東方閃電-小羊の足跡に従っていくこと

東方閃電全能神教会は世界に”神様が帰ってきた”ことを公に証ししています。彼は再臨の主イエスです。神様の羊は神様の声を聞き分けます。多くの真理を渇仰する人は、東方閃電全能神教会を考察します。

キリスト教映画「美しき声」抜粋シーン(1)主イエスの再臨についての預言はどのように満たされるのか

    宗教界の多くの人は、主が雲に乗って降臨されるという預言に執着しており、そのように主が来られて彼らを天国へと引き上げるのを待ち望んでいる。しかし、「見よ、わたしは盗人のように来る」(ヨハネの黙示録16:15)や「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。」(マタイによる福音書25:6)など、主は密かにやって来られるという預言を見落としている。では、これら主の再臨についての預言はどのようにして満たされるのか?また、私たちはどうすれば主の再臨を迎える賢い乙女になれるのか?

 

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キリスト教映画「待ち焦がれて」抜粋シーン(2)神様の現れの奥義を知っていますか 

キリスト教映画「待ち焦がれて」抜粋シーン(1)主はこのようにお見えになる 日本語吹き替え 

キリスト教映画「知らぬが命取り」なぜ愚かな乙女は天国へ入ることができないのか 日本語

 

    ヂェン・ムーエンは米国の中国系キリスト教会の労同者です。ヂェン・ムーエンは長年主を信じ、主のために熱心に働き、尽くしてきました。あるとき彼の叔母が主イエス・キリストが真理を示し、終わりの日に人を裁き清めの御働きをするために再臨された、と証したのです。その福音にヂェン・ムーエンは胸が高鳴りました。全能神の御言葉を読み、全能神教会の映画や動画を観て、全能神の御言葉が真理であること、全能神こそが主イエス・キリストの再来に違いないこと、を確信しました。彼は兄弟姉妹達と共に、終わりの日の全能神の御働きを学び始めました。しかし、教会の指導者であるマー牧師がそのことを知ると、牧師はヂェン・ムーエンらを何度も妨害しようとしました。牧師は中国共産党政府の宣伝用の動画を見せました。それは東方閃電を中傷し非難する内容でした。その目的はヂェン・ムーエンが真の道を学ぶのをやめさせることにありました。この動画を観たヂェン・ムーエンは当惑しました。彼の目には全能神の御言葉が真理であり、神の声であることは明白です。それなのになぜ宗教界の牧師や長老たちは全能神を非難するのでしょうか。牧師ら自らが求め学ぶことを拒絶するだけでなく、他者が真の道を受け入れることも止めようとします。それは何故なのでしょう。ヂェン・ムーエンは、欺かれて誤った道に迷うことを恐れますが、神の国に召されるチャンスを失うことも恐れます。葛藤し困惑するヂェン・ムーエンに、マー牧師は中国共産党と宗教界の作成した、さらに否定的な宣伝映像を見せて心の疑念を大きくさせるのです。ヂェン・ムーエンは牧師の言うことに耳を傾け、真の道を学ぶことを放棄することに決めました。その後、全能神教会の真理の証しや分ちあいを聴いたヂェン・ムーエンは、真の道を学ぶにあたり基本原則の核となるのは、その道に真理があるかどうか、そしてそれが神の声を表しているかどうかを見極めることだと理解しました。多くの真理を表すことができる者がいるならそれがキリストの出現にちがいない、なぜなら、堕落した人間に真理を表すことなどできないからです。これは争いようのない事実です。真の道を学ぶ際に神の声に耳を傾けることに注意を払わず、代わりに、想像に依りかかり白い雲に乗った主イエスの降臨を待つような者は、決して神の出現を迎えることができないでしょう。ヂェン・ムーエンはようやく、主イエスの御言葉から神の声を聴いた賢い乙女たちの奥義を理解することができました。そしてもう、中国共産党政府や宗教界の牧師や長老の、偽りと愚かしい論理を信じるまいと決心し、宗教界の牧師の拘束や縛りから逃れました。ヂェン・ムーエンは、真の道を学ぶ難しさを深く経験しました。洞察力や真理への求めがなくては、神の声を聴くことも神の玉座の御前に召されることもないどころか、サタンに欺かれ支配されて、悪魔の罠にかかり死ぬしかないでしょう。このことは、まさに聖書に「わたしの民は知識がないために滅ぼされる。」(ホセア書4:6)「愚かな者は知恵がなくて死ぬ。」(箴言10:21)と書いてあるとおりです。

キリスト教映画「勝利の凱歌」抜粋シーン(1)主は再来の時、どのようにして出現され、御働きをなさるのか?

