東方閃電-小羊の足跡に従っていくこと

東方閃電全能神教会は世界に”神様が帰ってきた”ことを公に証ししています。彼は再臨の主イエスです。神様の羊は神様の声を聞き分けます。多くの真理を渇仰する人は、東方閃電全能神教会を考察します。

キリスト教映画「赤の家庭教育」抜粋シーン(5)キリスト教をどのように理解すべきでしょうか

 

キリスト教カトリック東方正教会はすべて、主イエス・キリストを信じる宗教として知られています。全能神教会は、終わりの日におけるキリストの出現と働きによって誕生した、王国の時代のキリスト教会であり、キリスト教の一部です。ではどうして中国共産党は、全能神教会がキリスト教の教会であることを否定するのでしょうか?キリスト教とは一体何でしょう?

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全能の神は私に人生の二度目のチャンスをお与え下さりました

2012年7月21日は私にとって最も忘れられない1日、そして私の人生で最も重要な1日となりました。

あの日、北京の房山区は過去61年で最も激しい豪雨に見舞われていました。午後4時過ぎに、私は外の様子を見に街路に出ると、あちこちが水浸しになっていました。私の家の車は既に水に浮かんだ状態で、未だ水流に流されていなかったのは車の前にあった物が車をブロックして動かないようにしていたからです。この光景を見てとても気掛かりになった私は、すぐさま私と同様に神の信者であった旦那に電話をしたのですが、何度電話しても連絡が取れませんでした。その時、私は神の御心を求めずに、急いで家に戻って旦那と連絡を取ることにしました。

その後、私と旦那は傘を手に車を見に行きました。私達が車の隣まで行くと、旦那は運転しようと車に入ろうとしたのですが、車は旦那が触れる前に勝手に動き始めたのです。旦那は急いで数歩だけ追い掛けましたが、車は水流に流され、旦那も一緒に引き込まれてしまったのです。これに慌てた私は駆け寄って旦那を掴みたかたのですが、そう動く前に私も水流に引き込まれてしまったのです。あっという間に、私達はこのうなるような水流に60メートル以上も押し流されてしまったのです。丁度その時でした、ミニバンタイプのタクシーが突然私達の目の前に横向に浮かび上がって来たのです。私の旦那はこのタクシーに寄り掛かって体を起こそうとしたのですが、そうする前にタクシーは押し流されて行き、私達も一緒に数メートル押し流されてしまいました。水流の流れが変わった個所で、旦那はついに無理やり起き上がる事ができたのです。旦那は、「早く!あの高いパビリオンに入るんだ!」、と言って、私達は手をつなぎ、やっとの思いで小さなパビリオンの中によじ登っていったのです。丁度その時、洪水はその水位を増し、私達はまた流されてしまわないかとビクビクしながら柱にしがみつきました。私は、この生きるか死ぬかの危機に陥ってから初めて神を頼りにすることを思い出したのです。私は心の中から、「神様!今日私が生きるか死ぬかはあなた次第で御座いますが、私の死もあなたの義となることでしょう!」、と続けて祈りを捧げて懇談しました。私は神から一瞬たりとも離れようとせずに、何度も続けて祈りを捧げ続けました。突然その時、奇跡が起こったのです。沢山の棒が私達の方向に流れる水流をブロックし、洪水に体を打たれ続けても痛みを感じなくなったのです。水位が高くなるにつれ、私達は神を讃えながら祈りを捧げ、讃美歌を歌い続けました。後に、水流の勢いは増し続け、私は完全に疲れ果ててしまい、これ以上は柱にしがみついていられないと思いました。私は慌てて、「これ以上は無理。私はこれで終わりだわ!」、と旦那に叫びました。そして突然、私は洪水に飲み込まれてしまったのです。私の旦那は急いで私を掴もうとしたのですが、その瞬間が私の生死の分かれ目となったのです。丁度その時でした、車が私達の前に浮かび上がり、偶然にも柱の間に挟まったのです。急流は車の両サイドを流れるようになり、私達の無事が確保されたのです。神はなんて素晴らしいのでしょう!神は本当に全能なお方なのです!あの日、神が私を御救い下さっておらなければ、私は洪水に流されてしまいどこかで命を落としていたことでしょう。全能の神が、私に人生の二度目のチャンスをお与え下さったのです。神はこれについてこう仰っておられます、「神は自分のいのちを使って生けるものといのちのないもの両方のすべてのものを供給し、神の力と権威によって、すべてに良き秩序をもたらすのである。これは、誰も想像できず、たやすく理解できない事実であり、これらの理解不可能な事実こそが、神の生命力の顕示と証明なのである。」(『言葉は肉において現れる』の「神は人のいのちの源である」より)

