東方閃電-小羊の足跡に従っていくこと

東方閃電全能神教会は世界に”神様が帰ってきた”ことを公に証ししています。彼は再臨の主イエスです。神様の羊は神様の声を聞き分けます。多くの真理を渇仰する人は、東方閃電全能神教会を考察します。

中国共産党政府と宗教界の邪悪な本質とは何でしょうか。

参照聖書箇所

「へびよ、まむしの子らよ、どうして地獄の刑罰をのがれることができようか。」(マタイによる福音書23:33)

「この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは……」ヨハネの黙示録12:9)

関連する神の言葉

「わたしが言う赤い大きな竜は、単なる一匹の赤い大きな竜ではない。むしろ、それは「赤い大きな竜」という同義語を持つ……」

『言葉は肉において現れる』の「第九十六章」より

「この地は数千年にわたり不浄の地となっており、耐えがたいほど汚れ、悲劇に溢れる。至る所に幽霊が彷徨い、欺し偽り、根拠の無い告発を行い、冷酷かつ残忍であり、この幽霊の街を踏みつけて屍の山を残した。腐った屍の悪臭が地を覆って充満しており、その地は堅く警護されている。誰が空の彼方の世界を見ることが出来ようか。その悪魔は人の身体全体をがんじがらめにして両眼を見えなくし、両唇を堅く封じる。魔王は数千年にわたって現在まで猛威を振るい、幽霊の街を堅固に警備しており、それはあたかも難攻不落の悪魔の城のようである。その一方、警護に当たる番犬の群れが睨んでおり、番犬は神による不意討ちで完全に滅ぼされるのを強く怖れ、平和と幸福の余地は無い。……肉にある神が完全に隠れたままであっても、不思議では無い。悪魔が残忍非道をはたらくような、こうした暗黒社会において、瞬く間に人々を殺す魔王が、愛しく懇切で聖い神の存在を、どうして容認出来ようか。どうして魔王は神の到来に喝采を送ることができようか。まったく卑屈な者どもである。そうした者は恩を仇で返し、神を侮って久しく、神を虐待し、残忍を極め、神を少しも敬うことなく、強奪や略奪を行い、良心を完全に失い、……宗教の自由というが、どうだろうか。市民の正当な権利と利益というが、どうだろうか。そうした物事はすべて、罪を隠蔽する手口である。……なぜ、神の業に対してそのような難攻不落の障害を建てるのか。なぜ神の民を欺く様々な謀りを用いるのか。真の自由や正当な権利と権益はどこにあるのか。公平さは、どこにあるのか。安らぎは、どこにあるのか。温もりは、どこにあるのか。偽りに満ちた謀りを用いて神の民を欺すのは何故か。神が来るのを武力で抑制するのは何故か。神が造った地の上を、神に自由に移動させないのは、何故か。神が枕するところが無くなるほどに神を追うのは、何故か。人間の温もりは、どこにあるのか。人間同士の歓迎は、どこにあるのか。それほどまで絶望的な思慕を神に引き起こすのは、何故か。神に何度も叫ばせるのは、何故か。神の愛する子を神に強制的に憂わせるは、何故か。この暗黒社会とその哀れな番犬が、神の造った世界を神が自由に出入り出来るようにしないのは、何故か。」

