東方閃電-小羊の足跡に従っていくこと

東方閃電全能神教会は世界に”神様が帰ってきた”ことを公に証ししています。彼は再臨の主イエスです。神様の羊は神様の声を聞き分けます。多くの真理を渇仰する人は、東方閃電全能神教会を考察します。

救い主はすでに「白い雲」に乗って戻って来た

数千年もの間、人は救い主の到来に立ち会えることを熱望してきた。何千年もイエスを切望し、渇望してきた人々のもとにイエスが白い雲に乗って直接降りてくるのを見ることを望んできた。救い主が戻って来て人々と再会すること、すなわち、救い主イエスが何千年もの間離れていた人々のもとに戻ってくることを望んできた。そしてイエスユダヤ人の間で行った贖罪の働きをもう一度実行すること、人に対して憐れみ深く愛情にあふれていること、人の罪を赦し、人の罪を負い、人のすべての逸脱さえ引き受け、人を罪から救うことを望んでいる。人々は救い主イエスが以前と同じであること、つまり愛すべき、心優しい、尊敬すべき救い主、人に対して決して激怒せず、決して人を非難しない救い主であることを望んでいる。この救い主は人の罪のすべてを赦し、引き受け、人のためにもう一度十字架上で死にさえする。イエスが旅立って以来、彼に従った使徒たちや、彼の名前のおかげで救われたすべての聖徒はイエスを切望し待っている。恵みの時代にイエス・キリストの恵みによって救われた人々はすべて、終わりの日の喜びに満ちたある日、救い主イエスが白い雲に乗って到着し、人々のもとに現れる日をずっと待ち焦がれている。もちろん、これは今日救い主イエスの名前を受け入れるすべての人々が共有する望みでもある。全世界のあらゆる場所で、救い主イエスの救済について知っている人々はすべて、イエス・キリストが突然到来し、「わたしは旅立った時とまったく同じようにやって来る」と地上で言った言葉を実現させることを心底切望している。磔刑と復活の後、イエスは白い雲に乗って天に戻り、神の右に座したと人は信じている。同様に、イエスは再び白い雲に乗って(この雲はイエスが天に戻るとき乗った雲を指している)何千年もの間イエスを待ち焦がれている人々のもとに降りて来るであろうこと、イエスユダヤ人の姿をし、ユダヤ人の衣服を身に着けているであろうことを人は心に描いている。人の前に現れた後、イエスは食物を彼らに授け、生ける水を人々に向けてほとばしり出るように流し、恵みと愛に満ち、人々のあいだで生き生きと現実に暮らすだろう、等々。しかし、救い主イエスはそうはしなかった。彼は人が心に抱いたこととは反対のことをした。イエスはその再来を切望していた人々のもとには到来せず、白い雲に乗ってすべての人の前に現れもしなかった。彼はすでに来ていたが、人は彼を知らず、その到来に気づかないままである。イエスがすでに白い雲(イエスの霊、言葉、全性質、そして彼のすべてである雲)に乗って降りてきて、終わりの日に彼が作る克服した者たちの一団のもとに今ではいることに人は気づかず、虚しく彼を待っているだけである。人はこのことを知らない。聖なる救い主イエスは人に対して慈しみと愛に満ちているが、どうして彼が腐敗と不純な霊が宿っている「神殿」で働くことができようか。人はイエスの到来をずっと待っているが、不義の者の肉を食べ、不義の者の血を飲み、不義の者の衣服を着る人々、イエスを信じるが彼を知らない人々、絶えず彼からだまし取る人々の前にどうしてイエスが現れることができようか。人は救い主イエスが愛と哀れみに満ちており、赦しに満ちた贖罪のための捧げものであることしか知らない。しかし、イエスは同時に神自身であり、義、威厳、怒り、および裁きにあふれており、権威を所有し、尊厳に満ちていることはまったくわかっていない。そこで、たとえ人が贖い主の再来をしきりに切望し、天が人の祈りによって動かされたとしても、救い主イエスは、彼の存在は信じても、彼のことを知らない人々の前には現れない。