こうして私達は5時間も雨に打たれ続けました。実は、それまでに、レスキュー隊員数人が既に私達を発見していたのですが、水流の勢いを見た彼らは自分達が流されてしまうことを懸念して、私達を救助しに来ずにただ単に遠くから見つめていたのです。明らかに、人は災害発生時には自分勝手でどうすることも出来ないのです。全能の神のみがいのちの源であり、それ以上に、神のみが時にかなって私達を救うことが御出来になるのです。全能の神から離れるということは死ぬということなのです。私は神の愛を個人的に体験できたことを踏まえ、「私は、本日より、意を決して全能の神に従い、神から授かった御救いに対して、神の優しさの恩に報いることが出来るよう自らの個人的な経験を用いて福音を広げ、より多くの人々を神の前に導いて行く」と神に誓いたく思います。

一般的な兄弟姉妹2人(北京)

2012年8月15日

真の道と偽りの道、真の教会と偽の教会の識別

関連する神の言葉

真の道を探求する上での最も基本的な原則は何だろう。あなたは、この道に聖霊の働きがあるかどうか、それらの言葉が真理を述べているかどうか、誰について証しされているのか、それが何をもたらすか、といったことを調べなければならない。真の道と偽りの道とを判別するには、いくつかの基本的な知識が必要だ。最も基本的なことは、そこに聖霊の働きがあるかどうか、ということである。人間の神への信仰の真髄は神の霊を信じることであるからだ。そして、受肉した神への信仰でさえ、その肉が神の霊の体現であることに基づいている。だから、そうした信仰はなおも聖霊への信仰であるということになる。霊と肉の間には違いがある。しかし、この肉体は霊から来たものであり、肉となった言葉であるのだから、人間が信じるのは、なおも神に内在する実質なのだ。そこで、それが真の道であるかどうかを区別するには、何よりもまず、そこに聖霊の働きがあるかどうかを見て、その後で、その道に真理があるかどうかを見るのだ。この真理は正常の人間性のいのちの性質である。つまり、神がはじめに人間を創造した時に人間に要求したこと、すなわち、(人間の理知、見識、知恵そして、人間であることの基本的な知識を含む)正常の人間性すべてである。即ち、この道が人間を正常な人間性の生活に導けるのかどうかを見極めなければならない。述べられている真理が正常の人間性の現実において必要なものかどうか、この真理が実用的で現実的であるかどうか、また、それは最も時宜にかなったものであるかどうか、といったことを見極めなければならない。もし真理があるのなら、それは人間を普通の現実的経験へと導くことができるはずだ。更に、人間はいっそう正常になり、人間としての理知はより完全になる。人間の肉体における生活と霊的生活とはさらに秩序あるものとなり、喜怒哀楽はより正常なものとなる。これが第二の原則である。もうひとつの原則がある。それは、人間は神についてより多くの認識をもっているかどうか、そのような業と真理を経験することは神への愛を呼び起こすかどうか、その人をより親密に神のもとへ近づけるかどうかということだ。このことによって、それが真の道であるかどうか見定めることができる。最も基本的なことは、この道が超自然的なものではなく、現実的なものであるかどうか、また、それが人間にいのちを与えるものであるかどうかということだ。もしそうした原則にかなうものであれば、この道が真の道であると結論づけられる。わたしがこれらのことを述べるのは、あなた方の将来の経験において別の道を受け入れさせるためではなく、また、もうひとつ別の新時代の業が将来現れると予言するためでもない。わたしがこれらのことを述べるのは、あなた方が、今ある道が真の道であると確信でき、今日の業をただ半信半疑で信じ、その業について不確かで見通すことができないようなことのないようにするためである。自分では確信を持ってはいても、まだ惑いの道を辿っている人々さえいる。そのような確信は信条に基づいたものではないから、彼らは遅かれ早かれ、除かれなければならない。とりわけ熱心に従っている者たちでさえ三割は確かだが、五割は不確かである。このことは、その人たちには基礎がないことを示している。あなた方の能力はあまりに貧弱であなた方の基礎が浅すぎるために、区別することがわかっていないのだ。神は同じ業を繰り返しはしない。現実的でない働きは行なわない。神は人間に過分な要求をしない。また、神は人間の理知の外にある業は行なわない。神が為す業はみな、人間の正常の理知の範囲内で行われ、本来の人間の理知の外には及ばない。また、神の働きは人間の正常な必要に沿ったものである。もしそれが聖霊による働きであるなら、人間はずっと正常になり、その人間性はさらに正常になる。人間はサタンのような堕落した自分の性質、人間の本質についての認識を増し、真理への渇望は更に大きくなる。これはつまり、人間のいのちがどんどん成長し、人間の堕落した性質においては、より一層の変化が可能となる。これら全てが神が人間のいのちになるということの意味である。もし、ある道が、人間の本質であるこれらのものを明らかにすることができないのなら、また人間の性質を変えることができないのなら、さらにまた、人間を神の前へ導き、神についての真の理解を与えることができないのなら、あるいは、人間性をさらに卑しめ、その理知をますます異常なものにするのなら、その道は真の道ではあり得ず、悪霊の業、あるいは、古い道なのだ。要するに、それは聖霊が現在為している働きではないということだ。