    終わりの日の大災害の予兆、すなわち4つの血の月と、夜空の星々の異様なさまが出現し、大災害は近づいています。多くの主を信仰る者達は主の再臨の予感、あるいはすでに再臨されたことを感じています。皆が主の再臨をそれほどまでに待ち焦がれているとき、ふと疑問を抱いたことがありませんか?終わりの日に主が再臨される時、主は一体どのようにして出現なさるのでしょうか。また、再臨のときに主がなさる御働きとはどのようなものでしょうか。ヨハネの黙示録にある大きな白い玉座での裁きは、どう成就するのでしょう。この短編動画がその答えを示してくれます!

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    古守城は中国の家庭教会の牧師です。長年にわたり主を信仰し続けており、常に説教の事におもいを巡らせ、周りに福音を説き続けてきました。彼は福音を説いたために逮捕され、12年間服役しました。刑務所から出所した後も、古守城は教会で働き続けました。しかしながら、全能神の王国の福音が古守城の属する教会にもたらされたとき、彼はそれについて求めたり調べたりせず、頑固に彼自身の思い込みと決めつけにこだわって終わりの日 の神の働きを非難し、思い込みと誤謬を広めるためにあらゆる手を使い、信者が真実の道を受け入れるのを妨げようとします。更に古守城は全能神の言葉を読んだ後、その言葉が本当に権威と力を持ち、聞くものすべてを説得する力があることに気づき、全能神の言葉を読んだ者はみな全能神の信者になると深く怖れを抱くようになりました。そして、今の地位と生活が維持できないことを恐れるようになりました。そこで、古守城は長老の王森その他と協議し、全能神を非難し攻撃する中国共産党政府によって流布される噂を利用して人々を欺くことを決めました。古守城と王森は必死で教会に全能神の教えが入らないようにして人々が真実の道を受け入れるのを妨げ、中国共産党の悪魔的な政権と協力までし、全能神の証しをするものを逮捕し迫害します。彼らの行動は深刻に神の性情を侵し、神の呪いがふりかかります。王森は王国の福音を広める人たちを逮捕に向かう途中、交通事故に遭い、その場で亡くなります。古守城は恐怖と絶望の中でパニックに襲われます。彼は頻繁に自問します。「私の全能神への非難は神を再び十字架に磔にすることなのだろうか。」

キリスト教映画「待つ」抜粋シーン(1)主の再臨にどう注意を向け、待つべきか


    主が再び来られる時、雲に乗って来られるのでしょうか、それとも盗人のように密かに現れるのでしょうか。あなたは主の再来にどのように向き合いますか。 偽りのキリストに導かれることを恐れて、主を探し求めることを拒みますか?それとも、賢き乙女のように神の声に注意深く耳を傾けますか?私たちはどのように「注意を向け、待つ」べきでしょうか、主が来られた時に主を歓迎できるように。この短編動画を見て答えを探ってみましょう!

 

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神の羊は神の声を聞く:真の道を究めるには神の言葉を聞くべきです

ここ数か月間、パンデミックが広がり、感染確認者数と死亡数がどんどん増えつつあります。世界中に昆虫の大量発生、洪水、火事、戦争の脅威など、災が蔓延しています。クリスチャンの多くは、主が既に再臨されていることに気づいており、今やその出現を求めつつあります。現在、全能神の教会だけが主は再臨されていると証ししており、今や多くの人が全能神の出現と働きを求め究めつつあります。全能神の言葉を聞いて、それが神の声であると確信し、終わりの日における全能神の働きを受け入れている人が、だんだん増えてきています。とはいえ全能神の働きが中国共産党政府や宗教界の牧師や長老たちによって中傷・非難されているのを見て、彼らに従う決心をする人もいます。その人たちは、これが真の道であると信じず、それを求め究めようともしません。真の道を究める際は注意が必要ですが、中国共産党政府や牧師や長老の言葉を、真の道か偽りの道かを判断する基準として引合いに出すことが、真理にかなっているでしょうか? 私たちが主のご再臨をお迎えできるようになるには、真の道を究めようとするとき、誰に耳を傾けるべきでしょうか? ここでは、その問題について分かち合い探求していきたいと思います。

 

 

中国共産党政府の非難を信じることはサタンの言葉を信じること

 