「ヤーウェ」はわたしがイスラエルで働きを行っている間に用いた名前であり、人を哀れみ、人をののしり、人の人生を導くことのできる、イスラエル人(神に選ばれた人々)の神という意味である。それは偉大な力を所有し、英知に満ちた神という意味である。「イエス」はインマヌエルであり、愛に満ち、慈悲心に満ち、人の罪を贖う捧げものを意味する。イエスは恵みの時代の働きを行い、恵みの時代を表すので、経営(救いの)計画の一部分しか表すことはできない。すなわち、ヤーウェだけがイスラエルの選ばれた人々の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、モーセの神、イスラエルのすべての人々の神である。そこで現代、すべてのイスラエル人は、ユダヤの部族は別として、ヤーウェを崇拝している。彼らは祭壇でヤーウェに捧げものをし、神殿で祭司の祭服を着て神に仕える。彼らが望むのは、ヤーウェの再来である。イエスだけが人類の救い主である。イエスは罪から人類を救った捧げものである。つまり、イエスの名前は恵みの時代から来ており、恵みの時代の贖罪の働きのために存在した。イエスの名前は恵みの時代の人々が生き返り、救われるために存在したのであり、全人類の贖罪のための特別な名前である。そこで、イエスという名前は贖罪の働きを表し、恵みの時代を意味する。ヤーウェの名前は律法の下に生きたイスラエルの人々のための特別な名前である。各時代、各段階の働きにおいて、わたしの名前は根拠のないものではなく、代表的意味を持っている。それぞれの名前は一つの時代を表す。「ヤーウェ」は律法の時代を表し、イスラエルの人々が崇拝した神の敬称である。「イエス」は恵みの時代を表し、恵みの時代に救われたすべての人々の神の名前である。人が終わりの日に救い主イエスが到来することをまだ望み、ユダヤの地にいたときの姿で到来することをまだ期待するなら、6000年の経営(救いの)計画全体は贖罪の時代に停止し、それ以上進展することはできないだろう。そのうえ、終わりの日は決して来ることはなく、時代にピリオドが打たれることはないだろう。救い主イエスは人類の贖罪と救済のためだけにあるからである。わたしは恵みの時代のすべての罪人のためにイエスの名を名乗ったのであり、わたしが人類全体を終らせるのはこの名においてではない。ヤーウェ、イエス、メシアはすべてわたしの霊を表すが、これらの名前は単にわたしの経営(救いの)計画の異なる時代を示すものであり、わたしの全体を表すものではない。地上の人々がわたしを呼ぶ名前のどれも、わたしの性質全体、わたしのすべてを明確に示すことはできない。それらは単に異なる時代にわたしが呼ばれる異なる名前にすぎない。だから最後の時代――終わりの日の時代――が来た時、わたしの名前はまた変わるのである。わたしはヤーウェやイエスとは呼ばれないし、ましてやメシアとは呼ばれないが、強力なる全能の神自身と呼ばれ、この名前の下でわたしは時代全体を終らせるだろう。わたしはかつてヤーウェとして知られていた。わたしはメシアとも呼ばれたし、人々はわたしを愛し、尊敬したので、ある時は救い主イエスと呼んだ。しかし、今日わたしは人々が過去に知っていたヤーウェでもイエスでもない。わたしは終わりの日に戻ってきた神、時代を終らせる神である。わたしは、わたしの全性質を余すところなく顕し、権威、名誉、栄光に満ちて地の果てに立ち上がる神自身である。人々は一度もわたしと関わったことがなく、わたしを知ったことがなく、ずっとわたしの性質に無知であった。天地創造から今日に至るまで、わたしを見たことがある者はひとりとしていなかった。これは終りの日に人の前に現れるが、人々の間に隠れている神なのである。神は真実で現実的に、照りつける太陽や燃え立つ火のように、力に満たされ、権威にあふれて人々のあいだに存在する。わたしの言葉によって裁きを受けない人や物は一人として、一つとしてない。燃える火によって浄化されない人や物は一人として、一つとしてない。最終的には、あらゆる諸国はわたしの言葉のために祝福され、わたしの言葉のために粉々に砕かれもする。このようにして、終わりの日にすべての人は、わたしが戻ってきた救い主であり、人類のすべてを征服する全能神であり、かつては人のための罪の捧げものであったが、終わりの日にはすべてを焼き尽くす太陽の炎にもなり、またすべてのものを顕示する義の太陽でもあることを理解するだろう。それが終わりの日のわたしの働きである。わたしはこの名前を名乗り、この性質を持ち、すべての人がわたしが義の神であり、照りつける太陽、燃え立つ火であることが理解できるようにする。そうするのはすべての人が唯一の本当の神であるわたしを崇め、わたしの本当の顔を見ることができるようにである。わたしはイスラエル人たちの神であるだけではなく、贖い主であるだけでもなく、天、地、海の至る所にあるすべての創造物の神である。

終わりの日に救い主が到来する時、まだイエスと呼ばれていたら、そしてもう一度ユダヤで生まれ、そこで働きを行ったら、これはわたしがイスラエルの人々だけを造り、イスラエルの人々だけを救済し、異邦人とは関係がないことの証明になるだろう。これは「わたしは天と地、すべてのものを作った主である」というわたしの言葉と矛盾しないだろうか。わたしはユダヤを離れ、異邦人のもとで働きを行う。なぜならわたしはイスラエルの人々の神というだけでなく、すべての創造物の神だからである。わたしは終りの日には異邦人のもとに現れる。なぜならわたしはヤーウェ、つまりイスラエルの人々の神であるだけでなく、さらに、異邦人の中でわたしが選んだ者すべての創造主だからである。わたしはイスラエル、エジプト、レバノンを造っただけでなく、イスラエルの域を超えてすべての異邦人の国々も造った。そしてこのために、わたしはすべての創造物の主なのである。わたしは働きのための出発点としてイスラエルを使い、ユダヤガリラヤを贖罪の働きの拠点として用い、異邦人の国々を時代全体を終らせる起点として使うだけである。わたしはイスラエルで二段階の働き(律法の時代と恵みの時代の二段階の働き)を行い、イスラエルの域を超えた国々の至る所でさらに二段階の働き(恵みの時代と神の国の時代)を行ってきた。異邦人の国々でわたしは征服の働きを行い、時代を終らせる。もし人がいつまでもわたしをイエス・キリストと呼び、わたしが終わりの日に新しい時代を始め、新しい働きに着手していることを知らず、いつまでも取りつかれたように救い主イエスの到来を待つならば、わたしはこのような人々をわたしの存在を信じない人々と呼ぶだろう。彼らはわたしを知らない人々で、わたしへの信仰は偽りである。このような人々が救い主イエスの天からの再来に立ち会うことができるだろうか。彼らが待っているのはわたしの到来ではなくユダヤ人の王の到来である。彼らはこの不純な古い世界をわたしが絶滅させることを切望しているのではなく、その代わりにイエスの再来を望み、それにより罪から救われることを願っている。彼らはイエスがこの汚れた、よこしまな地から全人類をもう一度救うことを切望している。どうしてこのような人々が終わりの日にわたしの働きを完成させる人々になれるだろう。人の願望はわたしの望みを達成することも、わたしの働きを完成させることもできない。人はわたしが以前になした働きを賞賛し、大切にするだけで、わたしがいつも新しく、決して古くならない神自身であることにまったく気づかないからである。人はわたしがヤーウェでイエスであることを知っているだけで、わたしが最後に来る人類を終らせるものであることに少しも感づいていない。人が熱望し知っているすべては、自分の観念に関するものや、自分の目で見ることができるものに過ぎない。それはわたしの働きと一致しておらず、調和していない。わたしの働きが人の考えに従って行われるとしたら、いつ終わるだろう。いつ人類は安息に入るだろう。そしてわたしはどうしたら7日目の安息日に入ることができるだろう。わたしは、わたしの計画に従って、わたしの目的に従って働くのであり、人の意図に従っては働かない。