『言葉は肉において現れる』の「神とその働きを知る者だけが神の心にかなう」より

神の働きの各段階において、それに対応する人間への要求がある。聖霊の流れの中にいる者たちは皆、聖霊の臨在と鍛錬を備えており、聖霊の流れの中にいない者たちはサタンの支配下にあり、そうした者には聖霊の働きがまったくない。聖霊の流れの中にいる人々は、神の新たな働きを受け入れ、神の新たな働きの中で協力する者である。現在において、その流れの中にいる者たちが協力できず、神に要求された通りに真理を実践できないとすれば、そうした者は鍛錬を受け、最悪の場合は聖霊に見捨てられるであろう。聖霊の新たな働きを受け入れる者は聖霊の流れの中で生き、聖霊の配慮と守りを授かるであろう。真理を実践することを望む者は、聖霊により啓かれ、真理を実践することを望ましない者は、聖霊から鍛錬を受け、罰を受けることさえあるだろう。そうした者がどのような人間であれ、そうした者が聖霊の流れの中にいる限り、新たな働きを神の名において受け入れる者全てについて、神は責任を負うであろう。神の名を讃美し、神の言葉を実践することを望む者は、神の祝福を得るであろう。神に反抗し、神の言葉を実践しない者は、神の罰を受けるであろう。聖霊の流れの中にいる人々は、新たな働きを受け入れる者であり、新たな働きを受け入れたのであれば、神との適切な協力を行うべきであり、自らの本分を尽くさない反逆者となってはならない。神の人間に対する要求は、これだけである。しかし、新たな働きを受け入れない人々には、この限りでは無い。そうした者は聖霊の流れの外にいるので、聖霊の鍛錬や咎めは、そうした者に適用されない。そうした者は終日肉の中で生活し、自分の心の中で生活し、そうした者の行動は、全て自分の脳による分析と研究により生み出された教義に従っている。それは聖霊の新たな働きにおける要求ではなく、ましてや神との協力などではない。神の新たな働きを受け入れない者には神の臨在がなく、その上、神の祝福と守りが欠如している。そうした者の言動は、殆どが聖霊の働きの過去における要求に固執している。それらは教義であり、真理ではない。そうした教義や規則は、そうした者が集う理由が宗教だけであることを十分に示している。そうした者は選ばれた者たちでも神の働きの対象でもない。そうした者の会合は、宗教の総会としか言いようがなく、教会とは呼べない。これは変えようのない事実である。そうした者には聖霊の新たな働きが無い。そうした者の為すことには宗教の匂いがあり、そうした者が行動で示している事は、宗教で満ちている。そうした者には聖霊の臨在と働きが無く、ましてや聖霊から鍛錬や啓きを受ける資格など無い。これらの人々は、全員いのちの無い屍であり、霊の無い蛆虫のようなものである。そうした者には人間の反逆性や反抗性、人間による様々な邪悪な行いに関する認識が全く無く、ましてやそうした者は神の働きや神の現在における心など知らない。彼らはみな無知で下劣な人間であり、信者と呼ばれるに相応しくない人間のくずである。彼らの為すことには神の経営に関連する事は一切なく、ましてや神の計画を損なうことはできない。彼らの言動は過度に不快であり、たいへん惨めであり、まったく語るにも値しない。聖霊の流れの中にいない者の為すことは、一切が聖霊の新たな働きと無関係である。そのため、そうした者がどう行動するかを問わず、彼らは聖霊の懲らしめを欠いている上、聖霊の啓きにも欠けている。何故なら、彼らはみな真理への愛を持たない人々であり、聖霊から忌み嫌われ、見捨てられたからである。彼らは悪を行う者と呼ばれる。何故なら、彼らは肉にあって歩み、神の看板の下に、自分が満足するあらゆる物事を行うからである。神が働きを行う間、そうした者は神に対して故意に敵意を抱き、神と反対方向に向かって走る。人間が神と協力しないことは、それ自体が最も反逆的であるので、故意に神に逆らうそうした人々は特に然るべき罰を受けるのではないだろうか。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人間の実践」より

