東方閃電-小羊の足跡に従っていくこと

東方閃電全能神教会は世界に”神様が帰ってきた”ことを公に証ししています。彼は再臨の主イエスです。神様の羊は神様の声を聞き分けます。多くの真理を渇仰する人は、東方閃電全能神教会を考察します。

聖霊の働きとは何か。聖霊の働きはどのように現れるか。

神の言葉

聖霊の働きとは積極的な導きと前向きな啓示の一種だ。それは人々が受け身でいることを許さない。それは慰めをもたらし、信仰と決心を与え、人々が神によって完全な者となれるようにする。聖霊が働く時、人々は盛んに成長することができる。受け身でもなく、強制されることもなく、積極的に成長する。聖霊が働く時、人々は喜んで、自ら進んで従おうとし、謙虚になることを喜び、内側では痛みや弱さがあっても、協力しようと決意し、喜んで苦しみ、従うことができる。そして人間の意志によって汚されず、人の考えによって汚されず、間違いなく人間的な欲望や動機に汚されないのである。人々が聖霊の働きを経験する時、彼らの内面は特に清い。聖霊の働きを所有する人々は神の愛、兄弟姉妹への愛を体現し、神を喜ばせることを喜びとし、神の嫌うことを嫌う。聖霊の働きによって触れられた人々は正常な人間性を持ち、人間らしさをもって常に真理を追い求めている。聖霊が人々の内側で働く時、彼らの状態はより良くなっていき、その人間性はより正常になっていく。そして彼らの協力は愚かなものの時もあるかもしれないが、彼らの動機は正しいものであり、彼らの成長は肯定的で、邪魔をしようとしたりはせず、心には悪意がないのだ。聖霊の働きとは正常で現実的なものであり、聖霊は、人の通常の生活における規則にしがたって働き、正常な人々の求めに応じて啓き、導く。聖霊が人々の内に働く時、聖霊は人々を通常の人が持つ必要に応じて導き啓示し、人々の必要に基づいて施す。そして聖霊は人々が欠いているもの、欠乏しているものに基づき前向きに導き、啓示する。聖霊が働く時、この働きは人の通常の生活での規則に調和して行われるものであり、人々が聖霊の働きを見ることができるのは現実の生活の中でのみである。もし、日常生活の中で、人々が前向きな状態であり、通常の霊的生活を送っているのなら、彼らは聖霊の働きを持っている。そういった状態の中では、神の言葉を飲食するなら信仰を得、祈るなら霊的に励まされ、彼らに何か起きたなら彼らは受け身にはならず、それが起きている最中に神が彼らに学ばせようと課している教訓が何なのか見ることができ、受け身でも脆弱な状態でもなく、現実の困難の中にあっても、神のすべての采配に自ら従おうとするのだ。

『言葉は肉において現れる』の「聖霊の働きとサタンの働き」より

聖霊が人々を啓発するために働く時、聖霊は通常人々に神の働き、および彼らの真の霊的歩みと本当の状態についての知識を与える。また彼らに決意も与え、今日の人に対する神の熱心な意図や要求を人々に理解させ、あらゆる道を開く決意を与える。流血や命の犠牲を経験する時でさえ、人々は神のために行動しなければならず、迫害や逆境に遭遇する時でさえ、神を愛さなければならず、悔いることなく、神のために証しするために立ち上がらなければならない。このような決意は聖霊による激励、聖霊の働きである── しかしあなたは刻一刻そのような激励を受けるわけではないことを知っておきなさい。ときどき集会であなたは非常に感動し、霊によって動かされるのを感じることができ、あなたは大いに賛美し踊る。あなたは、他の人々が分かち合っていることを自分でも信じられないほど理解しているのを感じる。心の中が一新されるのを感じ、あなたの心は澄み切って、虚しさは全くない── これはすべて聖霊の働きに属している。もしあなたが指導的立場の人で、あなたが教会に働きに出かける時、聖霊があなたに並外れた啓示と光を与え、あなたを仕事において信じられないほど熱心で、責任感をもち、真剣にさせるならば、これはすべて聖霊の働きに属している。

