東方閃電-小羊の足跡に従っていくこと

東方閃電全能神教会は世界に”神様が帰ってきた”ことを公に証ししています。彼は再臨の主イエスです。神様の羊は神様の声を聞き分けます。多くの真理を渇仰する人は、東方閃電全能神教会を考察します。

全能神が再臨したイエスであると実際にどのように確認するのか。

神の御言葉による答え:

まず、イエスは新たな時代を開いた。第二に、イエスは人間にいのちを与え、行くべき道を示すことができた。イエス自身が神であることを証拠立てるにはこれで充分なのだ。少なくとも、イエスの行う業は神の霊を完全に表している。そうした働きから、神の霊がイエスの内にいることがわかるのだ。受肉した神の行った業は、主に新たな時代の到来を告げ、新たな働きを先導し、新たな状況を開くことであったが、これらのいくつかの条件だけでも、イエス自身が神であることを実証するのに充分である。…

『言葉は肉において現れる』の「受肉した神の職分と人間の本分の違い」より

このようなことを考察するのは難しいことではないが、わたしたちそれぞれにこの真理を知ることが要求される。受肉した神は神の本質を有し、受肉した神は神による表現を有する。神は人間の姿になるので、なすべき働きを打ち出し、神は人間の姿になるので、自分が何であるかを表して、人に真理をもたらし、人にいのちを与え、人に進むべき道を示すことができる。神の本質を含んでいない肉体が受肉した神ではないことは間違いなく、これについて疑う余地はない。受肉した神かどうか調べるためには、その人が表す性質や話す言葉からそれを決めなければならない。つまり、人間の姿になった神かどうか、それが真の道かどうかは、その人の本質から判断しなければならない。そこで、人間の姿になった神かどうかを決定するとき[a]、鍵となるのは、外見よりもむしろその人の本質(働き、言葉、性質、その他いろいろ)に注意を払うことである。外見だけを見て本質を見落とす者は、自分の無知、単純さをさらけ出すことになる。外見は本質を決定しない。その上、神の働きが人の観念と一致したことはこれまでにない。イエスの外見は人の観念とはまったく違っていたではないか。イエスの外見と衣服はイエスの真の正体に関し何らの手がかりも与えることができなかったのではないだろうか。古代のパリサイ人がイエスに反対したのは、彼らがイエスの外見を見ただけで、イエスの語る言葉を真剣に受け止めなかったからではないだろうか。神の出現を求める兄弟姉妹には歴史の悲劇を繰り返さないで欲しい。あなたがたは、現代のパリサイ人になって神を再び十字架につけるようなことをしてはならない。あなたがたは神の再来をどのように歓迎するか慎重に考え、真理に服従する人になるにはどうしたらよいか、はっきりした考えを持つべきである。これが、イエスが雲に乗って再臨するのを待っているすべての人の責任である。

『言葉は肉において現れる』の「序文」より

現在なされている働きは恵みの時代の働きを推し進めた。すなわち、六千年経営(救いの)計画全体における働きは前進した。恵みの時代は終わったが、神の働きはさらに前進している。なぜわたしは今の段階の働きは恵みの時代と律法の時代を基礎にしていると繰り返し言うのだろうか。これは、今日の働きは恵みの時代に行われた働きの延長であり、律法の時代に行われた働きを向上させたものであることを意味する。三つの段階は密接に相互関連しており、一つはその次の段階に繋がっている。なぜわたしは今の段階の働きはイエスによってなされた働きの上に築き上げられるとも言うのだろうか。この段階がイエスによってなされた働きの上に築き上げられなければ、キリストの磔刑、つまり過去に行われた贖いの働きはこの段階でなお実行されなければならない。だが、これは無意味なことであろう。従って、働きは完全に終わったのではなく、時代が前進し、働きは以前に比べていっそう高まったということである。今の段階の働きは律法の時代、および、イエスの働きの堅固な支えを基礎に置いて築かれるということができるだろう。働きは段階ごとに築かれ、今の段階は新しい始まりではない。三つの働きの段階の組み合わせのみを六千年にわたる経営(救いの)計画とみなすことができる。今の段階は恵みの時代の働きを基礎にして行われる。これら二つの働きの段階に関連がなければ、なぜ今の段階には磔刑がないのか。なぜわたしは人の罪を背負わないのか。わたしは聖霊による受胎により来るのではないし、人の罪を背負うために磔刑にされることもないだろう。むしろ、わたしは人を直接罰するためにここにいる。磔刑のあとわたしが人を罰しなければ、そして今わたしが聖霊による受胎を通して来るのでないならば、わたしは人を罰する資格がないだろう。わたしがイエスと一つなのであるからこそ、わたしは人を罰し、裁くために直接来るのだ。今の段階の働きは完全に過去の段階を基礎にしている。だからそのような働きだけが段階を追って人を救済に導くことができる。イエスとわたしは同じ霊から来ている。わたしたちの肉体には何の関連性もないが、わたしたちの霊は一つである。わたしたちがすることやわたしたちが担う働きは同じではないが、わたしたちは本質的に同じである。わたしたちの肉体の形は異なるが、これは時代の変化ならびにわたしたちの働きの必要性のためである。わたしたちの職分は同じではないので、わたしたちが作り出す働きや、わたしたちが人に明らかにする性質も異なっている。そういうわけで、今日人が見るものや受け取るものは過去のものと同じではない。それは時代の変化のためである。彼らの肉体の性や形は異なっているが、そして彼らは同じ家族から生まれたのではなく、ましてや同じ期間に生まれたのではないが、彼らの霊は一つである。彼らの肉体は血縁関係も物理的関係も決して共有していないが、それによって彼らが二つの異なる時期において受肉した神であることを否定することにはならない。彼らは同じ血統ではなく、共通する人間の言語を持っていないが(一人はユダヤ人の言語を話す男性であったし、もう一人は中国語しか話さない女性である)、彼らが受肉した神であることは否定できない真実である。これらの理由から、彼らは異なる国で、異なる期間になすべき働きを行う。彼らの霊は同じで、同じ本質を持っているという事実にも関わらず、彼らの肉体の外見には完全な類似性はまったくない。彼らは同じ人間性を共有しているだけで、彼らの肉体の外見と誕生は似ていない。これらのことはそれぞれの働きや、人が彼らに関して持つ認識に何の影響も与えない。なぜなら結局彼らは同じ霊であり、誰も彼らを分けることはできないからである。彼らには血縁関係はないが、存在全体は彼らの霊によって指示されているので、肉体は血統を共有しないままに、彼らは異なる期間に異なる働きを引き受けている。同様に、ヤーウェの霊はイエスの霊の父ではなく、イエスの霊もヤーウェの霊の子ではない。彼らは同じ霊である。今日の受肉した神とイエスと同様である。彼らに血縁関係はないが、彼らは一つである。これは彼らの霊が一つだからである。

『言葉は肉において現れる』の「二度の受肉受肉の意義を完成させる」より

脚注:

a.原文では「~かどうかに関しては」と書かれている。