説教と交わりの参考箇所

宗教界全体がそれに敵意をもって反対していなければ、それは真の道ではありません。真の道なら確実に大多数の人々が、更に言えば、世界が反対するはずだということを覚えておいてください。主イエスが働き、説教するために初めて出現された時、ユダヤ教全体が主に反抗しなかったでしょうか。神が新たな働きを始められる時、それは常に堕落した人類には到底受け入れがたいのです。神の働きが人々の観念と合致せず、否定するものだからです。人々は理解力に欠けており、霊の領域を見極めることができません。聖霊の働きがなければ、人々は真の道を受け入れることができません。それが神の働きであると信じられていても、宗教界から反対されず、世界からの反抗と敵意もなければ、この神の働きは偽りであるという証拠になります。人類はどうして真理を受け入れられないのでしょうか。第一に、人は肉のものであり、物質的な存在だからです。物質的なものは霊の領域を見極めることができません。「霊の領域を見極められない」とはどういうことでしょうか。それは霊そのものも、霊とその領域の活動も見えない、神のなさることも仰ることにも気付けないということです。霊の領域での出来事が見えないということです。物質世界では人には物質的なものしか見えません。どの霊が人にどの働きをするかも、神の霊が何をしに、何を語りに来たのかも見せません神の声が聞こえることもありますが、どこから来たのかわかりません。書物から神の御言葉を読むことはできても、神がこの御言葉をどのように、いつ語られたのかも、それが何を意味するのかも分かりません人には霊の領域を見極めることも、神の御言葉の出所を把握することもできません。そのため、真理を理解するには、聖霊の啓きと照らし、聖霊の働きを必要とするのです。第二に、人類はあまりに根深く堕落しており、その内面はサタンの無数の毒と無数の知識で満たされています。サタンの様々な哲学と知識ですべてを評価するならば、人は真理が何であるかを確立させることは決してできません。聖霊の啓きと照らしなくして、真理を理解することはできないのです。そのため、真の道は必然的に人による迫害と拒絶の対象になります。人はなぜ、サタンの知識と哲学を容易に受け入れてしまうのでしょうか。第一に、それが人の肉にまつわる観念や利益と合致しており、人の肉にとって有益だからです。「こういった知識を受け入れたら自分のためになる。これで昇格できる。成功できるし、物事を達成できる。こうした知識があれば、人に尊敬してもらえる」と人は自分に言い聞かせます。自分にとって有益なものであれば、自分の観念と合致するのです……これ程までに堕落して、霊の領域を見極められない人は、神に反抗することしかできず、そのため神の働きは人による拒絶、反抗、断罪に遭ってしまうのです。これは当然のことです。もし神の働きが世界と人類の断罪と反抗に遭わなければ、それは真理でないという証拠です。もし神の語られたことがすべて人の観念と合致していれば、人はそれを断罪するでしょうか。反抗するでしょうか。もちろんしないでしょう。

「兄弟の交わり」より

教会は、神によって真に予定され、選ばれた人々から成り立ちます。教会を構成するのは真理を愛し、真理を追い求め、聖霊の働きを得た人々なのです。これらの人々が集まって神の御言葉を飲み食いし、教会生活を送り、神の働きを体験し、それぞれが神の被造物としての本分を尽くした時に初めて、その場は教会でありえるのです。仮にある烏合の衆が、自分たちは本当に神を信じていると言って祈り、神の御言葉を読んでも、真理を愛さず、追い求めることもなく、聖霊の働きなしに宗教儀式を行なうならば、それは教会ではありません。より正確に言えば、聖霊の働きのない教会は教会ではありません。単なる宗教施設であり、宗教儀式を行う人々に過ぎないのです。神に真に従い、神の働きを体験する人々ではありません。

…………

…教会は神を真に信仰して真理を追い求める人々の集まりであり、そこには悪しき者は決して含まれません。そのような者は教会には属さないのです。真理を追い求めず、真理の実践になることを何もしない人々が集まっても、それは教会とは言えません。それは単なる宗教施設、もしくは烏合の衆に過ぎません。教会を構成するのは、神を真に信仰し、真理を追い求め、神の御言葉を飲み食いし、神を崇拝し、本分を尽くし、神の働きを体験し、聖霊の働きを得た人々でなければなりません。これのみが教会なのです。したがって、本当の教会であるか評価する時、まずそこにどのような人がいるかを見る必要があります。第二に、その人たちが聖霊の働きを得ているかどうかを見なければなりません。その人たちの集会に聖霊の働きがなければ、それは教会ではありません。真理を追い求める人々の集まりでなければ、教会ではありません。もし真理を真に求める人が一人もいないなら、その教会には聖霊の働きがまったくありません。もしそのような教会に真理を求める意志のある人がいて、そこに留まるとしたら、その人は救われません。その人はなるべく早くその烏合の衆を離れ、教会を探すべきです。もし、教会の中に、真理を追い求める人が3人もしくは5人いて、単なる烏合の衆が30人もしくは50人いるとしたら、神を真に信仰し、真理を追い求めているこの3人もしくは5人が集まるべきです。その人たちが集まれば、その集まりは教会なのです。信者の数が最小であっても純粋な教会です。

