より

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律法の時代に、人類を導く働きはヤーウェの名によってなされた。そして第一段階の働きは地上で実行された。この段階の働きは神殿と祭壇を建てることで、律法を用いてイスラエルの人々を導き、彼らの間で働くことであった。イエスラエルの人々を導くことによって、神は地上での働きの拠点を築いた。この拠点から、神はその働きをイスラエルを越えて拡張した。すなわち、イスラエルから開始して、神はその働きを外に向けて拡張した。それにより、後の世代が、次第にヤーウェが神であること、ヤーウェが天と地とすべてのものを創造し、すべての被造物を造ったことを知るようになった。神はイエスラエルの人々を通してその働きを広めた。イスラエルの地は地上におけるヤーウェの働きの最初の聖なる地で、地上における神の最も初期の働きは、イスラエル全土でなされた。それが律法の時代の働きであった。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より

律法の時代を通じて、ヤーウェは多くの戒めを定め、モーゼがエジプトを出て彼に従うイスラエル人にそれを伝えるようにした。ヤーウェは、この戒めをイスラエル人に与えた。それはエジプト人とは無関係で、イスラエル人を律する意味があり、イスラエル人にヤーウェが課した要求であった。人が安息日を守ったか、両親を敬ったか、偶像を崇拝したかなど、人が罪を犯したか、義であるかを裁く上での原則であった。人がヤーウェの火により焼かれるか、石打ちで処刑されるか、ヤーウェの祝福を受けるかは、これらの戒めに従ったかどうかで決められた。安息日を守らない者は、石打ちで処刑される。祭司で安息日を守らなかった者は、ヤーウェの火により焼かれた。両親を敬わなかった者も、石打ちで処刑にされた。これら全ては、ヤーウェによって称されたことである。ヤーウェは戒めと律法を設定し、彼らの生活を導く際に人々がヤーウェの言葉に聞き従い、そして背くことのないようにした。ヤーウェはこれらの律法を、新たに生まれた人類を治めるために、そして自身の働きの基礎を作るために用いた。したがって、ヤーウェが行った働きにより、この最初の時代は律法の時代と呼ばれた

『言葉は肉において現れる』の「律法の時代における働き」より

イスラエルの人々は皆ヤーウェを主と呼んだ。当時イスラエルの人々は神を家長とみなし、イスラエル全体がひとつの大きな家族となり、家族全員が主であるヤーウェを崇拝した。ヤーウェの霊はしばしばイスラエル人に現れ、彼らに声を出して話しかけ、雲の柱と音をもって彼らの生活を導いた。当時、神の霊は直接イスラエルで導きを与え、人々に声をもって話しかけた。そして人々も雲を見、雷が鳴り響くのを聞いた。神はこのようにして何千年ものあいだイスラエルの人々の生活を導いた。そのため、イスラエルの人々だけが常にヤーウェを崇拝してきた。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(2)」より

イスラエルにおけるヤーウェの働きと言葉は、全土のすべての人々の生活を導いた。そして、ヤーウェは、人がヤーウェの命をもち、塵から形作られ、神の創造物になるように人に息を吹き込んだだけでなく、人類を支配するための杖を使って人類を炎で焼くこともできるし、人類を呪うこともできることを、ヤーウェの働きと言葉によって人に示した──ヤーウェが地上で人の生活を導き、昼と夜との時間によって人の中で語り、働くことができるのを人が知るために。人はヤーウェにより拾い上げられた塵から来て、人はヤーウェより創られたということを創造物である人自身が知ることができるように、ヤーウェはひたすら働きを行った。さらにまた、他の人々と民族(実際にはイスラエルとは別の人々と民族ではなく、イスラエル人から分かれ出た人々と民族であり、依然としてアダムとエバの子孫である)が、イスラエルからヤーウェの福音を受け取るようになり、宇宙における全ての創造物がヤーウェを畏れ、ヤーウェを崇めるようになるために、ヤーウェはイスラエルで働きを始めた。

『言葉は肉において現れる』の「律法の時代における働き」より

ヤーウェの名前は神のすべての性質を表すことはできない。神が律法の時代に働きを実行した事実は、神が律法の下でしか神であることができないと証明しているのではない。ヤーウェは人間のために律法を定め、戒めを言い渡し、神殿と祭壇を造るように命じた。ヤーウェが行なった働きは律法の時代だけを表す。ヤーウェが行なった働きは、神は律法を守るようにと言う神だとか、神殿にいる神だとか、祭壇の前にいる神だと証明しているのではない。そのようなことは言えない。律法の下の働きは一つの時代だけを表すことができる。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

(2)恵みの時代に神がイエスという名を用いたことの意義
参照聖書箇所

彼がこのことを思いめぐらしていたとき、主の使が夢に現れて言った、「ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。(マタイによる福音書 1:20-21)

すると御使が言った、「恐れるな、マリヤよ、あなたは神から恵みをいただいているのです。見よ、あなたはみごもって男の子を産むでしょう。その子をイエスと名づけなさい。1:32彼は大いなる者となり、いと高き者の子と、となえられるでしょう。そして、主なる神は彼に父ダビデの王座をお与えになり、彼はとこしえにヤコブの家を支配し、その支配は限りなく続くでしょう」。(ルカによる福音書 1:30-33)

関連する神の言葉

エスの名は恵みの時代の始まりを印した。イエスがその職分を始めたとき、聖霊がイエスの名に証しはじめ、ヤーウェの名はもはや語られなかった。その代わり、聖霊がおもにイエスの名のもとに新しい働きを始めた。神を信じる人たちの証はイエス・キリストのためになされ、彼らが行なった働きもまたイエス・キリストのためであった。旧約聖書の律法の時代の終わりは、ヤーウェの名の下でおもに行われた働きが終局を迎えたことを意味した。この後、神の名はもはやヤーウェではなくなった。神はイエスと呼ばれ、ここから聖霊がおもにイエスの名の下で働きを開始することになった。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より

エス」はエマヌエルであり、愛に満ち、慈悲心に満ち、人の罪を贖う捧げものを意味する。イエスは恵みの時代の働きを行い、恵みの時代を表すので、経営(救いの)計画の一部分しか表すことはできない。……イエスだけが人類の救い主である。イエスは罪から人類を救った捧げものである。つまり、イエスの名前は恵みの時代から来ており、恵みの時代の贖罪の働きのために存在した。イエスの名前は恵みの時代の人々が生き返り、救われるために存在したのであり、全人類の贖罪のための特別な名前である。そこで、イエスという名前は贖罪の働きを表し、恵みの時代を意味する。……イエス」は恵みの時代を表し、恵みの時代に救われたすべての人々の神の名前である。

『言葉は肉において現れる』の「救い主はすでに『白い雲』に乗って戻って来た」より

恵みの時代には、神の名はイエスであり、それは神が人類を救う神であり、神は憐れみ深く、いつくしみ深いという意味である。神は人と共にいた。神の愛、神の憐れみ、そして神の救いはひとりひとりに伴っていた。もし人がイエスの名を受け入れ、神の存在を受け入れるなら、人は平安と喜びを得ることができ、神の祝福、いくつもの大いなる恵みを受け、救いを受け取ることができる。イエスの十字架刑を通して、イエスに従うすべての人たちは救いを受け、その罪が赦された。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より