神様の御言葉が私の観念を取り除いた

四川省 萧睿

全能神教会における自分の本分が福音の伝道だったころ、私がそれを行なっていたところ、偽りの証しをすることで、人々が終わりの日における神様の働きを探求して受け入れるのを狂ったように防ぎ、妨げ、阻止している宗教指導者に出会いました。彼らは警察に通報し、福音を分かち合っている私たちを逮捕させることさえしました。結果として、私たちが伝道していた人は私たちとあえて接触しないようになり、福音を受け入れたばかりの人も妨害の対象とされ、神様の働きについて確信を失ってしまいました。私たちの福音の働きは大いに妨げられてしまったのです。本物の信仰をもちながら、牧師や長老に騙され混乱させられた多くの兄弟姉妹を見て、私は心から不安を覚えました。彼らは神様の御前に立ち返り、神様による終わりの日の清めと救いを受けることができなかったのです。私は彼らと神様の御言葉について交わるべく、毎日懸命に働き、神様の働きについて彼らが抱いていた観念を解消しようとしましたが、しばらくそうしても、私たちの福音の働きは好転しないままでした。私はこう考えました。「福音の働きは実行するのがとても難しい。神様が何らかの奇跡をお示しになり、偽りの証しをする者や、神様にひどく抵抗する者を罰せられ、騙された人たちにそれをお見せになるだけで、きっと素晴らしいことに違いない。そうしたら、福音の働きがもっと順調に進むはずじゃないか。私たちが福音を宣べ伝えるのもそれほど難しくはないはずだ」困難に遭遇するたび、このようにして心に希望が湧きました。その後、『全能神に抵抗することによる懲罰の代表的な事例』という本を読んだり、交わりの際に神様のしるしや不思議に関する証しを聞いたりして、心の中で大きな喜びを感じました。またそれ以上に、福音の働きが順調に進むよう、私の働いている分野で神様が何らかの御業を行なってくださるよう望みました。しかしどれだけ強く望もうと、神様がそこで何らかの奇跡をなさることも、悪人を罰するために何かをなさることも目にしませんでした。宗教の人々はいまだ徹底的に神様に抵抗しており、私たちの福音の働きにおける困難も大きいままでした。私は消極的になってこう考えました。「神様はなぜ私たちのために道を開いてくださらないのだろう。私たちの信仰が十分ではないということなのか」

困難に直面した私は何度も神様の御前に出てその御心を求めました。その後デボーションのさなか、私は次の神様の御言葉を目にしました。「今、神が超自然的なしるしや不思議を行えば、偉大な働きを始める必要なく、神の言葉で人が死ぬよう呪うだけで、その人はその場で死に、そうすれば全ての人間は納得するだろう。しかし、これは肉となる神の目的を達成しないだろう。もし神が本当にこれを行えば、人々はその意識的な心により、神の存在を信じ得ず、真に信じることができず、さらに悪魔を神と誤解するだろう。さらに重要なことに、人々は神の性質を決して知ることがないだろう。これが神が肉となることの意味の一つの側面ではないのか。人々が神を知ることができないなら、神は常に漠然とした神、超自然の神であり、人間領域に君臨する。これは人の観念が人間を占有してしまう一例ではないだろうか。あるいは、これをもっと明白に言い換えれば、サタン、つまり悪魔が君臨しているのではないか。『なぜわたしは力を取り戻すと言うのか。なぜ受肉にはあまりにも多くの意味があると言うのか。』神が受肉する瞬間、これは神が力を取り戻す時である。これはまた神の神性が直接神の働きを行うべく表れる時である。一歩ずつ、全ての者は実践的な神を知るようになり、このため、神の場所が拡大される間に、人の心の中でサタンに占められる場所は完全に抑圧される。」(『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉の奥義の解釈」の「第六章」より)神様の御言葉を反芻していると、突然心が明るくなりました。実際のところ、肉における神様の働きの目的は、ご自身の権威をお使いになって人を脅し、ご自分に服従させることではなく、実際の働きと御言葉を通じて人類にご自身の性質を完全に知らしめ、またそれによって人が心に抱いている漠然とした神のイメージを一掃することなのです。人はそれによって観念の束縛を振り払い、神様の性質と働きを真に知り、真理と識別力を自分のものにし、征服されて神様のものになることができます。神様の働きはまことに実際的であり、そのお知恵を人間が理解することはできません。ここでじっくり考えてみましょう。神様がなさっているその働きは、しるしや奇跡を通じて行なわれたなら実を結ばないはずです。律法の時代、神様は多くの奇跡をイスラエルの民に示され、ご自分に抵抗した者を数多く罰せられたものの、イスラエルの民はそれでも神様を知らず、最後は荒野の中で死を迎えましたが、まさにそれと同じです。恵みの時代、神様はユダヤ人のあいだで再び無数のしるしや奇跡を示されたものの、ユダヤ人はそれでも神様を知らず、そのせいで神様を生きたまま十字架にかけました。それらはすべて、神様のしるしや奇跡があったとしても、人が真に神様を知ることはなく、神様を畏れる心も育まないことを示しています。それらは人が神様を信じる土台とはなれないのです。しかし、私はいまに至るまで神様に従ってきましたが、神様の本質をこれっぽっちも理解しておらず、肉における神様の働きの目標や意義などなおさら理解していませんでした。私は神様の権威を信じ、神様に抵抗する者は誰であっても罰せられると考えてきたので、神様のしるしや不思議を見ることを熱心に求めてきたのです。このような信仰はまさにパリサイ人と同じで、漠然とした状態に浸って生き、実際の神様に抵抗しながら超自然的な神を信じているのではないでしょうか。私の神様の追求がこのような形で続けば、どうして神様と相容れることができるでしょう。それはまことに危険すぎることです。