『言葉は肉において現れる』の「実践(1)」より

聖霊の働きは特に普通なものであり、聖霊が人々の中に働く時、人々はなお問題を抱え、泣き、苦しみ、まだ弱くて、はっきりとはわからないことがたくさんあるのだが、それでもそういった状態にある時、人々は信仰が後退しないよう自らを制止させ、神を愛することができるのだ。そして泣いたり、心が苦しくなったりするが、彼らはなお神を賛美することができる。聖霊の働きは特に普通のことであり、超自然的なことは全くない。ほとんどの人々は、聖霊が働かれ始めるとすぐにその状態が変化し、彼らの本質的な物は取り除かれると信じている。そういった考え方は誤りである。聖霊が人の内に働く時、人の受動的な性質はまだそこにあって、その人の霊的背丈は変わっていないのだが、聖霊によって光を与えられ、啓かれているので、より前向きになり、内側の状態は正常で、その人は急速に変化する。

『言葉は肉において現れる』の「聖霊の働きとサタンの働き」より

全ての聖霊の働きは普通であり、現実である。あなたが神の言葉を読み、祈る時、あなたの内側は輝き、揺るぎないものとなり、外の世界に妨げられることはない。あなたは喜んで神を愛し、すすんで前向きなものに関わろうとし、邪悪な世界を嫌う──これは神の内に生きているということで、人が言うような、楽しくてたまらないという意味はあまりない。そのようなものは現実的ではない。

『言葉は肉において現れる』の「現実をどのように知るか」より

あなたが神の言葉を享受しているときに、あなたの霊が触れられ、神を愛さないわけにはいかないと感じる時がある。あなたの内に大きな力があり、犠牲にできないものは何もないと感じる。このように感じるならば、あなたは神の霊に触れられたのであり、あなたの心は完全に神に向き合い、あなたは神に祈り

、このように言うだろう。「神よ。私たちは本当にあなたにより前もって定められ、選ばれました。あなたの栄光は私に誇りを与え、神の民の一人であることを光栄に感じます。私はあらゆるものを費やし、あらゆるものを捧げて、あなたの心を実行し、私の持てるすべての年月と一生の努力をあなたに献上します」このように祈るとき、あなたの心に神への終わりのない愛と真の服従がある。このような経験をしたことがあるだろうか。神の霊にしばしば触れられると、人々は祈りの中で特に自発的に自らを神に捧げる。「神よ、私はあなたの栄光の日を見たいと願い、あなたのために生きたいと願います。あなたのために生きるより価値や意味のあるものはなく、サタンや肉のために生きたいという望みは少しもありません。今日あなたのために私が生きられるようにしてくださることで、あなたはわたしを引き上げてくださいます」このように祈ったならば、神にあなたの心を捧げずにはいられず、神を得なければならず、生きている間に神を得ずに死ぬのは耐えられないと感じるだろう。そのように祈った後では、あなたの内に無尽蔵な力があり、あなたはその力がどこから来るのか分からない。あなたの内に無限の力があり、神はとても美しく、愛する価値があると強く感じる。神に触れられた時はこのようになる。このような経験をした人々はみな神に触れられたのである。神にしばしば触れられる人々には、いのちに変化が起こる。決断を下すことができ、完全に神を得ようとする。心の中の神への愛はさらに強くなり、心は完全に神に向かい、家族、世間、複雑な人間関係や自分の未来への心残りはなく、一生の努力を神に捧げようとする。神の霊に触れられた人々はみな真理を求める人々であり、神により完全にされる見込みのある人々である。