エスが現れたとき、イエスは神の役割も実行した。そして、いくつかの言葉を話した。しかし、イエスが成し遂げた主な働きは何だったろうか。イエスが主として成し遂げたことは、磔の働きであった。イエスは、磔の働きを完成し全人類を贖うために罪深い肉の似姿になった。そしてイエスが罪の贖いの供え物となったのは、全人類の罪のためであった。これが、イエスが成し遂げた主な働きであった。最終的に、イエスは、後から来るひとたちを導くために、十字架の道を与えた。イエスが現れたとき、それは主として、贖いの働きを完了するためであった。イエスは全人類を罪から救い、天の国の福音を人にもたらし、そして天の国をもたらした。その結果、やってきた人たちは皆こう言った。「我々は十字架の道を歩くべきだ。そして十字架のために、我々自身を犠牲にすべきだ」。もちろん、最初イエスは、人に悔い改めさせ罪を告白させるために、他の働きもいくつか行い、多少の言葉も語った。しかし、彼の本来の役割はやはり、磔であった。そしてイエスが道を説きながら費やしたあの3年半は、その後にやってきた磔に向けての期間であった。イエスが祈った何回かは磔のためでもあった。イエスが暮らした一人の普通の人としての人生や、地上で彼が生きた33年半は、主として、磔という働きを完成するためであった。そしてイエスに力を与え、イエスをこの働きに取り組むことができるようにした。その結果として神はイエスに磔という働きを託した。

『言葉は肉において現れる』の「すべてが神の言葉によって達成される」より

恵みの時代の働きでは、イエスが人を救う神であった。神がもつもの、神であるものは恵み、愛、憐れみ、慎み、忍耐、謙遜、思いやり、寛容であり、イエスが行った働きの多くは人の贖いであった。神の性質に関して言えば、それは憐れみと愛であった。そして神は憐れみ深くいつくしみ深かったので、人間のために十字架に釘づけにされなければならなかった。そうすることで神は自身の全てを犠牲にするほど人類を自身のように愛していることを示した。サタンは「人間を愛しているのだから、極限まで人間を愛さなければならない。人間を十字架から、罪から解放するためにあなたは十字架に釘打たれなければならない。人類すべての代わりにあなた自身を捧げてもらおう」と言った。サタンは以下のようにもちかけた。「あなたは愛にあふれ憐れみ深い神なのだから、極限まで人間を愛さなければならない。十字架にあなた自身を捧げなければならない。」イエスは「人間のためである限り、わたしのすべてを喜んで犠牲にしよう」と言った。その後イエスは躊躇することなく十字架にかけられ、人類全体を贖った。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より

恵みの時代、イエスはすべての堕落した人類(イスラエル人だけではない)を罪から救うために現れた。イエスは人に慈愛と憐れみを示した。恵みの時代に人が見たイエスは憐れみに満ちており、いつも愛情にあふれていた。というのは、イエスは人を罪から救い出すために来たからである。イエス磔刑を受け、本当に人類を罪から救い出すまで人の罪を許すことができた。その間、神は人の前に慈愛と憐れみを持って現れた。すなわち、イエスは人のために罪の生け贄になり、人が永久に許されるように人の罪のため磔刑にされた。イエスは慈悲深く、憐れみ深く、我慢強く、愛情があった。恵みの時代にイエスに従ったすべての人々も、あらゆることにおいて我慢強く、愛情深くあろうとした。彼らはすべての苦しみに耐え、たとえ叩かれても、罵られても、石を投げつけられても、決して反撃しなかった。

『言葉は肉において現れる』の「二度の受肉受肉の意義を完成させる」より

恵みの時代には、神の名はイエスであった。すなわち、恵みの時代の働きはおもにイエスの名の下でなされた。恵みの時代には、神はイエスと呼ばれた。イエス旧約聖書を越えて新しい働きを行い、イエスの働きは十字架刑で終わり、それがイエスの働きのすべてであった。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より

(3)神の国の時代に神が全能神という名を用いることの意義
参照聖書箇所

「もろもろの国はあなたの義をもろもろの王は皆あなたの栄えをそして、あなたは主の口が定められる新しい名をもってとなえられる。」(イザヤ書 62:2)

「勝利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない。そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう。」(ヨハネの黙示録 3:12)

「今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、全能者にして主なる神が仰せになる、『わたしはアルパであり、オメガである』。」(ヨハネの黙示録 1:8)

「今いまし、昔いませる、全能者にして主なる神大いなる御力をふるって支配なさったこと感謝します。」(ヨハネの黙示録11:17)

「全能者にして主なる神あなたのみわざは、大いなる、また驚くべきものであり万民の王あなたの道は正しく、かつ真実であります。」(ヨハネの黙示録 15:3)

関連する神の言葉

終わりの日には、神の名は全能なる神──全能なるものであり、神はその力で人を導き、人を征服し、人を自分のものとし、最終的にはその時代を終わらせる。どの時代でも、神の働きのどの段階でも、神の性質は明らかである。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より

全能神、すなわち神の国の王が証しされて以来、神の経営(救い)の範囲は全宇宙にくまなく広がっている。神の現れが中国で証しされただけでなく、全能神の名もまた各国、そして各地で証しされている。皆がその聖なる名を叫び、あらゆる手を尽くして神との交わりを求め、全能神の旨を把握し、教会にて協調して仕えている。聖霊は、このような不思議な方法で働くのだ。

「キリストが最初に発した言葉と証し」より

だから最後の時代──終わりの日の時代──が来た時、わたしの名前はまた変わるのである。わたしはヤーウェやイエスとは呼ばれないし、ましてやメシアとは呼ばれないが、力ある全能の神自身と呼ばれ、この名前の下でわたしは時代全体を終らせるだろう。わたしはかつてヤーウェとして知られていた。わたしはメシアとも呼ばれたし、人々はわたしを愛し、尊敬したので、ある時は救い主イエスと呼んだ。しかし、今日わたしは人々が過去に知っていたヤーウェでもイエスでもない。わたしは終わりの日に戻ってきた神、時代を終らせる神である。わたしは、わたしの全性質を余すところなく顕し、権威、名誉、栄光に満ちて地の果てに立ち上がる神自身である。人々は一度もわたしと関わったことがなく、わたしを知ったことがなく、ずっとわたしの性質に無知であった。天地創造から今日に至るまで、わたしを見たことがある者はひとりとしていなかった。これは終りの日に人の前に現れるが、人々の間に隠れている神なのである。神は真実で現実的に、照りつける太陽や燃え立つ火のように、力に満たされ、権威にあふれて人々のあいだに存在する。わたしの言葉によって裁きを受けない人や物は一人として、一つとしてない。燃える火によって浄化されない人や物は一人として、一つとしてない。最終的には、あらゆる諸国はわたしの言葉のために祝福され、わたしの言葉のために粉々に砕かれもする。このようにして、終わりの日にすべての人は、わたしが戻ってきた救い主であり、人類のすべてを征服する全能神であり、かつては人のための罪の捧げものであったが、終わりの日にはすべてを焼き尽くす太陽の炎にもなり、またすべてのものを顕示する義の太陽でもあることを理解するだろう。それが終わりの日のわたしの働きである。わたしはこの名前を名乗り、この性質を持ち、すべての人がわたしが義の神であり、照りつける太陽、燃え立つ火であることが理解できるようにする。そうするのはすべての人が唯一の本当の神であるわたしを崇め、わたしの本当の顔を見ることができるようにである。わたしはイスラエル人たちの神であるだけではなく、贖い主であるだけでもなく、天、地、海の至る所にあるすべての創造物の神である。