その後、私は神様の御言葉をさらに読みました。「赤い大きな竜の地で働きを実行することは神にとって非常に困難だが、神はこのような困難を通して、自分の働きのひとつの段階を行い、自分の知恵と不思議な業を明らかにする。神はこの機会を通して、この一群の人々を完全にする。人々の苦しみ、彼らの素質、そしてこのけがれた地の人々のサタン的なすべての性質故に、神はその清めや征服の働きを行うことで栄光を手にし、神の業の証に立つ人々を得るのだ。これこそが、神がこの一群の人々のために行った全ての犠牲のすべての意義である。つまり、神は自身に逆らう者たちを通して征服の働きを行うのだ。そうすることによってのみ、神の大いなる力が現わされるのだ。…これはちょうどイエスの働きの段階と同じだ。イエスは、彼を迫害したパリサイ人たちを通してのみ栄光を受けることができた。そのような迫害やユダの裏切りがなければ、イエスは嘲笑されたり中傷されたりすることもなく、ましてや十字架に付けられることなどなく、栄光を受けることは不可能だったに違いない。」(『言葉は肉において現れる』の「神の働きは人間が想像するほど簡単か」より)これらの御言葉から、神様がどんな働きをなさろうと、そのどれもが有意義なのだとますます気づくようになりました。神様の働きが何らかの奇跡を示すことだったり、何らかの懲罰を与えることだったりしても、そこには意義があり、原則があります。神様がそのような働きをなさらないのであれば、そこには神様のお知恵がさらに多く含まれています。現在、偽りの証しをしたり、ご自身にひどく抵抗したりする悪人を神様は排除なさっていませんが、そこには神様の善意がさらに多く含まれているのです。神様はこのような困難をお使いになって、私たちが神様ご自身の働きのつらさを味わい、可能な限り人類をお救いになるという神様の御心を自分の目で見、それによって神様のお優しさと美しさを認識できるようにしてくださいます。また、神様はこれらの困難を使われることで、私たちが完全に納得し、神様の義と聖さを見られるよう、人がなす善悪の証拠をお掴みになり、最後はそれぞれにふさわしい終着点をお与えになります。さらに、神様はこれらの困難をお使いになって、ビジョンに関する真理の側面が私に欠けていること、私の本性があまりに怠惰で、臆病で、愚かで、無知なこと、そして私の苦しみ、努力、および神様との協力を通じて、神様が私に識別力と自信、愛、知恵、勇気を授けてくださることを明らかになさいました。そのうえ、神様は私にご自身の働きの真理をお与えになり、それによって私を完全になさり、ご自分のものとされるのです。神様の働きはまことに賢く、かくも素晴らしいものです。しかし私はあまりに盲目で、神様の働きの意義も、神様の善意もまったく理解していません。肉体の苦しみをひたすら恐れ、進んで神様に協力しようとしません。私は実に、正しく働きに専念していない信者、安楽をむさぼる信者なのです。

肉における神様の働きの目的と知恵について、私にいくらかの認識を授けるとともに、神様に対する自分の信仰が漠然としていること、神様を知らないのはあまりに危険なことだと理解できるようにしてくださった、神様の御言葉の啓きに感謝します。今日より後、私はさらに多くの真理を身につけ、神様の働きと性質を知る人になることを追い求め、神様の心を慰めるべく全力で本分を尽くすつもりです。

慈母のような神様の御心を知る者とは

以前、私は人類をお救いになる神様の働きを理解していませんでした。働きにおいて堕落を露呈させたり、教会の働きに被害を及ぼすような過ちを犯したりすると、その人は必ずや応報を受けるか、本分を失うか、または罰を受けるかしますが、それが神様の義だと思っていたのです。このような正しくない理解をしていたことに加え、働きの中で失敗を犯して本分を失うことを恐れた私は、ある「賢い」方法を思いつきました。何か間違いを犯した時は、何とかして先に指導者にばれないようにし、自分で素早く埋め合わせをして、何としても修正しておくのです。そうすれば自分の本分を守る助けにならないでしょうか。そのため、業務報告書を提出する時は、常に大きな問題は小さく、小さな問題は存在しないものとして報告していました。消極的になっている時は、指導者の前では何とかごまかして、とても活動的で積極的なふりをしていました。指導者に無能だと思われ、用いられなくなるのが怖かったのです。このようにして、私は何をするにしても、神様や指導者をとても注意深く警戒していました。

しかし、神様は人の心をお調べになります。私の「見事なごまかし」は神様の目から逃れられませんでした。ごまかそうとすればするほど、神様は私を白日の下にさらされました。たとえば、指導者の前で自分の「才能」を誇示しようとするたび、いつもしくじって恥をかきます。消極的になっている自分を隠そうとすれば、うっかり顔に「鬱蒼とした雲」を浮かべてしまい、兄弟姉妹にばれてしまいます。働きにおける間違いや手抜きを隠そうとすれば、全てを映し出す鏡のようにばれてしまうのです……何度も何度も不正直であることを恥じ、良心の咎めを感じるうちに、私はすっかり打ちのめされましたが、それでも神様がこのような形で働かれる意図や目的も、神様がどのようにして人をお救いになるかも理解していませんでした。私は単に、「神様の義なる裁き」が到来し、教会によって取り扱われるのを消極的に待つだけでした。

しかし現実は、私が心に描いていたものとは違っていました。正しく本分を尽くしていなかったために私が刈り込まれ、取り扱われたにもかかわらず、兄弟姉妹は私を熱心に指導し、おざなりであるとはどういうことか、忠実に本分を尽くすとはどういうことかを教えてくれました。おかげで、人は神様のお求め通りに行動することでのみ、正しく本分を尽くせるのだと理解することができました。いのちの入りに関して、私は取り除くことのできない悪しき考えに幾度も囚われ、心の中で苦しみました。これについて心を開き、誰かと話し合いたかったのですが、あまりにも恥ずかしくて言葉にすることができませんでした。最終的に、私は暗闇に陥り、聖霊の働きを失ってしまいました。しかし、全てを打ち明けてみると、兄弟姉妹は私を笑ったり見下したりしなかっただけでなく、私を助け、激励し、私が光の中で生きられるようにし、実践の道と罪に打ち勝つ力を与えてくれました。その後、周りの兄弟姉妹が何か間違いを犯したり、堕落を表したりした時も、教会はそれを理由に彼らを自宅に追放しなかったことを知りました。むしろ、教会は彼らと話し合い、支えることに全力を尽くし、何度も繰り返しチャンスを与えたのです。ある人が最終的に教会から追放されたとしても、それはその人に人間性がなかったからです。そのような人は教会の働きを乱して妨害し、積極的な役割を果たしていなかったのです。彼らはいつも自分の本分を型通りに行なうだけで、何ら実際的な成果を挙げず、幾度も刈り込まれ、取り扱われ、話し合いがもたれたあとも、悔い改めるのを拒みました。しかし、教会はそのような人でも、悔い改めて目を覚ますのを待ち続けます。その人たちが真剣に自分を見つめ直し、しばらく後に変わることができれば、教会は訓練の機会と善行を重ねる機会を与えてくれるのです。私はこれらの事実のおかげで、神様は戻ってきた放蕩息子を比類なき愛と優しさで迎え入れる両親のような態度でいらっしゃることを知りました。そのとき初めて、神様が憐れみと愛をもって人を扱われるか、あるいは義と威厳と怒りをもって人を扱われるかにかかわらず、そのすべては最大限可能な限り人類をお救いになることだと気づきました。そのすべてに人類に対する神様の無限の愛と救いがあり、それはどれも神様の本質によって定められたものなのです。私は神様の御心をじっくり考えながら、暴かれたり、交代させられたり、追放されたりした人のことを思い浮かべました。彼らは暴かれ淘汰されるという環境に置かれて初めて、自分を反省し、サタンによる堕落の真相をはっきり知り、神様の御前でひれ伏して真に悔い改めるようになるのです。そのような失敗がなければ、同じ道を無闇にさまよい続けるだけでしょう。神様のなさる働きはまことに人類をお救いになる働きであり、人間に対する神様の愛と善意を含んでいるのは明らかです。以前、私は神様の救いの働きを本当に理解していませんでした。神様に関する私の理解はかくも一方的だったのです。