『いのちの入りについての説教と交わり(VII)』の「教会の働きにおける五つの原則に従って働くことが重要である」より

宗教界の指導者や牧師たちは、神の働きを経験したことも、聖霊によって完全にされて育て上げられたこともないのに、神学校を卒業して卒業証書を受け取った後、宗教界の指導者や牧師になっています。彼らは聖霊の働きと承認を受けていないだけでなく、神に関する真の認識をまったく持っておらず、神学的な知識と理論しか語ることができないのです。彼らは実際に何も経験していません。このような人たちは神に用いられる資格がまったくありません。どうして彼らが人を神の前に導けるのでしょうか。彼らは神学校卒業を自分たちの特権の根拠とし、できる限りのことをして聖書の知識を誇示しようとします。耐え難い程に傲慢なのです。このため、彼らは神に断罪され、忌み嫌われ、聖霊の働きを失っています。これは疑う余地がありません。なぜ宗教界がキリストの不倶戴天の敵となったのかはとても示唆に富む疑問です。恵みの時代にユダヤ教が主イエス・キリストを十字架に磔にしたことは何を示しているでしょうか。世の終わりにおける神の国の時代に、宗教界は団結し、全力を尽くして世の終わりにおける神の働きに反抗し、断罪してきました。世の終わりに肉となったキリストを否定し、拒絶しています。肉となった神と神の教会に対して様々なうわさを捏造し、攻撃し、中傷し、冒涜してきました。そして戻られたイエス、世の終わりのキリストを、はるか以前から十字架に磔にしてきたのです。これは、宗教界がとうの昔から、神に敵対し逆らうサタンの勢力に成り下がっていたことを証明しています。宗教界は神が支配するものではなく、まして真理が支配するものでもありません。それは堕落した人、更に言えば、反キリストによって完全に支配されています。

人はこのような宗教施設、すなわちサタンに属し、悪魔と反キリストに支配され、管理されている施設で神を信仰していても、宗教的教義を理解することしかできず、宗教儀式と規制に従うことしかできません。決して真理を理解することも、神の働きを体験することもなく、救われることなどありえません。宗教施設には聖霊の働きがまったくないからです。このような場所は神に厭われ、忌み嫌われ、断罪され、呪われます。神は宗教をお認めになったことはなく、ましてや称賛されたことなどありません。宗教界は主イエスの時代から神に断罪されてきました。それため、神を信仰するならば、聖霊の働きのある場所を探さなくてはなりません。その場所のみが真の教会であり、人は真の教会でのみ神の声を耳にすることができ、神の働きの足跡を見出だすことができます。これこそが、神を求める方法です。

「兄弟の交わり」より

宗教界の各宗派はそれぞれの道が真理の道であると信じている。真理の道を偽りの道からどのように区別するのか。

神の御言葉による答え:

真理の道を探求する上での最も基本的な原則は何だろう。あなたは、それが聖霊の働きがあるかどうか、それらの言葉が真理を述べているかどうか、誰について証しされているのか、それが何をもたらすか、といったことを調べなければならない。真理の道と偽りの道とを判別するには、いくつかの基本的な知識が必要だ。最も基本的なことは、そこに聖霊の働きがあるかどうか、ということである。人間の神への信仰の真髄は神の霊を信じることであるからだ。受肉した神への信仰も、その肉が神の霊の体現であることに基づいている。だから、そうした信仰はなおも聖霊への信仰であるということになる。霊と肉の間には違いがある。しかし、この肉体は霊から来たものであり、肉となった言葉であるのだから、人間が信じるのは、なおも神に内在する実質なのだ。そこで、それが真理の道であるかどうかを区別するには、何よりもまず、そこに聖霊の働きがあるかどうかを見て、その後で、その道に真理があるかどうかを見るのだ。この真理は正常の人間性のいのちの性質である。つまり、神がはじめに人間を創造した時に人間に要求したこと、すなわち、(人間の理知、見識、知恵そして、人間であることの基本的な知識を含む)正常の人間性すべてである。即ち、この道が人間を正常な人間性の生活に導くものかどうかを見極めなければならない。述べられている真理が正常の人間性の現実において必要なものかどうか、この真理が実用的で現実的であるかどうか、また、それは最も時宜にかなったものであるかどうか、といったことを見極めなければならない。もし真理があるのなら、それは人間を普通の現実的経験へと導くことができるはずだ。更に、人間はいっそう正常になり、人間としての理知はより完全になる。人間の肉体における生活と霊的生活とはさらに秩序あるものとなり、喜怒哀楽はより正常なものとなる。これが第二の原則である。もうひとつの原則がある。それは、人間は神についてより多くの認識をもっているかどうか、そのような業と真理を経験することは神への愛を呼び起こすかどうか、その人をより親密に神のもとへ近づけるかどうかということだ。このことによって、それが真理の道であるかどうか見定めることができる。最も基本的なことは、この道が超自然的なものではなく、現実的なものであるかどうか、また、それが人間にいのちを与えるものであるかどうかということだ。もしそうした原則にかなうものであれば、この道が真理の道であると結論づけられる。…もしそれが聖霊による働きであるなら、人間はずっと正常になり、その人間性はさらに正常になる。人間はサタンに堕落させられた自分の性質、人間の本質についての認識を増し、真理への渇望は更に大きくなる。これはつまり、人間のいのちがどんどん成長し、人間の堕落した性質においては、より一層の変化が可能となる。これら全てが神が人間のいのちになるということの意味である。もし、ある道が、人間の本質であるこれらのものを明らかにすることができないのなら、また人間の性質を変えることができないのなら、さらにまた、人間を神の前へ導き、神についての真の理解を与えることができないのなら、あるいは、人間性をさらに卑しめ、その理知をますます異常なものにするのなら、その道は真の道ではあり得ず、悪霊の業、あるいは、古い道なのだ。要するに、それは聖霊が現在為している働きではないということだ。…もし、こうしたいくつかの重要な原則を把握したなら、何が起ころうと、あなたは欺かれることはないだろう。