『言葉は肉において現れる』の「救い主はすでに「白い雲」に乗って戻って来た」より

時代を終わらせる神の最後の働きでは、神の性質は刑罰と裁きであり、それが不義なるもの全てを現わし、すべての人々を公に裁き、神を真に愛する人たちを完全にする。このような性質のみが時代を終わらせることができる。最後の日はすでに来ている。あらゆるものは種類によって区分され、本性に従って種類分けされる。この時に神は人の最後と終着点を明かにする。もし人が刑罰と裁きを受けなければ、人の不従順と不義を明かす方法はないであろう。刑罰と裁きを通してのみ、あらゆるものの終局を明かすことができる。人は罰せられ裁かれて初めて本当の姿を示す。悪は悪に戻り、善は善に戻り、人は種類によって区分される。刑罰と裁きを通して、すべてのものの最後が明かされ、悪人は罰せられ、善人は褒美を得るであろう。そして、すべての人たちは神の支配の下に従属することになるであろう。すべての働きは義なる刑罰と裁きを通して達成されなければならない。人の堕落は頂点に達し、人の不従順はあまりにも深刻になってしまったので、おもに刑罰と裁きであり、終わりの日に明らかにされる神の義なる性質のみが人を完全に変えて全き者とすることができる。この性質のみが悪を暴露し、よってすべての不義なる人々を厳しく罰することができる。よって、この様な性質は時代の意義を持ち、神の性質の顕示と表示はそれぞれの新しい時代の働きのためである。神はその性質を気まぐれに意味もなく顕すことはない。もし、人の終末が終わりの日に明らかにされるときに神が依然として人に無尽蔵の憐れみと愛を与えるなら、もし神が依然として人を愛情深く、人を義なる裁きにさらさずに寛容、忍耐、赦しを示すなら、人がどんなに深刻な罪を犯しても、義なる裁きなしに依然として人を赦すなら、神の経営のすべてに一体終わりはあるのだろうか。このような性質がいつ人類を正しい終着点に導くことができるのだろうか。たとえばいつもいつくしみ深く、優しい、柔和な裁判官を例に取ってみよう。この裁判官は犯した罪に関係なく人々を愛し、誰であっても、いつくしみ深く寛容である。それでいつ正しい判決にたどり着くことができるのか。終わりの日には、義なる裁きのみが人を分類し、新しい領域に連れて行くことができる。この様に、時代全体に神の裁きと刑罰の義なる性質を通して終わりがもたらされるのである。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より

神の今回の受肉において、神の働きは主に刑罰と裁きを通して神の性質を表すことである。これを基礎として、神は人により多くの真理をもたらし、より多くの実践方法を示し、こうして人を征服し、堕落した性質から人を救うという神の目的を達成する。これが神の国の時代における神の働きの背後にあるものである。

『言葉は肉において現れる』の「序文」より

終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人を教え、人の本質を明示し、その言葉や行為を解剖する。こうした言葉には、人の本分、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきか、そして神の知恵と性質など、さまざまな真理が含まれる。これらの言葉は、みな人の本質とその堕落した性質に焦点を当てている。とりわけ、いかに人が神を拒絶するかを明らかにする言葉は、人がサタンの化身であり、神に敵対する力であることを語っている。神が裁きの働きを行う際、神はほんの数語で人の本性を明示するのではなく、長期にわたって暴き、取り扱い、刈り込みをする。そうした暴き、取り扱い、刈り込みは、通常の言葉に置きかえることはできず、人が持つことなどない真理でしか置きかえられない。そうした働きのしかたのみが裁きとみなされる。そうした裁きを通じてのみ、人は説得され、神への服従に完全に納得し、神の真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすものは、人による神の真の顔の理解と、自らの背きに対する真の理解である。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、それまで人には理解できなかった奥義について大いに理解できるようになる。また、人が自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し理解し、人の醜さを発見するようになる。これらの効果は全て、裁きの働きによりもたらされる。というのも、裁きの働きの本質は、実際に神を信じる全ての者に、神の真理、道、いのちを開く働きだからだ。これが、神がなす裁きの働きである。

『言葉は肉において現れる』の「キリストは、真理を以て裁きの働きを行う」より

神の国の時代には、肉となった神は、神を信ずるすべての人たちを征服するために、言葉を用いる。これが、「言葉が肉において現れる」ということである。神は、この働きをするために終わりの日にやって来た。つまり、神は、言葉が肉において現れることの実際の意義を成し遂げるためにやって来た。神は言葉を話すだけであり、事実の到来は稀である。これがまさに、言葉が肉において現れることの実体である。そして肉となった神が自身の言葉を話すとき、これが肉における言葉の出現であり、肉へ入り来る言葉である。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。そして言は肉となった。」このこと(言葉が肉において現れるという働き)が、終わりの日に神が成し遂げるだろう働きであり、自身の全経営計画の最終章である。したがって、神は地上に来て、肉の中で自身の言葉を表さなければならない。

『言葉は肉において現れる』の「すべてが神の言葉によって達成される」より

神の国の時代、神は言葉を用いて新たな時代を招き入れ、働きの手段を変え、その時代全体の働きを行う。これが神が言葉の時代に働く原則である。神は異なる観点から語るために受肉し、肉となった言葉である神、その知恵と不思議とを人間が本当に見ることができるようにした。そうした働きは、人間を征服し、人間を完全にし、人間を淘汰するという目的をよりよく成し遂げるために行われる。これが、言葉の時代に言葉を用いて働くということの真の意味である。

『言葉は肉において現れる』の「神の国の時代は言葉の時代」より

神の最初の働きはユダヤで、イスラエルの範囲内で行われた。異邦人の諸国では時代を開始する働きは全くしなかった。神の働きの最終段階は異邦人の間で行われるだけでなく、なおさら呪われた人々の間で行われる。この点はサタンに屈辱を確実に与え得る証拠である。こうして、神は全宇宙の被造物すべての神に「なり」、万物の主、命あるすべてのものにとって崇拝の対象になる。

『言葉は肉において現れる』の「神はすべての被造物の主である」より

終わりの日に、わたしの名は異邦人の間で広められ、わたしの業は異邦人によって知られることとなり、彼らはわたしを、全能の神と呼ぶであろう。その結果わたしの言葉が速やかに実現されるだろう。わたしは全ての人々に、わたしが、イスラエル人の神であるだけではなく、全ての異邦人の神でもあり、わたしが呪った民族の神でさえもあることを、知らしめる。わたしは、全ての人々に、わたしが全ての被造物の神であることを分からせる。これが、わたしにとって最大の仕事であり、終わりの日のためのわたしの行動計画の目的であり、終りの日に達成されるべき働きのすべてである。

『言葉は肉において現れる』の「福音を広める働きは、人を救う働きでもある」より

神の栄光は全ての被造物の上にとどまる

1

今日は今までとは違う、なぜなら神が神の座から微笑みかけているから。神が征服した人々はひざまずき神を礼拝する。今日の神の民は今までとは違う。神の業は今の時代と神の栄光のためではないのか?神は何倍も努力し、その業は明るい未来のために明示される。その栄光が神が創造した人間の上にとどまる時に。