その時、神様の御言葉の一節が頭に浮かびました。「キリストの本質は何でしょうか。キリストの本質は人類に対する愛です。キリストに従う者に関しては、それは無限の愛です。もしキリストに愛と慈悲がないなら、人々は現在までキリストに従えないでしょう。『それなら神はやはり義ではないのですか』と言う人もいます。はい。キリストはやはり義であるのはそのとおりですが、キリストの性質の観点から、キリストの義は人類の堕落と邪悪に対する憎しみです。もしキリストに愛のない義があるだけならどうなるでしょうか。もし愛が義を圧倒し得ないとするならばどうなるでしょうか。それなら人類は終わっていると言えるでしょう。それゆえ、わたしはあなた方に率直に話しており、つまり、神の受肉のときの間に神が人類に行う働きの中で、神の最も顕著で卓越した本質は愛です。それは無制限の寛容です。それが愛でなく、あなた方が想像するように人々を滅ぼす神ならば、滅びを語ることで人々は滅ぼされ、人々への憎しみを語ることで人々は罰せられ、呪われ、裁かれ、懲らしめられ、それは非常に深刻でしょう。もし神が人々に怒っているなら、人々は恐れと震え、神の視界の中に立てないでしょう…。これは神の性質を表現するためのひとつの方法にすぎず、結局は神の目的はやはり救いです。神の愛は神の性質のすべてのあらわれに流れています。これを振り返ると、受肉のときの働きの間に、人々のために最も明らかにされるものは愛です。忍耐とは何でしょうか。忍耐には哀れみがあります。内に愛があり、その目的はやはり人を救うことだからです。神には愛があるため、人々に哀れみを持つことができます。夫と妻の間に本当の愛がある場合のように、彼らはお互いの短所や欠点を見ません。怒りに駆られても、夫と妻はやはり耐えることができるでしょう。すべてが愛の基盤に確立されます。もし神が憎しみに満ちているならばどうなるでしょうか。それならば、神の態度は今あるようではなく、神の表現は今あるようではなく、結果は今あるようではないでしょう。もし憎しみと怒りのみが神にあり、裁きと刑罰しかなく、そこに愛がないならば、状況は今あなた方が見るものではなく、あなた方人々は良い状況にないでしょう。神はあなた方に真理を与えるでしょうか」(『キリストの言葉の記録』より)私は以前にこの一節を目にした時、それを受け入れたとは言っても、実は理解しておらず、依然として神様への不信感と警戒心で一杯でした。今になって初めて、これらの御言葉の本当の意味を少しは理解できるようになり、あまりに多くの本質が込められていることも認識できるようになりました。その行間には、人類に対する神様の深い愛情、神様の善意による供給、支え、教えが満ち溢れているのです。

この時、私は神様に対して深い罪悪感を抱かずにいられなくなりました。「ああ、神よ。これまでずっとあなたに従い、あなたを信じてきたにもかかわらず、私はあなたを理解していませんでした。私はあなたの慈母のような心に対して盲目で、不実にも誤解していただけでなく、沢山の苦痛を与えてしまいました。私は本当にあなたの御前へと出るのにふさわしくありません。あなたの救いを受けるなどもってのほかです。私はあなたの呪いを受ける価値しかありません。それにもかかわらず、あなたは私の不従順を基にして私を扱われません。むしろ、私を力強く賞揚し、憐れみ、耐えてくださっています。私はそれによってあなたの愛と恵みを享受し、あなたの美しさと優しさを見、『神は義であり、それ以上に愛である』という御言葉の実相を体験することができるのです。今後はあなたの御言葉と真のいのちを通してあなたの魅力をより深く知り、あなたを愛する正直な人になるよう努め、本分を尽くしてあなたの偉大な愛に報いてまいります。

河南省鄭州市 清心

私はキリストを見るのにふさわしくない

遼寧省大連市 還報

全能神を信じるようになって以来、キリスト自身による牧養を受けることができ、自らの耳でキリストの説教を聞くことができる兄弟姉妹のことをずっと羨ましく思いました。心の中では、いつか私も将来キリストの説教を聞くことができたらどれほど素晴らしいかと思っています。もちろん、キリストを見ることはもっと素晴らしいことでしょう。けれど最近キリストの交わりを聞いたことで、私はキリストを見るのにふさわしくないと深く心から感じるようになりました。

それは『いのちに入ることに関する交わりと説教』第1~3巻が配布されたときのことでした。第1巻を聞いたとき、私は聖霊に使われている人は話がとても上手だと感じました。第2巻で、ある姉妹の話を聞いたとき(これはこれらの交わりがキリストによるものであると誰かが教えてくれる前のことです)、私はこの人は単に聖霊に使われている人より格下のリーダーなんだろうなと想像しました。特に、知識をどのように見るべきかという問題についてこの姉妹が話したとき、兄弟姉妹が熱心に反応するのを聞かなかったので、私の想像は当たっていると確信し、またこの人は聖霊に使われている人ほど話が上手でないと感じたので、注意深く聞いていませんでした。第3巻を聞いた後、聖霊に使われている人の話の後、私は同じ姉妹が「今の兄弟の交わりについて…」と言うのを聞きました。それで私は余計にこの姉妹は聖霊に使われている人より格下のリーダーに違いないと確信したのです。というのも、上司が最初に話し、部下が後で話すのが世間の常だからです。そのため「あとで時間があるときにこれを聞こう」と思いながらスピーカーを切りました。この姉妹が実はキリストであると知った日、私はショックを受け、そしてついに説教の一字一句に真剣に耳を傾けました。

