日々の神の御言葉「経験について」抜粋450
『言葉は肉において現れる』より引用
日々の神の御言葉「現実をどのように知るか」抜粋434
もし人々が神を知ろうとしたら、人々はまず神が現実の神であることを知り、神の言葉を知り、肉となった神の現実的な出現、神の現実的な働きを知らなくてはならない。神の全ての働きが現実であることを知った後でのみ、あなたは神と実際に協力することができ、それを通してのみ、あなたはあなたのいのちを成長させることができる。現実の認識を持たない人はみな、神の言葉を経験する術を持たず、彼らは自分たちの観念にのみ込まれてしまい、空想の中に生きる。その結果、彼らは神の言葉に関する認識を何も持たない。あなたの現実の認識が広ければ広いほど、あなたは神により近くなり、神とさらに親密になる。反対に、あなたがたがぼんやりとした抽象的なものと教義を求めれば求めるほど、あなたは神から遠く離れてしまうであろう。その結果、神の言葉を体験することはより厳しく難しく、神の言葉に入ることがより出来なくなってしまうと感じるようになる。神の言葉の現実に入り、霊的な生活の正しい軌道に乗りたいのであれば、あなたはまず現実を知り、曖昧で超自然的な物から離れなければならない。つまり、聖霊がどのように実際に内側からあなたを啓かせ、導くかを理解しなければならない。このように、もしあなたが、あなたの中に働かれる聖霊の実際的な働きを真に把握することができるならば、あなたは、神によって全き者とされる正しい道へと入るであろう。
今日、全てのことは現実から始まる。神の働きは最も現実的なものであり、人々が触れることができるものである。それは人々が体験でき、また獲得できるものである。人々の中には曖昧で超自然的なものが多く存在し、自身が神の現在の働きを知ることの妨げとなっている。従って、人は経験において常に逸脱しており、常に困難を感じているが、それは全て人の観念によって引き起こされている。人々は聖霊の働きの原理を把握することができなく、現実を知らず、そのため自らの成長の過程において常に消極的であり、神の要求を遠くから見るだけで、達成することはない。彼らは神の言葉が本当に良いということが分かるだけで、成長する道を見出すことはできない。聖霊はこの原則によって働く。人々の協調を通して、人々が積極的に祈り、探求して神に近づくことで成果が達成し、聖霊による啓発を受け、光に照らされる。聖霊が一方的に行動する、あるいは人が一方的に行動するということはない。両者の行動が必要不可欠である。人々が聖霊と協力すればするほど、そして、神の要求する基準に達することを求めれば求めるほど、聖霊の働きは大きくなる。聖霊の働きに人々の真の協力が伴ってのみ、神の言葉の本当の経験と実質的な認識が生まれる。このような経験を通して徐々に、完全にされた人が最終的に生み出される。神は超自然的なことは行わない。人は、神が全能で、全てのことが神によってなされるという観念を持っている。その結果、人々は消極的に待ち、神の言葉を読んだり、祈ったりせず、聖霊に触れられることを待っているだけである。しかし正しい理解を持っている人々は次のように信じている。「神の行いはわたしが協力する範囲にのみに及び、わたしの中における神の働きの効果は、わたしがどう神と協力するかにかかっている。神が語られるときには、わたしは神の言葉を求め、神の言葉に向かって突き進むために、あらゆる努力をすべきだ。これがわたしの達成すべきことだ。」
『言葉は肉において現れる』より引用
ゴスペル音楽「神への信仰における成功への道」
パウロとペテロの終着点は彼らの貢献度ではなく
被造物としての本分を尽くせたかどうかに基づいて判断された
つまり、彼らの終着点はどれほどの働きを行ったか
あるいは世の人が彼らに対してどのような評価を下したかによってではなく
彼らが最初から何を追い求めていたかに基づいて決められたのである
よって、積極的に被造物としての本分を尽くすために探し求めることが
成功の道であり
さらに神に対する真の愛を追い求めることが最も正しい道であり
自らの古い性質の変化と神への純粋な愛を追い求めることが
成功への道である
成功への道である
そのような成功への道こそ
被造物としての本来の姿そして元々の本分を回復する道なのである
被造物としての本来の姿そして元々の本分を回復する道なのである
それは回復の道であると同時に
神の初めから終わりまでの全ての働きの目的でもある
人の追求が個人的な贅沢な要求と不合理な望みで汚れているのなら
人の性質を変化させる効果は達成できない
これは回復の働きと食い違うことになる
よって間違いなく聖霊による働きではなく
このような追求が神に認められることがないのは確かだ
神に認められることがないのは確かだ
神に認められないのであれば追い求めることに何の意味があるだろうか
追い求めることに何の意味があるだろうか
神に認められないのであれば
追い求めることに何の意味があるだろうか
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より
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キリスト教映画「敬虔の奥義」抜粋シーン(1)人の子の到来の奥義
主の再臨について、主イエスはこう仰せられた、「あなたがたも用意していなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。」(ルカによる福音書12 : 40)「いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。」(ルカによる福音書17 : 24-25)これらの預言は「人の子が来る」や「人の子の到来」に言及しているが、「人の子の到来」とは正確に何を意味しているのか?主イエスはどのように再臨をなされるのか?この短い動画が真理を明らかにする。
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キリスト教映画「終電に乗る」抜粋シーン(3 )主が再来される時の働きの方式
ゴスペル キリスト教映画「呪縛を解く」抜粋シーン(1)どのように私たちは主の再臨を迎えるのか
終わりの日は既に来ており、多くの信者たちは、主が再臨し天国へ連れて行ってくれることを強く願っています。しかし、主が再来されても、どのように私たちの前に現れるのか知っていますか?想像した通りに、雲に乗って降りて来て、私達の目の前に公然と現われるのでしょうか?全能神は言われます。「あなたはイエスに会いたいと思うか。イエスと共に生きたいと思うか。イエスの語った言葉を聞きたいか…イエスはどのように来るのか。あなたがたはイエスが白い雲の上に再臨すると信じているが、わたしはあなたがたに問う。この白い雲とは何を意味しているのか。イエスの再臨を待つ多くの信者がいる中、どの人々のところにイエスは降臨するのか。」「天からイエスが白い雲に乗って降臨するのをあなたがたが自分の目で見る時、これは義の太陽が公に現れることである…それは神の経営(救いの)計画の終わりを告げるものであり、神が善良な人々を報い、邪悪な者たちを罰する時である。神の裁きは人がしるしを見る前、真理の現れだけがある時に終わる。」(『言葉は肉において現れる』より)