2

神はこれを規則、神の業の原則とする。神と協力したい全ての者よ、立ち上がって神のために尽力せよ。神の栄光がさらに天空を満たすように。神がただで与えた賜物を最大限に生かせ。神は何倍も努力し、その業は明るい未来のために明示される。その栄光が神が創造した人間の上にとどまる時に。

3

神の配慮の下にある全てのものは愛され守られている。そして、神がもたらす賜物を通して、神のために役立つ機会を分かち合う。神は全てのものを巧みに操ってその意志の全てを成し遂げる。神が選んだ場所と時に。

4

空を飛ぶ鳥は高きところの神の栄光であり、海と大洋は地上での神の行いである。全てのものの主人として人は神の栄光を表す。神は全てのものを営み、増やし、命で溢れさせる。神は何倍も努力し、その業は明るい未来のために明示される。その栄光が神が創造した人間の上にとどまる時に。神の栄光は全ての被創造物の上にとどまる。

 

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私の愛する方よ・・どうか待っていて下さい

1

木々の上に静かに月が昇る。私の愛するお方のように、純粋で美しく。ああ 私の愛する方よ、あなたはどこにいるのですか?今私は涙を流しています。私の泣く声が聞こえますか?あなたこそが、私に愛を下さる方。あなたこそが、私のことを心配して下さる方。あなたこそが、私のことをいつも想って下さる方。あなたこそが、私のいのちを育まれる方。月は夜空の向こうへ戻って行く。私の愛する方をあまり長く待たせないでおくれ。あの方に伝えておくれ。私はあの方が恋しくてならないと。私の恋心を忘れずに伝えておくれ。

雁のつがいが遠くへ飛んでいく。あれは私の愛する方の便りを運んで来るでしょうか?ああ おまえたちの翼を私におくれ。私が懐かしい故郷へ飛び帰ることができるように。私は愛する方の心配に報いる。私はあの方に告げたい。「悲しまないで下さい。」と。私は、あなたの喜ばれる返事を送ります。だから、あなたの払われた代価を、無駄にはしません。早く成長することを私はどんなに願っていることか。さすらいと苦しみの人生から解き放たれるために。ああ 私の愛する方よ、どうか待っていて下さい。私はこの世の栄華から飛び去ります。私は愛する方の心配に報いる。私はあの方に告げたい。「悲しまないで下さい。」と。私はあなたに、あなたの喜ばれる返事をしますだから、あなたの払われた代価を、無駄にはしません。だから、あなたの払われた代価を、無駄にはしません。

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私はより深く神を愛したい

1

神の愛は私の心を融かし、私の誤った考えを取り去って下さる。私は神の心、神の力強い愛を理解している。これからはずっと私は決して不平は言わない。今や全ての失われていた愛が戻って来たのだから。神は愛によって沢山の好意を私に寄せて下さる。私も神に私の命を捧げたい。私は心の底から神を愛している。決して神から離れないと私は誓う。そして神の愛には平凡なところは一切ない。たとえ私が何もかも捨て去ったとしても(私は)神の愛には値しない。私は神を完全により深く、より深く愛したい。

2

神の愛は無限である。一方私の愛には限りがあることを私は認める。神はこの世に入られた。この世は汚れはて引き裂かれているが。神の愛はかくも貴重で素晴らしい。我々を完全にするために神は御自分の心と知性を尽くされる。神は愛によって沢山の好意を私に寄せて下さる。私も神に私の命を捧げたい。私は心の底から神を愛している。決して神から離れないと私は誓う。そして神の愛には平凡なところは一切ない。たとえ私が何もかも捨て去ったとしても(私は)神の愛には値しない。私は神を完全により深く、より深く愛したい。

3

今、神を自分のものとした以上、もう決して神を失いたくはない。もし私が目を離したら、再び神を見つけられるだろうか。私は神のやさしさと愛にしがみつき、神が委ねたものに集中する。苦難と試練があっても平気だ。もっと苦しみが増しても喜んで受ける。私の神への愛は祝福から来るのではない。苦しみがなければ真の愛などありえない。私は心の底から神を愛している。決して神から離れないと私は誓う。そして神の愛には平凡なところは一切ない。たとえ私が何もかも捨て去ったとしても(私は)神の愛には値しない。私は神を完全により深く、より深く愛したい。

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ヨハネの黙示録で預言されたように、終わりの日の神の裁きの働きは偉大な白い玉座の裁きである

参照聖書箇所

「さばきが神の家から始められる時がきた。」(ペテロの第一の手紙 4:17)

「また見ていると、大きな白い御座があり、そこにいますかたがあった。天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった。また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた。」(ヨハネの黙示録 20:11-15)

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関連する神の言葉

以前に話した通り、裁きは神の家により始まる。この「裁き」とは、終わりの日に神の玉座の前に来る者に対して今日神が下す裁きのことを指す。終わりの日が来た時、神は天空に大きなテーブルを用意し、その上には白いテーブルクロスが広げられ、神は偉大な玉座につき、全ての人は地に跪く。そこで神は、その者が天国に昇るべきか燃える硫黄の湖に送られるべきかを決めるため、各々が犯した全ての罪を明らかにする―そのような超自然的な様子を想像する人がいるかもしれない。人の想像がどのようなものであろうとも、神の働きの本質は変わらない。人の想像は、人の思考による構築物にすぎず、人の脳に由来しており、人が見聞きしたものから組み立てられている。だから、いかに素晴らしくイメージが構想されていたとしても、それはやはり絵画にすぎず、神の働きの計画の代替物にはなり得ない。結局のところ、全ての人はサタンにより堕落しているのだから、どうして神の考えを推し量ることができようか。人は、神による裁きの働きを特に素晴らしいものと想像する。人は、神自身が裁きの働きをするのだから、とてつもない規模の、人間には理解出来ないようなものに違いないと考える。天に鳴り響き、地を揺らすはずだ、そうでなければ、神による裁きの働きにはなり得ない、そう考える。これは裁きの働きなのだから、神の働く様子は特に堂々と威厳のあるもので、裁かれている者は泣き叫び、ひざまずいて哀れみをもとめるに違いない、そう考える。そしてその光景は厳粛で熱気を帯びる…。誰もが神の裁きの働きは伝説的なものだと感じる、そのようなもののはずだと。しかし、神が人の間で裁きの働きを始めてから長い時間がたっても、あなたはまだ眠りを貪っていることを知っているか。あなたが神の裁きの働きが正式に始まったと思う時には、神が天と地を変える時が既に来ていることを、あなたは知っているか。その時、もしかしたらあなたは人生の意味をようやく理解したところかもしれないが、容赦ない神の懲罰の働きが、まだまどろんでいるあなたを地獄に送る。その時あなたは、神の裁きの働きが既に終わったことに突然気づくのだ。

……終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人を教え、人の本質を明示し、その言葉や行為を解剖する。こうした言葉には、人の本分、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきか、そして神の知恵と性質など、さまざまな真理が含まれる。これらの言葉は、みな人の本質とその堕落した性質に焦点を当てている。とりわけ、いかに人が神を拒絶するかを明らかにする言葉は、人がサタンの化身であり、神に敵対する力であることを語っている。神が裁きの働きを行う際、神はほんの数語で人の本性を明示するのではなく、長期にわたって暴き、取り扱い、刈り込みをする。そうした暴き、取り扱い、刈り込みは、通常の言葉に置きかえることはできず、人が持つことなどない真理でしか置きかえられない。そうした働きのしかたのみが裁きとみなされる。そうした裁きを通じてのみ、人は説得され、神への服従に完全に納得し、神の真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすものは、人による神の真の顔の理解と、自らの背きに対する真の理解である。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、それまで人には理解できなかった奥義について大いに理解できるようになる。また、人が自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し理解し、人の醜さを発見するようになる。これらの効果は全て、裁きの働きによりもたらされる。というのも、裁きの働きの本質は、実際に神を信じる全ての者に、神の真理、道、いのちを開く働きだからだ。これが、神がなす裁きの働きである