『言葉は肉において現れる』の「神とその働きを知る者だけが神の心にかなう」より

全能神が再臨したイエスであると実際にどのように確認するのか。

神の御言葉による答え:

まず、イエスは新たな時代を開いた。第二に、イエスは人間にいのちを与え、行くべき道を示すことができた。イエス自身が神であることを証拠立てるにはこれで充分なのだ。少なくとも、イエスの行う業は神の霊を完全に表している。そうした働きから、神の霊がイエスの内にいることがわかるのだ。受肉した神の行った業は、主に新たな時代の到来を告げ、新たな働きを先導し、新たな状況を開くことであったが、これらのいくつかの条件だけでも、イエス自身が神であることを実証するのに充分である。…

『言葉は肉において現れる』の「受肉した神の職分と人間の本分の違い」より

このようなことを考察するのは難しいことではないが、わたしたちそれぞれにこの真理を知ることが要求される。受肉した神は神の本質を有し、受肉した神は神による表現を有する。神は人間の姿になるので、なすべき働きを打ち出し、神は人間の姿になるので、自分が何であるかを表して、人に真理をもたらし、人にいのちを与え、人に進むべき道を示すことができる。神の本質を含んでいない肉体が受肉した神ではないことは間違いなく、これについて疑う余地はない。受肉した神かどうか調べるためには、その人が表す性質や話す言葉からそれを決めなければならない。つまり、人間の姿になった神かどうか、それが真の道かどうかは、その人の本質から判断しなければならない。そこで、人間の姿になった神かどうかを決定するとき[a]、鍵となるのは、外見よりもむしろその人の本質(働き、言葉、性質、その他いろいろ)に注意を払うことである。外見だけを見て本質を見落とす者は、自分の無知、単純さをさらけ出すことになる。外見は本質を決定しない。その上、神の働きが人の観念と一致したことはこれまでにない。イエスの外見は人の観念とはまったく違っていたではないか。イエスの外見と衣服はイエスの真の正体に関し何らの手がかりも与えることができなかったのではないだろうか。古代のパリサイ人がイエスに反対したのは、彼らがイエスの外見を見ただけで、イエスの語る言葉を真剣に受け止めなかったからではないだろうか。神の出現を求める兄弟姉妹には歴史の悲劇を繰り返さないで欲しい。あなたがたは、現代のパリサイ人になって神を再び十字架につけるようなことをしてはならない。あなたがたは神の再来をどのように歓迎するか慎重に考え、真理に服従する人になるにはどうしたらよいか、はっきりした考えを持つべきである。これが、イエスが雲に乗って再臨するのを待っているすべての人の責任である。