『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(8)」より

「真理を求め、義に付き従う者は、何人いるだろうか。そうした悪魔は皆、肥やしの中のはえがたかり、ぶたや犬のような、頭を振って混乱を招く獣である。そうした悪魔は、自分達が腐敗物に群がるはえに過ぎないことには気づかず、地獄にいる自分達の王が、全ての王の中で至高の存在であると考えている。それだけではなく、自分達のぶたや犬の両親に頼り、神の存在に対して中傷的なことを述べる。そうした小ばえのような者は、自分達の両親がハクジラのように大きいものであると考えている。そうした者は、自分達は極めて小さい存在であるが、自分達の両親は自分達よりも10億倍大きく不浄なぶたや犬であることに気付かないのであろうか。そうした者は、自分の卑しさに気付かず、ぶたや犬の腐った臭いを根拠として暴れ回り、将来の世代を生み出す妄想にとらわれる。これは完全なる厚顔無恥である。そうした者は、自分の背中に緑色の羽根がある(自分が神を信仰していると主張することを指す)ことで、自惚れて自分の美しさと魅力を至るところで自慢するようになり、密かに自らの不浄を人間になすりつける。さらに、そうした者の自惚れは、あたかも虹色の羽根が自分の不浄を隠すことが出来るかのようであり、それゆえに真の神の存在を迫害する(これは、宗教界の内情を指す)。人間は殆ど知らないが、はえの羽根は美しく魅力的だが、所詮は不浄に満ち、細菌に覆われた、小さなハエである。そうした者は、両親であるぶたや犬の力を借り、圧倒的な凶暴さで地の上で暴れ回る(これは、真の神と真理を裏切る国家の強力な支援を受けて神を迫害する宗教関係者を指す)。それは、あたかもユダヤのパリサイ人の幽霊が、古巣である赤い大きな竜の国家へと、神と共に戻ったかのようである。そうした者は、自らの迫害の業を再開し、その数千年にわたる業を継続する。こうした堕落した者の集団が最後に地の上で滅びることは確実である。数千年が経過した後、不浄な霊は、さらに狡猾で悪賢くなっているようである。そうした者は、密かに神の業を台無しにする術を常に考えている。そうした者は狡猾で悪賢く、自国で数千年前の悲劇を再現することを望んでいる。そうした行いにより、神は突き動かされて大声で叫ぶ寸前の状態にされ、神は第三の天に戻ってそうした者を滅ぼさずにいられない。」

『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(7)」より

サタンは人道的で正しく、道徳があるように思われるが、その本質は残忍かつ邪悪である。

「サタンは、一般大衆を騙すことにより、名声を得る。通常、サタンは義の先導者的かつ模範的存在として、自分自身の立場を確立する。義を守るという旗印のもと、サタンは人間を傷つけ、その魂を食い物とし、また人間を麻痺させ、騙し、扇動するためにあらゆる手段を講じる。サタンの目標は、自分の邪悪な行いを人間に認めさせ、それに人間を従わせること、サタンと共に神の権威と支配に反対させることである。しかし、その陰謀や策略、下劣な特徴についてわきまえるようになり、サタンの踏み台にされ、騙され、奴隷として仕えること、あるいはサタンと共に罰を受けて滅ぼされることを望まなくなると、サタンは従前の高徳な特徴を一変させ、仮面を破り捨て、真の邪悪で残忍で醜い獣のような素顔を現す。サタンは、自分に従うことを拒んだ者と、サタンの邪悪な力に反対した者全てを皆殺しにすることを、何よりも好む。この段階で、サタンは信頼のおける紳士的姿を装うことは出来なくなり、被っている羊の皮の下の醜い悪魔のような特徴を持つ正体を現す。サタンの陰謀が明るみに出た時、その真の特徴が現れた時、サタンは激怒してその野蛮さを現し、人間を傷つけ、食い物にするサタンの欲望が強くなって行く。これは、サタンが人間が目覚めることに対して激怒するからである。サタンは、捕らわれの身から解き放たれて自由と光を得ようとする人間に、強い復讐の念を抱いている。サタンの怒りは、サタンの邪悪さを保護するためのものであり、またその獣のような性質を真に披瀝するものである。

サタンの『力』や、大胆さ、野望がどれほどのものであったとしても、サタンの損傷を与える能力がどれほど優れていたとしても、サタンが人間を腐敗させ、誘惑する能力の幅広さがどれほどのものであったとしても、サタンが人間を威嚇する謀略や計略がどれほど狡猾であったとしても、またサタンが存在する形態をどれほど変化させることができたとしても、サタンには生き物を造る能力や、万物に対する律法や規律を定める能力があったことは無く、命のあるものかないものかを問わず、どのようなものも支配する能力があったことは無い。広大な宇宙の中で、サタンから生まれた人間や物、サタンのおかげで存在する人間や物、サタンに統治され、支配されている人間や物は、全く存在しない。それとは反対に、サタンは神の支配権の下で生活する必要があり、さらに神の指示と命令にすべて従う必要がある。神の許可なくしては、サタンにとってひとしずくの水やひと握りの砂に触れることさえ困難である。また神の許可なくしては、サタンは蟻を地に這わせることさえままならないのであるから、神の造った人間を動かすことなど到底できるはずがない。神から見ると、サタンは山のユリの花よりも劣り、空を舞う鳥や海の魚にも劣り、地のウジ虫にも劣る。万物の中におけるサタンの役割は、万物に仕え、人間のために仕え、神の業と神の経営(救いの)計画に資することである。サタンの本性がいかに悪意に満ちているか、その本質がいかに邪悪であるかによらず、サタンにできることは、神に仕え、神に対照を提供するという、その機能に従順に従うことのみである。これがサタンの本質であり位置づけである。サタンの本質は命や力、権威から切り離されており、サタンは神の手の中にある玩具のようなもの、神のための役立つ道具に過ぎない。」