『言葉は肉において現れる』の「キリストは、真理を以て裁きの働きを行う」より

神は沈黙していて、私達に姿を現したことはない。しかし神の働きは止むことがない。神は全世界を見ているし、あらゆる物事を支配しており、人の言葉と行動の一切をつぶさに見ている。神の経営は計画に従って段階的に行われる。それは静かにまた特に驚くような成果もなく進行するが、神の歩みはますます人類に接近し、神の裁きの座が電光石火の速さで宇宙に設けられ、その直後に神の玉座も私達のもとに降りて来る。それは何と神々しい光景であり、威厳と神聖に満ちた情景だろうか。鳩のように、うなり声をあげているライオンのように、聖霊は私達すべてのもとにやって来る。神は賢く、義に満ちて、威厳がある。神は権威を持ち、愛と哀れみに満ちて私達の間に静かにやって来る。誰も神の到来に気づかず、誰も神を歓迎せず、その上、誰も神がこれからしようとしていることをまったく知らない。人の生活は相変わらずで、心にも変化は無く、毎日がいつも通りに過ぎていく。神は、神に従う取るに足らない者として、平凡な一信者として、普通の人のように私達の間に生きている。神には神が従事するものごとや目標があり、その上に普通の人にはない神性を有している。誰もその神性の存在に気づいておらず、誰も神と人の本質の違いを見抜いていない。

『言葉は肉において現れる』の「神の裁きと刑罰に神の出現を見る」より

神はいつか地上に来て、人間に姿を見せ、誰一人も逃さず人を一人一人試みつつ、全人類を自ら裁くと信じている人々がいる。このように考える者は、この受肉の働きの段階を知らない。神は人間を一人一人裁きはしないし、一人ずつ試みもしない。それは裁きの働きではない。堕落はすべての人間に共通しているのではないか。人間の本質は、みな同じなのではないか。裁かれるのは人間の堕落した本質、サタンのせいで堕落した人間の本質、そして人間の罪全部である。神は人間の些細で無意味な過ちを裁かない。裁きの働きは代表によるもので、特に誰かのために行うものではない。そうではなくて、この働きでは、一群の人々が人類を代表して裁きを受けるのである。受肉した神が自ら一群の人々に働きかけ、全人類に施す働きを代理的に行うと、その後、それが徐々に広まる。裁きの働きも、そのように行われる。神は特定の人や特定の人の集団を裁くのではなく、全人類の不義を裁く──例えば、神への敵対、神に対する不遜、神の働きの妨害等。裁かれるのは人間の神への敵対の本質であって、この働きは終わりの日の征服の働きである。人間が証しする受肉した神の働きと言葉は、終わりの日に大きな白い玉座の前での裁きの働きであり、これは過去に人間が考えたものである。今、受肉した神が行っている働きは、まさに、大きな白い玉座の前での裁きである。今日の受肉した神は、終わりの日にすべての人間を裁く神である。この肉体と神の働き、言葉、そしてすべての性質が神の総体である。神の肉の働きの規模は限られているし、直接全宇宙に関わるものではないが、裁きの働きの本質は、全人類への直接の裁きである。これは、中国に対してのみ行われるものではなく、少数の人々にだけ下るものでもない。受肉した神の働きの間、この働きの範囲は全宇宙に及びはしないが、全宇宙への働きを代表し、受肉した体の作業範囲の働きを終えた後、神は直ちにこの働きを全宇宙に広める。イエスの福音がそのよみがえりと昇天の後で全宇宙に広まったように。それが霊の働きであろうと、肉の働きであろうと、限られた範囲だけにおいて実行される働きではなく、全宇宙への働きを代表するものなのである。終わりの日、神は受肉した体で働くために出現する。そして、受肉した神は、大きな白い玉座の前で人間を裁く神なのである。霊でも肉体でも、裁きの働きを行うのは、終わりの日に人間を裁く神である。これは、神の働きによって規定されたものであって、神の外見やその他の要素によって決まるものではない。人間はこうしたことばについての観念をもっているが、受肉した神がすべての人間を裁き、征服することは誰も否定できない。それがどう評価されるかに関わらず、事実は、結局のところ、事実である。誰ひとり、「働きは神によるが、その肉体は神ではない」とは言えない。これは戯言だ。この働きは、受肉した神以外にはできないものだからだ。この業はすでに完了しているのだから、この働きの後で神が再び人間を裁く働きをすることはあり得ない。二度目の受肉した神はその経営(救いの)計画全体のすべての働きをすでに完成したのだから、神の働きの第四段階というものはない。

『言葉は肉において現れる』の「堕落した人間は受肉した神による救済をより必要としている」より

現在の征服の働きとは、人間の結末がどのようになるかを明らかにすることを意図するものである。なぜわたしは今日の刑罰と裁きとが、終わりの日の大きな白い座の前での裁きだと言うのか。あなたにはこれがわからないのか。なぜ征服の働きは最終段階であるのだろうか。これはまさしく、それぞれの種類の人間が最後にどうなるかを明らかにすることなのではないか。それは、すべての人が、刑罰と裁きとによる征服の働きの過程の中で、自分のありのままの姿をあらわし、その種類に応じて分類されるようにするためではないか。これはむしろ人間を征服するというよりも、各種の人間がどのような最後を迎えるのかを示すことだと言った方がいいだろう。つまり、これは彼らの罪を裁き、それから様々な種類の人間を示し、そのことによって、彼らが悪であるか義であるかを判定するのだ。征服の働きの後に、善に報い悪を罰する働きが続く。完全に従う人々、つまり、完全に征服された人々は次の段階に移され、その業を全宇宙に広める。征服されなかった者は闇の中に置かれ、災厄に遭う。このように人間はその種類によって分類され、悪を行う者は悪として分類され、二度と陽の光を見ることがない。また、義人は善として分類され、光を受け、永遠に光の中で生きる。