『言葉は肉において現れる』の「序文」より

現在なされている働きは恵みの時代の働きを推し進めた。すなわち、六千年経営(救いの)計画全体における働きは前進した。恵みの時代は終わったが、神の働きはさらに前進している。なぜわたしは今の段階の働きは恵みの時代と律法の時代を基礎にしていると繰り返し言うのだろうか。これは、今日の働きは恵みの時代に行われた働きの延長であり、律法の時代に行われた働きを向上させたものであることを意味する。三つの段階は密接に相互関連しており、一つはその次の段階に繋がっている。なぜわたしは今の段階の働きはイエスによってなされた働きの上に築き上げられるとも言うのだろうか。この段階がイエスによってなされた働きの上に築き上げられなければ、キリストの磔刑、つまり過去に行われた贖いの働きはこの段階でなお実行されなければならない。だが、これは無意味なことであろう。従って、働きは完全に終わったのではなく、時代が前進し、働きは以前に比べていっそう高まったということである。今の段階の働きは律法の時代、および、イエスの働きの堅固な支えを基礎に置いて築かれるということができるだろう。働きは段階ごとに築かれ、今の段階は新しい始まりではない。三つの働きの段階の組み合わせのみを六千年にわたる経営(救いの)計画とみなすことができる。今の段階は恵みの時代の働きを基礎にして行われる。これら二つの働きの段階に関連がなければ、なぜ今の段階には磔刑がないのか。なぜわたしは人の罪を背負わないのか。わたしは聖霊による受胎により来るのではないし、人の罪を背負うために磔刑にされることもないだろう。むしろ、わたしは人を直接罰するためにここにいる。磔刑のあとわたしが人を罰しなければ、そして今わたしが聖霊による受胎を通して来るのでないならば、わたしは人を罰する資格がないだろう。わたしがイエスと一つなのであるからこそ、わたしは人を罰し、裁くために直接来るのだ。今の段階の働きは完全に過去の段階を基礎にしている。だからそのような働きだけが段階を追って人を救済に導くことができる。イエスとわたしは同じ霊から来ている。わたしたちの肉体には何の関連性もないが、わたしたちの霊は一つである。わたしたちがすることやわたしたちが担う働きは同じではないが、わたしたちは本質的に同じである。わたしたちの肉体の形は異なるが、これは時代の変化ならびにわたしたちの働きの必要性のためである。わたしたちの職分は同じではないので、わたしたちが作り出す働きや、わたしたちが人に明らかにする性質も異なっている。そういうわけで、今日人が見るものや受け取るものは過去のものと同じではない。それは時代の変化のためである。彼らの肉体の性や形は異なっているが、そして彼らは同じ家族から生まれたのではなく、ましてや同じ期間に生まれたのではないが、彼らの霊は一つである。彼らの肉体は血縁関係も物理的関係も決して共有していないが、それによって彼らが二つの異なる時期において受肉した神であることを否定することにはならない。彼らは同じ血統ではなく、共通する人間の言語を持っていないが(一人はユダヤ人の言語を話す男性であったし、もう一人は中国語しか話さない女性である)、彼らが受肉した神であることは否定できない真実である。これらの理由から、彼らは異なる国で、異なる期間になすべき働きを行う。彼らの霊は同じで、同じ本質を持っているという事実にも関わらず、彼らの肉体の外見には完全な類似性はまったくない。彼らは同じ人間性を共有しているだけで、彼らの肉体の外見と誕生は似ていない。これらのことはそれぞれの働きや、人が彼らに関して持つ認識に何の影響も与えない。なぜなら結局彼らは同じ霊であり、誰も彼らを分けることはできないからである。彼らには血縁関係はないが、存在全体は彼らの霊によって指示されているので、肉体は血統を共有しないままに、彼らは異なる期間に異なる働きを引き受けている。同様に、ヤーウェの霊はイエスの霊の父ではなく、イエスの霊もヤーウェの霊の子ではない。彼らは同じ霊である。今日の受肉した神とイエスと同様である。彼らに血縁関係はないが、彼らは一つである。これは彼らの霊が一つだからである。

『言葉は肉において現れる』の「二度の受肉受肉の意義を完成させる」より

脚注:

a.原文では「~かどうかに関しては」と書かれている。

信者はどのように神の声を区別し、それが真理の道であると確認するべきか。

神の御言葉による答え:

人の姿になった神の言葉は新しい時代を開始し、人類全体を導き、奥義を明らかにし、人に新しい時代に向かう方向を示す。人が獲得する啓示は単純な実践、あるいは認識にすぎず、人類全体を新しい時代に導くことはできないし、神自身の奥義を明らかにすることもできない。神は結局神であり、人は人である。神は神の本質を持っており、人は人の本質を持っている。