その後、私は熟考を始めました。私はキリストの交わりを自ら聞きたいと強く願っていたのに、キリストがついに私たちに話しかけたとき、なぜ私は見分けることができなかったのでしょうか。私はこんな状況に関連する神の言葉を飲み食いし始めました。そして、神がこう言っていたのです。「すべての人はイエスの真の顔を見たい、イエスと共にいたいと思っている。イエスを見たいとも、イエスと共にいたいとも思わない兄弟姉妹がいるとはわたしは思わない。イエスを見る前には、つまり、受肉した神を見る前には、たとえばイエスの外観、話し方、生き方などについて、あなたがたはあらゆる考えを抱くことであろう。しかし、ひとたび本当にイエスを見たら、あなたがたの考えはすぐに変わる。なぜか。その理由を知りたいか。人間の考えを見過ごすことはできないというのは本当である。しかしそれ以上に、キリストの本質は人間が変えることを許さない。あなたがたはキリストは神仙であり、あるいは賢人としてとらえており、誰一人としてキリストを神聖な本質をもつ普通の人としてとらえていない。したがって、昼も夜も神に会うことを切望している人の多くが実は神の敵であり、神と相容れないのである。これは人間側の間違いではないだろうか。今でさえ、あなたがたは自分の信心と忠実は十分なので自分はキリストの顔を見るのに相応しいと考えている。しかし、わたしはあなたがたに実際的なものをさらに多く備えるように強く勧告する。これは、過去、現在、未来において、キリストと触れ合う人の多くが失敗したから、また失敗するからである。彼らは皆パリサイ人の役割を演じる。あなたがたの失敗の理由は何か。それはまさに、あなたがたの観念の中に立派で称賛に値する神がいることである。しかし実際は人間が望むとおりではない。キリストは立派でないだけでなく、特に矮小である。キリストは人間であるというだけではなく、ごく普通の人間である。…そのため、人々はキリストを普通の人間として扱う。人々はキリストと共にいるときにキリストを気軽に扱い、…あなたがたは既に到来したキリストを普通の人間とみなし、その言葉を普通の人間の言葉とみなしている。このため、あなたがたはキリストから何も受け取っておらず、代わりに自らの醜さを完全に光にさらけ出しているのである。」(『言葉は肉において現れる』の「キリストと相容れない人は疑いなく神の敵である」より)神の言葉と比べて、私はキリストの交わりをついに聞いたときに自分の堕落した性質がどのようにはっきり示されたかを考えました。私はキリストの説教と交わりを自分の耳で聞きたいと望んでいたのに、キリストの交わりをついに聞いたときに、気にもとめませんでした。私はキリストをただ普通の人間とみなしていました。これは私がキリストの本質を理解せず、キリストが謙遜し隠していることのすべてを理解せず、キリストについての考えや観念を多くもちすぎていたからです。キリストの交わりはキリストに直接会える兄弟姉妹に限定されていて、他の人々は自らの耳でキリストの交わりを聞くことは許されないに違いないと私は想像していました。キリストの交わりは、キリストが身分を公に発表することを伴うのだろうと私は想像していました。キリストの交わりは、何らかの特別な人のように他の人々とは違う声で、多くの優美な言い回しをもって語られるはずだと私は想像していました。キリストの交わりは兄弟姉妹の興奮した情熱的な歓声に伴われるのだろうと私は想像していました。そして、聖霊に使われている人とキリストが順番に話すのならば、キリストが最初に話し、聖霊に使われている人は最後に話す…私はキリストの働きと言葉を私の想像の境界内に閉じ込めてていました。私はキリストを特別な仕方で想像したからです。事実が私が想像していたことと食い違ったとき、私はキリストを普通の人として、キリストの言葉を普通の人の言葉として扱い、他の人々が交わりから多くを得た一方で、私は何も得られず、傲慢で、思いあがった、真理を軽蔑するサタンのような自らの本性を曝け出し、キリストを拒否し抵抗する者となったのです。

後になり、私は神の言葉に次のことを見つけました。「あなたがたはキリストを見たいと常に思っているが、自分をそのように高く評価しないことをわたしは勧める。誰でもキリストを見ることができるが、誰もそうするに相応しくない、とわたしは言う。人間の本性は邪悪、傲慢、反抗心に満ちているため、キリストを見た瞬間にあなたの本性はあなたを破壊し、あなたを死に至らせる。」(『言葉は肉において現れる』の「キリストと相容れない人は疑いなく神の敵である」より)「真理と真剣に向き合うことがなく、ましてや真理を慕い求めることもしない。ただやみくもに研究し、気楽に待っているだけである。そのように研究し、待っていることで得られるものは何なのか。あなたは神から個人的な導きを受け取ることができるか。神が語った言葉を聞き分けることができないなら、神の現れをどうやってその目で見ることができるのか。…真理を受け取ることができる人だけが神の声を聞くことができる。そしてそういう人だけが神の現れを見ることができる。」(『言葉は肉において現れる』の「神の現れによる新時代の到来」より)私があまりにも傲慢で、あまりにも反抗的で、あまりにも俗物で、身分や地位を持っている人たちであればあまりにも容易に傾聴し同意する気になるのに、一方では身分や地位を持たない人々を見下し、そのような人々が真理にしたがって語っても聞こうとしないため、神の声を認識することができないのだと、神の言葉により理解しました。交わりを聞いたとき、私は真理に集中せず、真理を得ることを望まず、その代わりに心は臆測と探求に没頭していました。私は傲慢さと反抗、観念と想像だけを暴露したのです。私のように傲慢で、反抗的で、真理を受け入れない者が、私のように真理の前で敬虔さや渇望をもたない者が、いったいどうして神の声を聞き、知ることができるのでしょうか。どうして私がキリストを見るのにふさわしいでしょうか。

この明らかにされたことを通して、たとえ私がキリストを見たいと思っても、サタンによる私の堕落があまりに深く、生来私は傲慢で反抗的であり、私には真理がなく真理への愛もなく、キリストの本質を理解せず、ばかげた偏見で判断し、あまりにも多くの観念や考えを持ち、私が信じる神は依然曖昧な神であり、力強く雄弁な姿かたちをしているため、私はキリストを見るにはふさわしくないということをついに理解したのです。そして私が本当にキリストを見ると、私の観念は根を張り、私の傲慢さはいつ芽を出すか知れず、そのため私の反抗的な本性が私を滅ぼすかもしれません。今私は真理を身にまとい、神の言葉において私の堕落した本性とキリストの本質を理解することを求め、キリストを理解し崇拝する人にならなければなりません。