『言葉は肉において現れる』の「征服の働きの内なる真実(1)」より

真理に従い、神の働きに服従する人々は再び受肉した神――全能神の名の下に集うだろう。彼らは神自らの導きを受け入れ、さらに多くの高い真理を手に入れ、本当の人生を受けるだろう。彼らは過去の人々が決して目にすることのなかったビジョンを見るだろう。「そこでわたしは、わたしに呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。ふりむくと、七つの金の燭台が目についた。それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。そのかしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真白であり、目は燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、声は大水のとどろきのようであった。その右手に七つの星を持ち、口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった。」(ヨハネの黙示録1:12-16)このビジョンは神の全性質の現れであり、このような神の全性質の現れは、今回人の姿となった神の働きの現れでもある。刑罰と裁きを連発する中で、人の子は言葉を話すことによって本来の性質を表現し、その刑罰と裁きを受け入れるすべての人々が人の子の本当の顔、ヨハネが見た人の子の顔の忠実な描写である顔を見ることを認める。(もちろん、このすべては神の国の時代の神の働きを受け入れない人々には見えないだろう。)神の本当の顔は人間の言葉では十分明確に表現することはできないので、神はその本来の性質の表現を用いて人に本当の顔を示す。すなわち、人の子の本来の性質を経験した人々はすべて、人の子の本当の顔を見たのである。神はあまりに偉大なので、人の言葉で十分明確に表現することができないからである。いったん神の国の時代における神の働きの各段階を経験したら、ヨハネが燭台の明かりの中で人の子について語った言葉の意味を人は知るだろう。「そのかしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真白であり、目は燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、声は大水のとどろきのようであった。その右手に七つの星を持ち、口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった。」その時、あなたは、これほどの多くの言葉を語ったこの普通の人間が本当は神の再来であることをまったく疑う余地なく知るだろう。そしてあなたは自分がいかに祝福されているかを本当に感じ、自分がもっとも幸運であると感じるであろう。あなたはこの恩恵を受け入れたくないだろうか。

『言葉は肉において現れる』の「序文」より

裁きの働きは神自身の働きなので、当然、神自身が行う。神の代わりに人が行うことはできない。裁きは真理を通した人への征服なので、人の間でこの働きを行うため、神はやはり受肉した姿で現れることは疑う余地がない。つまり、終わりの日には、キリストが真理を用いて地球上の人を教え、真理を用いて彼らに真理を全て明らかにする。これが、神による裁きの働きだ。多くの者が、神の二度目の受肉について受け入れ難いものを感じる。なぜなら、神が受肉して裁きの働きを行うことは、人には信じ難いからだ。しかしわたしはあなたに告げなければならない。神の働きは往々にして人の予測をはるかに超えるもので、人の頭がそれを受け入れるのは難しいのだと。というのも、人は地上のウジ虫にすぎないが、神は宇宙を満たす至高の存在だ。人の頭は、ウジ虫しか生み出さない汚い水たまりに過ぎないが、神の考えに支配されたひとつひとつの働きは、神の知恵による結晶だ。人は、常に神に敵対することを望む。それなら結局誰が負けることになるかは自明だと、わたしは言おう。わたしは強く勧める、あなたがたがみな自分を金より重要だとみなさないようにと。もし他の人たちが神の裁きを受け入れられるなら、なぜあなたはできないのか。彼らに比べてあなたがどれほどの高みにいるというのか。もし他の人たちが真理の前に頭を垂れるなら、なぜあなたも同様にできないのか。神の働きの偉大な潮流を止めることはできない。神は、あなたの「功績」のために裁きの働きを繰り返すことはなく、あなたはそんな好機を逃したことを痛烈に後悔するだろう。もしあなたがわたしの言葉を信じないなら、天の偉大な白い玉座があなたの上に「裁きを下す」のを待つが良い!あなたは、全てのイスラエル人がイエスを拒絶し否定したにも関わらず、イエスによる人類への贖罪はいまだに世界の果てまで広がっているという事実を知るべきだ。これは、神がはるか昔に実現した事実ではないのか。もしあなたがまだイエスによって天に引き上げられるのを待っているのなら、あなたは頑固な一片の枯れ木[a]だとわたしは言おう。イエスは、あなたのように真理に忠実でなく、祝福だけを求める偽の信者を認めないだろう。それどころか、神は容赦なく、何万年も焼かれるために火の湖にあなたを投げ入れるだろう。

『言葉は肉において現れる』の「キリストは、真理を以て裁きの働きを行う」より

私は主の再来を歓迎した

私の両親は中国人で、私は幼い頃から連れられて教会の礼拝に出席しました。12歳でミャンマー国内の大規模なキリスト教キャンプに参加した時、私は牧師に「死を逃れ天国に入る唯一の方法は洗礼を受けることです。」と言われ、天国に入れるようキャンプ中に洗礼を受けました。その時から、私は本当のキリスト教徒となりました。


大人になり、私は教会の青年部会長を長年務め、伝道師が留守の時は、祈祷でも、聖書研究でも、讃美歌でも、証を述べる時でも、兄弟姉妹をリードしました。結婚後は日曜日の献金や十分の一献金を集める係となりました。私の教会は、当初は聖霊の働きがありました。牧師は滑らかに雄弁をふるい、兄弟姉妹は説教によく聞き入り、啓きを受けたように感じていました。誰もが自信に満ち溢れ、毎回の礼拝に出席して、非常な熱意をもって福音を広めました。しかし次第に牧師の説教は繰り返しの多い、精彩を欠いたものとなり、私たちが求めるものが得られなくなってしまいました。そして兄弟姉妹の持っていた自信も薄れ始め、金銭や肉体的な享楽に興味が移ってしまいました。信徒の数も減り始め、やがては全員が必ず出席するよう毎週土曜日になると牧師が電話をかけてくる始末でした。兄弟姉妹は、出席したとしても力も熱意もなく讃美歌を歌い、説教の最中は居眠りし、礼拝が終わると仕事の話をし始めました。礼拝は形だけのものとはり、中身が全くなくなりました。そこで私は非常に悩み、「どうして私たちの教会はこんなに荒廃した牧場となってしまったのだろう?」と思いましたが、その時過去30年間様々な牧師がよく同じ事を言っていたのを思い出しました。「私たちは主なるイエス様を信じているので、私たちの罪はすべて赦されている。」「私たちは信仰のゆえに神の恵みにより救いを得る。」「主なるイエス様は既に一度救いの働きを終えられたのだから、我々主の信者は既に救われており、天国に入る。」と。そこで「私は既に救われている、私は天国に入るのだ。」というのが、私の神への信仰の基本的な教義となりました。教会がいかにさびれていても、信者がいかに弱く受動的であっても、私は常に「私は主の道を歩まなければならない。主から離れない限り私をお見捨てになることはないだろう。主がお戻りになる時、私を天国に連れて行って下さるだろう。」と自分に言い聞かせていました。そう自分に言い聞かせてはいたものの、私は主の道を歩み続けられませんでした。昼には罪を犯し、夜にはその罪を告白しましたが、いつ祈っても側に主を感じることができませんでした。まるで主に見捨てられたかのように、私の霊は暗黒と空白を感じ、私は神からどんどん遠ざかるのを感じました。私はそのために非常に悩みましたが、問題の根源が見つからずにいました…。