『言葉は肉において現れる』の「神の最新の働きを知り、神の歩みに従う」より

あなたは愚かかもしれないし、あなたの内には識別力がないかもしれないが、聖霊はあなたの内に信仰が生まれ、あなたがいつもどれほど神を愛しても愛しきれないと感じ、先にどのような大きな困難があろうとも自ら協力したいと思えるように働くだけなのだ。問題が起こり、それらが神から来ているのかサタンから来ているのかはっきりとはわからないのだが、あなたは待つことができ、受け身にも怠惰にもならない。これは聖霊の通常の働きである。聖霊が人々の内に働く際にも彼らは現実の困難に向き合い、時には涙し、乗り越えられない問題に直面することもあるが、これらはすべて聖霊の普通の働きの一段階だ。たとえ人々がそういったことを乗り越えることができなくても、またその時には弱く不平を言ったとしても、のちになって神を絶対的な信仰をもって愛することができるようになるのだ。受け身であったとしても、それが人々の普通の経験から遠ざけることはなく、他の人々がなんと言おうと、あるいはどう攻撃しようとも、彼らは神を愛することができるのだ。祈りの中では常に、かつて神に借りがあったと感じ、そして神を満足させよう、再びそういったことに遭遇したなら肉を放棄しようと決心するのである。この力は聖霊の働きが彼らの内にあることを示すものであるし、これこそが聖霊の働きの正常な状態なのである。

『言葉は肉において現れる』の「聖霊の働きとサタンの働き」より

神は同じ業を繰り返しはしない。現実的でない働きは行なわない。神は人間に過分な要求をしない。また、神は人間の理知の外にある業は行なわない。神が為す業はみな、人間の正常の理知の範囲内で行われ、本来の人間の理知の外には及ばない。また、神の働きは人間の正常な必要に沿ったものである。もしそれが聖霊による働きであるなら、人間はずっと正常になり、その人間性はさらに正常になる。人間はサタンに堕落させられた自分の性質、人間の本質についての認識を増し、真理への渇望は更に大きくなる。これはつまり、人間のいのちがどんどん成長し、人間の堕落した性質においては、より一層の変化が可能となる。これら全てが神が人間のいのちになるということの意味である。

『言葉は肉において現れる』の「神とその働きを知る者だけが神の心にかなう」より

聖霊は、各人において歩むべき道をもち、各人に完全にされる機会を与える。あなたは自らの否定性をとおして自らの堕落を知らしめられ、その後否定性を払拭することにより実践の道を見いだすが、それがあなたの完全化である。さらに、あなたの中の肯定的な物事の幾つかによる継続的な導きと照らしによって、あなたは積極的に自らの役割を果たし、識見を増やして分別を身に付ける。状態が良好な時、あなたは神の言葉を読むことや神に祈ることを殊更に望み、また聞いた説教を自らの状態と関連づけることができる。そうした時、神はあなたの中で啓き照らし、あなたに肯定的側面の物事を幾つか理解させる。これが肯定的側面におけるあなたの完全化である。否定的な状態において、あなたが弱く否定的で、自分には神がいないと感じる時であっても、神はあなたを照らし、あなたが実践の道を見いだすのを助ける。こんな状態からの脱却が、否定的側面における完全化の達成である。

『言葉は肉において現れる』の「実践を重視する者だけが完全にされることができる」より

神は、あなたに、時々特定の種の感覚を与える──あなたは内なる喜びを失ったり、神の臨在を失ったり、自分が闇の中にいると感じることがある。これは、一種の精錬である。何をしてもうまく行かなかったり、壁にぶち当たることがある。これは神の鍛錬である。あなたは、何かしらの行動をしても、そのことについて感じる事が無く、他人もそれを知らないだろうが、神はそれを知っている。神はあなたを立ち去らせず、訓練する。聖霊の業は極めてきめ細やかである。聖霊は、人々の一つひとつの言動、一つひとつの行動と動き、人々のあらゆる思いと考えを注意深く観察する。それは、人々がこれらのことについて内面的認識を得ることが出来るようになるためである。あなたが一度何かをしてうまく行かず、再びやってもまだうまく行かないと、あなたは少しづつ聖霊の業を理解するようになる。多くの訓練の時を通して、あなたは神の意志と一致するには何を為すべきか、また、神の意志と一致しないものは何であるかを知る。最終的に、あなたは、自分の内面から来る聖霊の導きに対し、正確に反応するようになるであろう。

『言葉は肉において現れる』の「完全にされる者は精錬されることを体験しなければならない」より