『言葉は肉において現れる』の「 唯一の神自身 1」より

「サタンの行動や、サタンが起こした奇跡を何と呼ぶであろうか。それらは、力であろうか。それらを権威と呼べるであろうか。無論、それは力ではなく、権威とも呼べない。サタンは邪悪を率い、神の業のあらゆる側面を覆し、損なわせ、妨害する。現在まで数千年にわたり、人間を腐敗させ、虐待し、人間を誘惑し、欺して悪行を行わせ、神から拒否される存在にして、死の淵に向かわせたサタンは、かつて人間による祝賀や称賛、敬愛に値することを行ったことがあろうか。仮にサタンが権威と力を持っていたとすれば、人間はその権威や力により腐敗させられていたであろうか。仮にサタンが権威と力を持っていたとすれば、人間はその権威や力により危害を被ったであろうか。仮にサタンが権威と力を持つとすれば、人間はその権威や力により神を捨てて死へと向かうのであろうか。サタンには権威も力も無いのであれば、サタンの行為の本質は何であると判断すべきであろうか。サタンの行為全てを単なる謀略であると定義する人々もいるが、わたしはそうした定義はそれほど適切ではないと考える。人間の腐敗による邪悪な行いは、単なる謀略であろうか。サタンがヨブを虐げた邪悪な力と、ヨブを虐げ悩ませようとする激しい願望は、単なる謀略では得られないものである。思い出してみると、丘や山に広く群れていたヨブの動物たちは、一瞬にして消え去った。ヨブが所有していた大量の富が一瞬で消えた。これは謀略だけで成し得たことであろうか。サタンの業の性質は、損害、妨害、破壊、危害、邪悪、悪意、闇など、否定的な言葉に該当するので、そうした不正で邪悪な出来事の全てはサタンの行為と密接に繋がっており、サタンの邪悪な本質と不可分のものである。」

『言葉は肉において現れる』の「 唯一の神自身 1」より

「サタンの『力』や、大胆さ、野望がどれほどのものであったとしても、サタンの損傷を与える能力がどれほど優れていたとしても、サタンが人間を腐敗させ、誘惑する能力の幅広さがどれほどのものであったとしても、サタンが人間を威嚇する謀略や計略がどれほど狡猾であったとしても、またサタンが存在する形態をどれほど変化させることができたとしても、サタンには生き物を造る能力や、万物に対する律法や規律を定める能力があったことは無く、命のあるものかないものかを問わず、どのようなものも支配する能力があったことは無い。広大な宇宙の中で、サタンから生まれた人間や物、サタンのおかげで存在する人間や物、サタンに統治され、支配されている人間や物は、全く存在しない。それとは反対に、サタンは神の支配権の下で生活する必要があり、さらに神の指示と命令にすべて従う必要がある。神の許可なくしては、サタンにとってひとしずくの水やひと握りの砂に触れることさえ困難である。また神の許可なくしては、サタンは蟻を地に這わせることさえままならないのであるから、神の造った人間を動かすことなど到底できるはずがない。神から見ると、サタンは山のユリの花よりも劣り、空を舞う鳥や海の魚にも劣り、地のウジ虫にも劣る。万物の中におけるサタンの役割は、万物に仕え、人間のために仕え、神の業と神の経営(救いの)計画に資することである。サタンの本性がいかに悪意に満ちているか、その本質がいかに邪悪であるかによらず、サタンにできることは、神に仕え、神に対照を提供するという、その機能に従順に従うことのみである。これがサタンの本質であり位置づけである。サタンの本質は命や力、権威から切り離されており、サタンは神の手の中にある玩具のようなもの、神のための役立つ道具に過ぎない。」

『言葉は肉において現れる』の「 唯一の神自身 1」より