2016年2月、私はインターネットでジャン兄とリーフイ姉に出会いました。主への信仰についての経験を語り合った後、私は二人に自分の教会が荒涼たる牧場になってしまった、という悩みを打ち明けました。するとジャン兄はこう言いました。「荒廃してさびれているのはあなたの教会だけではありませんよ。今は宗教界全体が荒廃しています。それは、主なるイエス様が働きをなさっていた頃、荒廃した寺院が盗賊の巣窟になっていたのと同じです。そこで、まず寺院がどうして荒廃したかを理解すれば、今の宗教界がこんなにさびれて荒廃している理由もわかるでしょう。主なるイエス様が律法の時代を終えて恵みの時代を始められた時、聖霊は寺院では働きを行わず、代わりに主なるイエス様を受け入れ、イエス様に従った人々に働きかけました。ヤーウェを崇拝した人々は、神の働きのペースに追いついていけず、聖霊の働きを受けられませんでした。自らの寺院が牛や羊は鳩を売り両替をする場所となってしまったことからもわかるように、神の加護と配慮を失った彼らは、罪に生きていました。元はヤーウェの栄光に輝いていた寺院は盗賊の巣窟になり、そのために神の性情を怒らせ、神の憤慨のうちに見捨てられたのです。それが、寺院が元々荒廃した理由の一つです。」そして私たちは聖書からアモス書の次の2個所を読みました。「わたしはまた、刈入れまでなお三月あるのに,雨をとどめて、あなたがたの上にくださず、この町には雨を降らし、かの町には雨を降らさず、この畑は雨をえ、かの畑は雨をえないで枯れた。」(アモス書 4:7)「主なる神は言われる、『見よ、わたしがききんをこの国に送る日が来る、それはパンのききんではない、水にかわくのでもない、主の言葉を聞くことのききんである。』」(アモス書 8:11)ジャン兄はまた、私に全能の神の御言葉から次の2個所を送ってくれました。「神はこの事実を成し遂げる。彼は全宇宙のすべての人々を彼の前に迎え、地上の神を礼拝させる。他の場所での神の仕事は終わり、人々は真理の道を求めなければならなくなるだろう。それはヨセフのようだ。みな食べ物を求めて彼のもとを訪れ、頭を垂れた。彼は食べ物を持っていたためである。飢饉を避けるために、人々は真理の道を求めなければならない。宗教界全体が飢えており、今日の神のみが、人の喜びのために提供される、枯れることのない生ける水の泉であり、人々は彼のもとに来て彼を頼るだろう。」(『言葉は肉において現れる』の「千年神の国は訪れた」より)「実際は、そうした者に対する神の業は遠い昔に既に停止しており、そうした者には聖霊の業が存在しない。神の業が、それとは別の人間の集団、すなわち神が新たな業を完遂させる意向の人間の集団に移転して久しい。なぜなら、宗教の中にいる者は神の新たな業を受け容れることが出来ず、旧来の業に固守するだけであり、したがって神はそうした人々を見捨てて、神の新たな業を受け容れる人々に対して、その業を行うからである。そうした者は神の新たな業において協力する者であり、神の経営計画を完遂出来るのは、その方法によるほか無い。」(『言葉は肉において現れる』の「神の業と人間の実践」より)そしてジャン兄はこう言いました。「現在の教会もこの寺院のように荒廃していますが、それも神が新たな働きをなさっているからです。私たちが非常に待ち望んでいた主なるイエス様は、今や人間の形に受肉され、私たちの間に戻っていらっしゃいました。イエス様は、終わりの日に真実を表し人間を裁き、清め、救われるため、全能の神と名乗られています。イエス様は、恵みの時代を終わらせ神の国の時代を始められるためにいらっしゃいました。聖霊は既に恵みの時代の教会を離れ、今や終わりの日の全能の神の働きを受け入れる人々にその働きを行っています。単に主なるイエス様の御名を守るだけで、神の新たな働きに追いついていない人々は皆、もはや側に神がいらっしゃらず、もはや聖霊の働きがなく、命の生ける水を与えられることが決してないでしょう。そこで当然、そうした教会はどんどん荒廃していくのです…。」

ジャン兄の話を聞いて、私は今日の教会の状況が本当に主なるイエス様がその働きを始められた頃の寺院と変わらないのを知りました。そして、ジャン兄の話に主の新たな光と導きがあるのが感じられました。しかし、主なるイエス様がお戻りになって人間を裁き清める新たな働きをなさっている、と言ったことには少し困惑して、こう思いました。「確かに主なるイエス様は戻っていらしたかもしれない。しかし、私たち信者はもう救われているのだから、主がお戻りになられた時は、裁きと清めの別の段階の働きをなさらずに、私たちをそのまま天国に連れて行ってくださるはずだ!だが、主の再来は重要な事なのだから、まずそれについて一生懸命に答えを見つけるべきだ。」

そこでジャン兄に混乱した気持ちを伝えると、ジャン兄はこう言いました。「主の兄弟姉妹の多くがあなたと同じ意見です。また、そういう人々は、私たちは既に主なるイエス様を救い主として受け入れているので、自分たちの罪は赦され、イエス様の恵みを通じて救いを得、イエス様が戻っていらした時にはそのまま天国に連れて行ってもらえるのだとも思っています。そこで、そういう人たちは終わりの日における神の救いを受け入れようとしません。その主な理由は、主なるイエス様の働きがもたらした良い結果を理解せず、神の働きを知らないからです。全能の神はこうおっしゃいました。『当時、イエスの働きは人類すべての贖いであった。イエスを信じるすべての人の罪は赦された。イエスを信じているならば、イエスはあなたを贖う。イエスを信じたなら、もはや罪人ではなく、罪から解放されたのである。これが救われるということで、信仰によって義とされるということである。しかし、信じている人たちの中には反抗的で、神に逆うものが残っており、それはやはりゆっくり取り除かれなければならなかった。救われることは人が完全にイエスのものとなったことを意味したのではなく、その人はもう罪の中にはおらず、罪が赦されたことを意味した。信じるならば、もう罪の中にはいないということである。』(『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(2)」より)『イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了しただけで、人の贖罪のためのささげものとなり、人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかった。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、命を得るだろう。』(『言葉は肉において現れる』の「序文」より)神の御言葉から、私たちは恵みの時代の主なるイエス様の働きは人類の救済だったことがわかります。主なるイエス様は、私たちの罪の生贄となられ、律法による罪の宣告から私たちを救われるために十字架に掛けられました。主の御前に来たり、自らの罪を認めて悔い改めることで、私たちはその罪を赦されます。それが救われるということです。つまり、救われるということは赦されるということであり、律法の下には罪の宣告はありません。しかしそれは、私たちがサタンの汚れた性情や私たち自身のサタンのような本質から逃れ、二度と罪を犯さないということではありません。傲慢、欺瞞、身勝手さ、貪欲さなどの、私たちのサタンのような本質は未だに存在します。私たちはサタンのような本質とサタンの性情に支配されているため、未だによく嘘をつき、騙し、傲慢でうぬぼれた行動をし、善良な振りをして神を欺きます。私たちは、特に自分の観念とそぐわない時は常に神の働きを故意に批判し、神を非難し、神に背きます。このように深く堕落し神に背く私たちのような人類が、どうして神の賞賛を得られましょうか?私たちは天国に入る資格があるでしょうか?神に背きサタンに属する堕落した人類の私たちを、もし神が御国に招き入れられるならば、神の義と神聖さに対する説明が付かなくなってしまいます。そこで、私たちが御国に入る資格を得るためには、神に裁きと清めの段階の働きを行っていただき、私たちの汚れた性情を変えていただき、私たちの罪深い本質という足かせを完全に振り払っていただかなければなりません。一たび私たちの命の性情が変われば、もはや神に反抗したり背いたりせず、真に神に従い、神により完全に得られ、完全に救われて天国に入り、神が約束なさったものを受けることができるでしょう。それが終わりの日における神の裁きの働きの結果であり、主なるイエス様の救いの働きは、終わりの日における人間の裁きと清めへの道を開くためのものであったことがわかります。つまり、主への信仰により私たちの罪は赦されても、私たちは罪から完全に逃れることも、天国に入ることもできないのです。罪から完全に救われるためには、裁きと清めの働きという別の段階を経なければならないのです。終わりの日における神の裁きの働きにより、聖書の『あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救にあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである。(ペテロの第一の手紙 1:5)』という言葉が正に成就するのです。」