中国共産党政府が無神論の政府であることは誰でも知っています。権力を握って以来、中国共産党無神論唯物論、進化論を宣伝してきました。常に神の存在を否定し、「我々に救いを与える者は誰もいない」、「運命は己の手中にあり」、「人は自分の手で楽しい故郷を作ることができる」などとサタン的な欺瞞を唱道しています。また中国共産党キリスト教を「邪教」、聖書を「邪教」の本だと公然と非難しています。非常に多くの教会を破壊し、無数の聖書を焼き払い、クリスチャンとカトリック教徒を不当に逮捕し迫害しています。キリスト教カトリック主義に対する荒れ狂った迫害からわかることは、中国共産党が真理と神をひどく嫌っているということです。神に反対するサタン的な政権がどうして神の出現や働きを認識できるでしょうか。中国共産党は単に真理の道などというものがあることさえ認めようとしません、ましてや神の存在はなおさらのことです。一つの道が真の道であるかどうか判断するにあたって、中国共産党が流すうわさや偽りを信じることと、悪魔であるサタンの言葉を信じることと何の違いがあるでしょうか?

さらにいえば、はるか昔から真の道が、迫害を受けてきたことは誰もが知っています。サタン的な政権はすべて神や真理に対して最大の嫌悪を示し、何かが神のものであればあるほど、それだけ熱狂的に反発します。だから神がやってきて働きを行うたびに、必ずサタン的政権によって迫害や非難を受けるのです。これは否定できない事実です。昔、主イエスが説教をし、働きを成したとき、ユダヤ教の祭司長やパリサイ人たちがローマの役人たちと共謀してイエスを十字架にかけました。では統治政権による非難、迫害、虚言、中傷を受けているからといって、主イエスがキリストであるという事実を否定できるでしょうか。同様に、神は働きを行うために再臨され、中国共産党は神の出現と働きに対する荒れ狂った非難と冒涜の度合いを増しています。キリスト教徒を不当に逮捕し迫害し、国内外でオンラインメディアを通じて、神の働きを中傷し、真実を知らない人たちを誤った方向に導くようないつわりを広めています。神が出現し、人類を救うために働きつつあり、人類すべてが真理を受け入れて神に立ち返るようになるのを党は恐れているので、恐れからこのようなことをするのです。さらに神の言葉が地上に伝えられるようになり、神の国が地上に表れ、人類すべてが中国共産党を拒否するのではないかと恐れているので、なおさら強硬になります。だから中国政府は全能神の教会を熱狂的に抑圧し、残酷に迫害するのです。これが、中国政府が神の働きを中傷・非難する根本的な理由です。私たちが真に識別力を持つならば、このサタン的な政権に最も反対され嫌われているものによって、何が真の道なのか判断すべきです。逆に、終わりの日における全能神の働きが中国政府の反対と非難を受けているからといって、それを究めることを諦めてしまうなら、私たちはまさに大馬鹿者となってしまいます。

 

真の道を究めるとき、牧師や長老が言う事を信じて神の言葉を聞かないというのは正しいことだろうか?

 

中国共産党政府は常に神に抵抗しており、党がオンラインに掲載していることは何も信頼できないけれども、牧師や長老たちは聖書に精通していて理解しているから、真の道を究めようとするなら、彼らの言う事を聞けば間違いない、と思う人もいます。けれども誰かが聖書に精通しているということが、真理を理解しているということになるのか、考えたことがありますか。ユダヤ教の祭司長、聖書学者やパリサイ人を考えてみれば、彼らは聖書に精通していて、たびたび人に聖書の解説をしていました。けれども主イエスが現れて働きを行われたとき、彼らはイエスをメシアと認めたでしょうか。イエスの言葉を、真理、神の声と認識したでしょうか。彼らは主を認識しなかっただけでなく、自分の立場や暮しを守るために、聖書の文字面の意味を引合いに出して主に逆らい、イエスについて噂をでっちあげ、イエスの信用を傷つけたのです。彼らはイエスを猛烈に非難し冒涜し、最後はローマの役人たちと共謀して主イエスを十字架にかけました。これらの事実が十分に示すことは、誰かが聖書に精通していてたびたび聖書を解説していたとしても、その人が真理を理解していることにはならず、ましてや神を知っていることにもならないということです。これは当時のユダヤ教に忠実な者がよく理解できなかったことであり、パリサイ人についていえば、まったく識別力がありませんでした。主をお迎えするということにおいて、彼らは宗教指導者の言うことを盲目的に信じ、一部の人は主イエスの言葉と働きに権威と力があることを良く知っていながら、なお宗教的パリサイ人たちが流した噂や中傷を信じたのです。そのため、彼らは騙され宗教指導者たちと一緒になって主イエスを非難し拒みました。彼らは主の救いを得られなかったばかりか、神に罰せられてしまいました。