神様の一言一言はその性質の表れである

神様の次の言葉を読む度に私は不安になりました。「わたしが語った語句の全てには、神の性質が含まれている。わたしの言葉を慎重に熟考するとよい。必ずそれらから多くの利益を得るであろう。」(『言葉は肉において現れる』の「神の性質を理解することは極めて重要である」より)私が不安を感じていたのは、神様の性質を理解することが、神様に関する人間の認識と、神様を愛し、神様に喜んでいただこうと求めることの両方にとって、とても大切だからです。しかし神様の御言葉を飲み食いするにあたって、私はいつも神様の性質が抽象的すぎると感じ、どのように認識すればいいのかわかりませんでした。その後、指導者との交わりを通じて、神様が何を好まれ何を嫌われるかはその御言葉から学ぶべきで、それによって神様の性質を理解できるようになるのだとわかりました。続いてしばらくそれを実践したところ、ある程度の成果を挙げることができました。しかしそれでもまだ「わたしが語った語句の全てには、神の性質が含まれている」という神様の言葉に困惑を感じ、いったいどう理解すればよいのかわかりませんでした。

ある日、私は次の説教の言葉を読みました。「神様の性質には、神様が所有されているものと神様そのもの、神様の思いや考え、思考や知恵など、様々な側面が含まれます。神様の憐れみと配慮の感情、さらには人類の反抗や抵抗に対する怒りなど、ありとあらゆる人に対する神様の態度を含んでいるのです。神様の各文章には神様の思考、知恵、考えが含まれ、そのすべてに神様の御言葉の背景と源があり、どれも神様の人間への態度を自然と表し、一文たりとも根拠のないものはないので、各文に神様の性質が含まれているのはごく当然のことです。人間の口にする一言一句が人の性質を表すなら、神様の一言一句には神様の性質がはるかに多く含まれませんか。それは容易に理解できるものですが、それを見つけて知ることは人が想像するほど簡単ではありません。神様の言葉を読むにあたって、十分に理解しようとせず、努力を十分傾けず、十分な経験もないのであれば、神様の性質を簡単に知覚することはできず、ましてや理解するなど困難です。そのため、人は神様の御前で自分を静め、心をひたすら神様の御言葉に集中させ、祈りながら御言葉を読み、それを理解しようと努めることが必要なのです。そうすれば神様の御言葉の裏にある考え方の枠組みを見いだせるようになります」(兄弟の交わりより)。この言葉を読んですべての辻褄が合いました。神様の性質が数多くの要素を含んでいることに気づいたのです。そこには神様が所有されているものと神様そのもの、神様の思いと考え、思考と知恵、そしてあらゆる人に対する神様の態度などが含まれています。さらに、神様の各文章には御言葉の一語一語の背景と源があり、根拠のない文章は一つもなく、神様がなさるすべてのことと、神様がお語りになるすべての文章は、いのちにおける神様の存在そのものを残らず自然に表しています。一方、神様の性質に関する私の理解は、神様が何を好まれ何を嫌われるかだけに限られていました。このような理解はあまりに一方的であり、そのせいで神様の各文章から神様の性質を理解することができなかったのです。これ以外にも、神様の性質を神様の各文章から理解したければ、神様の御前で自分を静め、神様の御言葉を理解しようとすることにもっと努力を傾ける必要があるとも知りました。さらに、神様の御前で祈ってお導きを求め、神様がお語りになった御言葉の裏にある考え方の枠組みと、神様の御業の背景と源を理解することに集中する必要もあったのです。

私はこれらのことに気付かせてくれた神様の啓きと照らしに感謝し、その後はその側面の実践をして入ってゆくことに集中しました。そんなある日、神様の御言葉の一節を読みました。「この働きが重要であるかどうかは、人間の必要、人間の堕落の現実の状態、サタンの甚だしい不服従、それが働きを妨げている程度による。誰が任務にふさわしいかは、その働きの性質と重要性とによって決まる。この働きの重要性という点では、どんな方法を用いるか、すなわち神の霊が直接働きを行うか、それとも神が受肉して働くのか、あるいは人間を通じて行うかという意味においては、選択肢から最初に除かれるべきは、人間を通じて行う方法である。働きの性質という点では、霊の働きの性質対肉の働きという観点からは、最終的に、肉によって行う働きが、霊が直接行うより人間にとって有益で、効果的であるということになった。霊と肉とどちらの働きをするかの決定の際の、これが神の判断であった。」(『言葉は肉において現れる』の「堕落した人類は受肉した神による救いをさらに必要としている」より)この御言葉を慎重に理解しようとしていると、すごい宝物を発見したかのように感じました。神様の御言葉は、終わりの日にどのような方法で働きをなさるかについて、その時点における神様の考えの進展を示しています。考えが進展する中で、神様が最初に検討なさったのは、どの方法を用いればこの働きにおいて最も人間の益となるのか、人間を救うにあたって成果を挙げるにはどうするのが最善なのか、サタンに敗北を受け入れさせ、それによってサタンを征服し、深く傷つけられた人を完璧な救いへと導くにはどうすべきかということです。考えを巡らせる中で、神様は常に人間のことを気になさり、ご自分の益や安全は決して気になさいませんでした。神様は受肉によって多くの苦難を受けるであろうことをはっきり知りながらも、人類を救うとなると、それは考慮の対象ではありませんでした。その代わりに、神様は人類が必要としているものと、人類の堕落の現実に基づき、終わりの日の働きをなさるために、肉となる方法を選ばれました。大きな危険を冒して虎の住処の奥へ入り、赤い大きな竜によるひどい迫害と追及に苦しみ、様々な宗教や教派からの罵りと冒涜に耐え、さらには神様に従う私たちからの抵抗、反抗そして誤解にも耐えています。神様が心に負った傷や非難、そして神様が耐える屈辱は、まことに誰ひとり理解することができないものです。神様が表現し、明らかになさることはすべて、いのちにおける神様の存在そのものです。神様の人に対する無私の献身と、人のために払う代価なのです。神様が偉大にして無私でいらっしゃることは、その働きと各文章に自然と現れており、またそれらは神様の素晴らしい憐れみと無私の愛をも象徴しています。人類に対する神様の愛は単なる空虚な言葉ではなく、神がお払いになる実際の代価なのです。その時、神様は本当に偉大で愛しい方だとはっきり感じました。これらの神様の御言葉は以前に読んだことがありましたが、キリストがお語りになった御言葉の背景や、それらが明らかにしたすべてのことは理解しておらず、人類に対するキリストの愛も理解していませんでした。いま初めて、「わたしが語った語句の全てには、神の性質が含まれている」という神様の御言葉を真に理解できたのです。