全能の神の御言葉とジャン兄の話を聞いて、私は主なるイエス様がなさったのは救いの働きであり、完全に罪を拭い去ったのではなかったことがわかりました。罪を犯した人は、法の下で非難され、刑罰を受けるべきですが、私たちが主なるイエス様の御前に来てその罪を認めるならば、罪は赦されます。神は私たちに罪があるとは見なさず、刑罰を受けなくて済むようにしてくださいます。それが救いです。しかし、この救いは、私たちが清められ、完全に救われたことを意味してはいません。どうも人々は真実を理解せず、真の救いが何かを誤解しているようです。私は、私たちが毎日罪を犯してはそれを認めるという未だに罪深い生活を送っており、それで裁きと清めという別の段階の神の働きを必要としていることを思いました。そして、キャンプで牧師が言った「クリスチャンが死を逃れ天国に入る唯一の方法は洗礼を受けることです。」という言葉を思った時、その考え方が本当に余りに非現実的であるのを悟りました。子供じみていて荒唐無稽だとさえ言えるでしょう。その後ジャン兄やリーフイ姉と長いおしゃべりができ、二人の話をよく考えてみた時、私は全能の神の御言葉には求めるべき真実があり、その御言葉は非常に実践的で、とても私のためになり、助けとなると感じました。しかし、主の再来は重大な事であり、その事をじっくり考えるため、私は終わりの日の全能の神の働きを徹底的に追求することにしました。

そこで、それからの数週間、私は全能の神の終わりの日の働きについてインターネットで情報を探し始めました。インターネットを使う前に、私は「主よ、東方閃電が本当に渡した信じる主であるならば、私の心を動かし、あなたの御声をお聞かせください。」と主に祈りました。そして、それとは気づかずにあるウェブサイトをクリックすると、驚いたことに、そこには全能神教会に対する宗教界や中国共産党からのあらゆる批判、攻撃、非難の言葉が書かれていたのです。私は非常にショックを受け、危険な道に足を踏み入れてしまったかと怖くなりました。そこで、ジャン兄とリーフイ姉にそのサイトのリンクを送り、「こうしたことを全部どう説明してくださいますか?」と尋ねました。最初、ジャン兄らは私が送った情報に対し何の返信も寄こさないだろうと思っていたので、二人が落ち着いてしっかりと返答した時はびっくりしました。「全能の神は真の神であり、主なるイエス様の再来です。宗教界や中国共産党がインターネット上で広めているものは、人々を混乱させるために作った噂や出鱈目です。人々を神に従わせないようにするたくらみの一部なのです…。」

ジャン兄の言葉は私を本当に揺れ動かし、私はその意味を把握しようと心の中でもがき始めました。私はインターネットの接続を切り、主にこう祈りました。「主よ、全能の神が本当にあなたの再来であるのなら、あなたの道を理解し、あなたの再来をこの目で見る機会を逃さないよう、どうぞ啓示をお与えください。インターネット上のああいう事柄が、すべて宗教界や中国共産党の流す噂に過ぎないのならば、私がそれに耳を貸さないようにしてください。サタンに誘惑されるのは恐ろしいことですから。」祈ると私は少し落ち着き、私も間違って非難された時のことや、玉石製品を売って商売がうまくいっていた知り合いの店主が、それを妬ましく思った競争相手に噂を流されて信用を失ってしまった時のことを思い出しました。そして私の心にはいくらかの光が差し始め、この世がいかに暗黒と悪に満ちており、インターネット上の多くのものは、良きにせよ悪しきにせよ、人の話に過ぎないと思い至りました。そして、全能の神とその教会に対し宗教界と中国共産党がインターネット上で流している非難についてよく考えてみました。そこには何の証拠も挙げられておらず、どれも信じ難いことでした。しかも、私は全能の神の御言葉を読み、全能神教会の兄弟姉妹と交流していました。兄弟姉妹が言ったことはインターネットで広まっている噂とは何の関係もなく、二人が私を無理に全能神教会に入らせようとしたこともありませんでした。交流している数か月間、聖書を探求し、全能の神の御言葉を読み、神の御言葉を語り合う他には、何の話題も上ったことはありませんでした。話し方からしても、二人が敬虔で立派な人たちだというのが伝わりました。二人の話は光に満ちていて、私にはとてもためになるように感じられ、彼らの教会は本当に聖霊の働きがある教会でした。私はそう考えたところで、聖霊の働きのある教会は神の教会であるのだから、もちろんサタンはそれを攻撃・非難して、否定的なプロパガンダで取り巻くことだろうと思い至りました。

後日、私はインターネットで中国共産党の悪意に満ちた様々な行為について読みました。共産党がいかに外国人伝道師を中国から締め出し、聖書を焼きはらい、教会を破壊し、クリスチャンを拘束して殺害したか…。私の心には、中国共産党に対する憎しみと怒りが沸き起こりました。無実で無抵抗のクリスチャンを迫害するとは、何と悪意に満ちていることか。中国共産党無神論を広めて常に神に反対し、人間性や理由を微塵も示さずにキリスト教徒を捉えて迫害してきたのだから、彼らが言ったことが真実かどうかは知りようがありません。そこで、私はジャン兄らにまた連絡を取り始め、終わりの日における神の働きについて、そしてサタンの狡猾なたくらみをどう見抜くかについて、多くの真実を語ってもらいました…。彼らの話を聞いて、私は終わりの日の神の働きについて多少理解し、宗教界や中国共産党がインターネット上で広めている出鱈目が、いかにすべて根も葉もない噂や荒唐無稽な意見であり、全能の神の働きを人々に受け入れさせないようにするためのサタンの狡猾なたくらみの一部となっているかがわかりました。そして私は、もう二度と宗教界や中国共産党が言う事を聞かないことにしました。すると心の中にあった心配や恐怖は消え、同時に、全能の神の働きと主なるイエス様の働きは同じであり、両方がサタンのような政権や宗教界から抵抗や避難を受けたことに思い至りました。私はそれにより全能の神の働きが真実の道だと確信したのです!

ある日、私はFacebookで神をほめ讃える讃美歌を聞き、非常に感動しました。実際、賞讃に値し、讃美する価値があるのは神のみです。その讃美歌には聖霊の導きがありました。そして出典を調べてみると、その讃美歌は全能神教会のものでした。私はその讃美歌に感動するあまりただただ涙を流し、嬉しさのあまり兄弟姉妹に連絡して、神が私の心を突き動かし、私を導いてくださったことを告げました…。今や私は、全能の神が主なるイエス様の再来であると完全に信じており、この道の終わりまで全能の神に喜んで従っていこうと思っています。

現在私は全能神教会に出席し、玉座から流れる生ける命の水を享受しているとともに、自信と愛も回復しました。そして、さらに大切なことに、今では正しいことと誤ったこと、暗黒と光を見分けられるようになりました。私には何が真実で何が噂かがわかります。真実は神から来るもので、噂はサタンから来るものです。そして噂を聞いてもただ盲目的にそれに従うのではなく、慎重に真実と偽りを見分け、熱心に祈り、真実を謙虚に追求し調べるべきです。そうすることでのみ、私たちは噂から逃れて神の御前に戻れるのです。

チンシン (ミャンマー)