まったく同様に、今の牧師や長老たちは聖書に精通していますが、それが真理を理解し神を知っているという証拠にはなりません。通常、その説教のほとんどが聖書知識や神学理論であり、彼らが主イエスの言葉を伝えたり証したりすることは極まれです。その聖書知識や神学理論は、人にいのちの糧を与えることができず、彼らがいかに多くを知っていても、それが真理を理解し、あるいは主を知っているということにはまったくなりません。私たちにとって今何よりも必要なことは、なぜ宗教界がこんなに荒廃しているか、いかに教会の荒廃の根本原因を解決するか、いかに神の足跡をたどるか、いかに主をお迎えするか、いかに神の御旨を行い主に従うか、いかに罪の束縛から解放され清められてキリストと共に生きることができるかなど、真理をいくつか理解することです。牧師や長老たちは、自分がわからないので、そのような真理を説いたことがありません。彼らが真理を理解したなら、信者たちは潤され励まされることでしょう。牧師や長老たち自身が真理を理解せず主を知らなくて、どうして主のご再臨をお迎えするよう私たちを導くことができるでしょうか。聖書ではこう言っています。「主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ」(マタイによる福音書 4:10)。「この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる」(マタイによる福音書 15:8-9)。「おおよそ人を頼みとし肉なる者を自分の腕とし、その心がヤーウェを離れている人は、のろわれる」(エレミヤ書 17:5)。信仰において神を偉大なものと賛美し、真心をもって神を拝むよう、主は私たちに勧めておられます。私たちは他人の目を気にしたり、他者のいう事を簡単に信じたりしてはなりません。そうでなければ私たちがいかに主に従っていようと、決して主にほめられることはないでしょう。神への信仰において、真の道を究めるという重要な問題について牧師や長老たちを盲目的に信じ、自分の運命や終着点を彼らの手に委ねるとしたら、これはどのような問題となるでしょうか? 神を信じるのでしょうか、それとも人を信じるのでしょうか。真の道を究めるとき、神が言われることを聞くべきでしょうか、それとも牧師や長老たちが言うことでしょうか。真の道を究めながら、自分自身の考え方を持たずに他者の言葉をただ盲目的に信じるなら、自分の人生に責任を持っていないことになりませんか。そうなればかつて一般のユダヤ人が犯したと同様の間違いを犯しがちになり、主に見捨てられ排除されてしまうでしょう。

 

真の道を究めるなら神の声を聞くべき

 

真の道を究めようとするなら、牧師や長老あるいは中国政府の言うことを盲目的に信じるのではなくて、自分自身の考えを持つべきです。私たちは主の言葉に従って実践しなければなりません。その時初めて、主の出現をお迎えすることができるでしょう。主イエスは言われました。「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」 (ヨハネの黙示録 3:20)。「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る」(ヨハネによる福音書 10:27)。黙示録の2章と3章はたびたびこう予言しています。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」全能神は言われます。「神の足跡を探し求めている私たちは、神の心意、神の言葉、神の発する声を探り求めなければならない。神が語る新しい言葉があるところには神の声があり、神の足跡があるところには神の業があるからである。神による表現があるところに神が現れ、神が現れるところには真理、道、いのちがある。神の足跡を探し求める中で、あなたがたは『神は真理であり、道であり、いのちである』という言葉を無視していた。そのため、真理を受け取っても神の足跡を見出したとは思わない人が多いのである。ましてや、神の現れを認めることなどない。なんと大きな過ちであることか」。(「神の現れによる新時代の到来」『言葉は肉において現れる』)。これからわかることは、神が終わりの日に再臨なさるときは、より多くの言葉を発せられるため、私たちは神の声を聞くことに集中する思慮深いおとめのようになるべきだということです。思慮深いおとめは資質を持ち霊的感覚が鋭く、キリストの発する声からその言葉が真理、いのちの道であると認識することができ、そのため神の声に気がついて神の出現をお迎えすることができるのです。恵みの時代に主イエスが現れ、ご自分の働きをされたとき、このように表現されました。「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイによる福音書 4:17)。ペテロ、ヨハネおよび主イエスに従った他の弟子たちはみな、神の声を通して主を認識しました。主が表されていることが真理だということを彼らは聞くことができ、そのため躊躇せずに両親も家も捨てて主に従い、じきじきに主に潤され導かれました。彼らは、主イエスに従っているあいだ、あらゆる方法でパリサイ人による嫌がらせや妨害を受け、ローマの役人の中傷や非難を受けました。それでも彼らは神の言葉に耳を傾け、神に従うだけで、統治権力や宗教的パリサイ人に妨げられ騙されるのを拒みました。キリストを認め最後までキリストに従い、キリストに祈り、その言葉を体験しました。彼らはいのちにおいてしだいに成熟し、神についての知識をいくらか持つようになりました。けれども、ユダヤ教に忠実な者たちは、頑なで無知で頑固であって、権威と力に満ちた主イエスの言葉を聞いて、このようなことを言える人間はいないとわかっていても、主イエスを信じることも彼に従うこともできなかったのです。彼らはパリサイ人たちに嫌がらせを受け騙されるという兆しが少し見えただけでぐらつきました。彼らは神を信じていましたが、神の言葉を聞くことができず、識別力も自分自身の考えも持たず、サタンの側に立って神に逆らうまでになりました。結局、そのような人たちは神に捨てられ排除され、地獄に落ちて永遠に罰せられるだけでした。ですから、私たちが真の道を究めるとき、他者の言うことを盲目的に信じてはならず、神の声を聞くこととキリストが真理、道、いのちであると認識することに集中せねばなりません。それが最も重要なことです。