それまで、私は心を静めたことも、神様の御言葉を理解しようと真剣に努めたこともなかったせいで、今日に至っても神様に対する多くの観念と誤解を抱いたまま、いまだに神様から遠ざかっているほど、神様を理解するたくさんの好機を失ってしまいました。いまようやく、神様の性質を理解したいのであれば、神様の各文章にある真理を真剣に突き止め、求めようとしなければならないことがわかりました。そうすることできっと大きな益を得られます。今日からは、神様の御言葉により多くの努力を集中させ、神様について何らかの認識をもつ人に早くなろうと思います。

山東省徳州市 胡珂

ゴスペル音楽 ワーシップソング 「神の国での新しい生活のために賛美しよう」

 

私たちは神様の御声を聞き

神の家に帰ってきた

私たちは集まって御言葉を食べ飲みし

祝宴に参加する

私たちは、悲しみや混乱に別れを告げ新しい人生を送る

日々御言葉が共にあり

それをいっぱいに浴びる

真理についての交わりで心を開き

私たちの心はとても明るくなる

私たちは御言葉を黙想して

聖霊が私たちを啓く

私たちの障壁や偏見は取り除かれ私たちは神様の愛の中に住む

私たちは真理を理解し自由にされ心は蜜のように甘い

私たちは愛し合い、互いに距離はない

私たちは神様の心を理解しもはや消極的ではない

御言葉の中に生き

私たちは神の麗しさを見る

私たちは人生で光の道を歩んだがこれはすべて神様の導き

私たちは神様への賛美を大声で歌い

踊りまた踊る

私たちは神の国での新しい生活を賛美し

心は真に幸せ

私たちを救ったのは神様で

私たちは神様の民になった

神様の御座の前に引き上げられることは

比類なき楽しさ

御言葉はとても貴く、そのすべてが真理

御言葉の裁きを受け入れて

私たちの堕落が完全に暴かれた

傲慢な性質により

私たちは実に理性に欠けている

御言葉が私たちを刈り込み取り扱い自己を知るようになった

私たち顧み、自己を理解し、真に悔い改める

裁きと刑罰を通して

私たちの堕落は清められる

私たちは堕落した性質を捨て去り

新しい人間になる

私たちは合格できるように本分を尽くし神様の愛に報いる

私たちはそれぞれなすべきことをして神様に忠誠を尽くす

証しに固く立ち、神様の御心を達成する

私たちはそれぞれ自分の光と熱を放ち

神様のために証しを広める

神様への純粋で誠実な愛は幸福で甘い

私たちは神様への賛美を大声で歌い

踊りまた踊る

私たちは神の国での新しい生活を賛美し

心は真に幸せ

私たちを救ったのは神様で

私たちは神様の民になった

神様の御座の前に引き上げられることは

比類なき楽しさ

私たちは、心と手をつなぎ神様を証しする

私たちは、御国の福音を広め

苦難や疲労を決して恐れない

患難や試練を通して

私たちは祈り、神様に頼る

その道は辛く険しいが

神様は道を開いてくださる

御言葉の真理を知ると

私たちの心は力を得る

御言葉は私たちを勇気づけ

私たちは前へと突き進む

私たちは肩を並べて手と手をとりあって

神様のために証し体と心を神様にささげる

苦しみがどんなに大きくても

私たちは心から喜ぶ

御言葉の導きで、私たちはサタンに勝利する

真に神様を愛し、それを決して悔やまない

私たちは赤い大きな竜を完全に見捨てた

私たちは勝利の兵士だ

私たちは、神様を愛する道において証しし

決して引き下がらない

私たちは神様への賛美を大声で歌い

踊りまた踊る

私たちは神の国での新しい生活を賛美し

心は真に幸せ

私たちを救ったのは神様で

私たちは神様の民になった

神様の御座の前に引き上げられることは

比類なき楽しさ

私たちは神様への賛美を大声で歌い

踊りまた踊る

私たちは神の国での新しい生活を賛美し

心は真に幸せ

私たちを救ったのは神様で

私たちは神様の民になった

神様の御座の前に引き上げられることは

比類なき楽しさ

『小羊に従って新しい歌を歌おう』より

礼拝賛美ダンス「教会生活の何という喜び」歌詞付き

 

兄弟姉妹よ、私たちは神の御前に来た

御言葉を飲み食いすることは何という喜び

神は、私たちがどれほど深く真理を理解するかは気にかけず

私たちの真の言葉を喜ばれる

私たちは経験と認識したことを分かち合い

互いに支え合い、手をつないで進む

私たちは真理を理解し、自分自身を顧み

私たちの堕落と欠点を見る

私たちの祈りは私たちが感じること

私たちは心から神に話す

御言葉について交わるほど

私たちは御言葉と真理をより理解する

私たちは神の愛を味わった

教会生活はこんなにも大きな喜びをもたらす

そして、私たちのいのちは少しずつ成長する

キリストの国は実に私たちの家

神を愛する者たちは神をとこしえに賛美する

全能神にすべての栄光があるように!

兄弟姉妹よ、私たちは神の御前に来た

御言葉を飲み食いすることは何という喜び

御言葉について交わるとき

体験し認識したことを分かち合い

聖霊から啓きを得る

神の光は私たちの上に輝く

教会生活はこんなにも大きな喜びをもたらす

そして、私たちのいのちは少しずつ成長する

キリストの国は実に私たちの家

神を愛する者たちは神をとこしえに賛美する

全能神にすべての栄光があるように!

神は私たちのためにすべてのことを采配し

それらは私たちが完全にされるのに役立つ

今、私たちは神の御旨と心を知る

それはすべて私たちが真理を得るため

神の真理と御言葉を実行することで

より真理と現実を得る

教会生活はこんなにも大きな喜びをもたらす

そして、私たちのいのちは少しずつ成長する

キリストの国は実に私たちの家

神を愛する者たちは神をとこしえに賛美する

全能神にすべての栄光があるように!

そして、私たちのいのちは少しずつ成長する

キリストの国は実に私たちの家

神を愛する者たちは神をとこしえに賛美する

全能神にすべての栄光があるように!

誠意をもって本分を尽くし

神の御心にかなうよう証しよう

『小羊に従って新しい歌を歌おう』より

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礼拝賛美ダンス「愛で結ばれて」歌詞付き