全能神による終わりの日の福音は、今や全世界に広がっており、全能神が表現された古典的な言葉の本『言葉は肉において現れる』は20以上の言語に翻訳され、求め究める全人類に向けてオンラインで公開されています。神への真の信仰とは、神への服従と愛とは、いかにして神を恐れ悪を避けられるか、いかにしてキリストと共に生きることがきるか、いかにして意義ある人生を実現できるかなど、全能神は人類を救うためにすべての真理を表しています。神の出現を待望する全世界の人々が、全能神の言葉の中に神の声を認めています。彼らは、これらの言葉は神が人間を清め救うために表わされた真理であると確信しており、次々と神の家に立ち返ってきています。いかに牧師や長老たちが邪魔しようとしても、中国政府がどんな非難や冒涜を広めようと、彼らは揺らぐことなく神に従います。このような人たちが、思慮深いおとめたちであり、神の御座に引き上げられている者であり、神に清められ完成され、終わりの日に神によって勝利者とされるチャンスがある者たちです。そのほかに、全能神の表される言葉はすべて真理であり、それは神の声だとわかるのに、なおも牧師や長老たちが語る禁止令を聞いて騙され抑制され、神の働きを究めようともしない人たちもいます。彼らは真の道と神の働きを疑うまでになります。これが思慮深いおとめのふるまい方でしょうか。神が百の言葉を語っても、彼らはそれを完全に信じることができないのに、堕落した人類の一人がたった一言話すだけで、心からそれを受け入れてしまいます。この人たちは思慮の浅いおとめではありませんか? 真の道を究めるとき、愚かなおとめたちは神の声を聞かない代わりに、人の声を聞きます。彼らは常にサタンの嫌がらせと欺きを受け、ついにはサタンの餌食となるのです。彼らは神の救いを失い、神に捨てられ排除され、災いによって一掃されるでしょう。これはまさに聖書のこの言葉の成就です。「わたしの民は知識がないために滅ぼされる」(ホセア書 4:6)。「愚かな者は知恵がなくて死ぬ」(箴言 10:21)。

さて、終わりの日における全能神の働きは、まもなく終わりを迎えようとしています。私たちはペテロのように、神の声を聞き主を迎える人になりたいでしょうか。それともユダヤ教に忠実な人のように、牧師や長老たちやサタン的な政権の言うことに盲目的に従って、神の救いを失いたいでしょうか。真の道を究めようとするとき、神の言葉を聞くか人の言葉を聞くかによって、私たちの運命や最後の結末が決まります!全能神は言われます。「神の働きは強い波のように打ち寄せる。誰も神を引き留めることはできず、誰も神の前進を停止させることはできない。神の言葉に注意深く耳を傾け、神を探し求め渇望する人々だけが神の歩みをたどり、神の約束を受けることができる。そうしない者は圧倒的な災難を被り、当然受けるべき罰を受ける」(「神は全人類の運命を支配する」『言葉は肉において現れる』)。

編集後記:ご質問や問題のある方は、ライブチャットにてご連絡ください。ご一緒に話し合いながら究めていきましょう。