『言葉は肉において現れる』の「序文」より

恵みの時代、イエスもまた多くを語り、多くの業を為した。イエスはイザヤとはどう違っていたのだろうか。イエスはダニエルとどこが違っていたのか。イエス預言者だったのだろうか?何故彼はキリストだと言われるのだろう。彼らの間の違いとは何であろう。彼らは皆言葉を語ったが、彼らの言葉は、人間にはだいたい同じもののように思われた。彼らは皆語り、働きを行った。旧約の預言者は預言し、同様にイエスもそれができた。なぜそうなのか。ここでの違いは、働きの性質による。このことを識別するには、肉の性質を考慮することはできない。また、語られた言葉の表面的な深さ浅さを考察すべきではない。いつもまず、イエスの働きと、その働きが人間の内にもたらした成果を第一に考えなければいけない。当時イザヤによって告げられた預言は、人間にいのちを与えなかった。また、ダニエルのような人々の受け取った言葉は単なる預言であって、いのちの道ではなかった。ヤーウェの直接の啓示がなければ、誰一人その仕事ができなかっただろう。何故ならそれはただの人間には不可能なことだからだ。イエスもまた、多くを語ったが、その言葉はいのちの道で、そこから人間は実践の道を見出すことができた。つまり、第一に、イエスは人間にいのちを与えることができた。何故ならイエスはいのちだからだ。第二に、イエスは人間の逸脱したところを正常に戻すことができた。第三に、イエスの業はヤーウェの業をひき継ぎ、その時代を進めるものだった。第四に、イエスは人間の内なる必要を把握し、何が人間に欠けているのかを理解できた。最後に、イエスは古い時代を終わらせて、新しい時代を招き入れることができた。だから、彼は神、そしてキリストと呼ばれたのだ。イエスはイザヤだけではなく、他のすべての預言者とも異なっていた。比較のため、イザヤを例に預言者たちの働きをみてみよう。第一に、イザヤは人間にいのちを与えることができなかった。第二に、彼には新たな時代の先駆けとなることができなかった。イザヤはヤーウェに導かれて働いたのであって、新たな時代の到来を告げるためではなかった。第三に、彼の語ったことは、彼自身にも理解できないことだった。彼は神の霊から直接啓示を受けていたのだが、他の人々はそれを聞いても理解できなかった。これらの点をみただけでも、イザヤの言葉は預言にすぎなかったこと、ヤーウェのために行った働きの要素の一つでしかなかったことがわかる。しかしながら、イザヤは完全にヤーウェの代理となることはできなかった。彼はヤーウェのしもべで、ヤーウェの働きの道具であった。イザヤはただ律法の時代にヤーウェの働きの範囲内で働いていただけだ。イザヤは律法の時代以外では働かなかった。それに対して、イエスの働きは異なっていた。イエスはヤーウェの働きの範囲を超えていた。イエス受肉した神として働き、すべての人間を贖うために十字架につけられた。つまり、イエスはヤーウェの行った働きの範囲外で新たな働きを行ったのだ。それが新たな時代を招き入れたということだ。もう一つの点は、イエスは人間には達成することが不可能なことについて語ることができた。イエスの働きは神の救いの働きの計画に属するもので、全人類に関わるものだった。イエスはほんの数人のために働きかけたのではないし、その働きは限られた数の人間を導くものでもなかった。神がどのように受肉して人間になったか、聖霊が当時どのように啓示を与え、聖霊が働きを為すためにどのように人間の上に降臨したのか。こうしたことは人間には見ることも触れることもできないことだった。これらの事実が、イエス受肉した神であるという証拠になることは、まったくありえない。だから、人間にも具体的に理解できる神の言葉と働きにおいてのみ、判断できるのだ。これだけが現実的だ。何故なら、霊のことはあなたの目には見えず、神自身にだけはっきり知られているものだからであり、受肉した神でさえ、すべてを知っているわけではないのだ。イエスが神であるかどうかは、その働きによって確かめられるだけだ。その働きを見ると、まず、イエスは新たな時代を開いた。第二に、イエスは人間にいのちを与え、行くべき道を示すことができた。イエス自身が神であることを証拠立てるにはこれで充分なのだ。少なくとも、イエスの行う業は神の霊を完全に表している。そうした働きから、神の霊がイエスの内にいることがわかるのだ。受肉した神の行った業は、主に新たな時代の到来を告げ、新たな働きを先導し、新たな状況を開くことであったが、これらのいくつかの条件だけでも、イエス自身が神であることを実証するのに充分である。つまり、これがイエスがイザヤやダニエル、他の偉大な預言者たちとの違いである。

『言葉は肉において現れる』の「受肉した神の職分と人間の本分の違い」より

あなた方は神の働きと人の働きの区別の仕方を知らなければならない。あなたは人の働きから何を見ることができるか。人の働きの中には人の経験による要素がたくさんある。人が表すものは現在のその人そのものである。神自身の働きも現在の神そのものを表すが、現在の神は現在の人とは異なる。現在の人は人の経験や人生を表し(人生やその人が持つ人生哲学において人が経験したり、遭遇したりするもの)、異なる環境に住む人々は異なる存在を表す。あなたに社会的経験があるか否か、あなたが家族の中で実際どのように生活し、経験しているかはあなたが表すものの中に見ることができるが、あなたは肉となった神の働きから神に社会的経験があるか否か見ることはできない。神は人の本質を十分承知しており、あらゆる種類の人々に関連するあらゆる種類の行為を明らかにすることができる。神は人間の堕落した性質や反抗的行動を明らかにするのはなおさら得意である。神は世俗的な人々の中には住まわないが、人間の本性や世俗的人々の堕落のすべてを承知している。これこそが神である。神は世間を取り扱わないが、世間を取り扱う規則は知っている。なぜなら人間の本性を十分に理解しているからである。神は人の目では見ることのできず、人の耳では聞くことのできない聖霊の働きについて、現在のものも、過去のものも知っている。これには、人生哲学ではない知恵や、人々が推測するのは難しいと思う奇跡も含まれている。これが、人々に明らかにされており、また隠されてもいる神そのものである。神が表すものは、特別な人のことではなく、聖霊に本来備わっている特質と存在である。神は世界中を巡回しないが世界のすべてを知っている。神は知識も洞察力もない「類人猿」と接触するが、知識よりも高く、偉人を超えた言葉を述べる。神は、人間性を持たず、人間の慣習や生活を理解しない鈍感で頭の鈍い人々の集団の中で暮らすが、人類に通常の人間性のままに生きるよう要求し、同時に人類の卑劣で粗野な人間性を明らかにする。このすべてが、どの生身の人間そのものよりも高い神そのものである。神は、なさなければならない仕事をし、堕落した人間の本質を完全に明らかにするために、複雑で、扱いにくく、浅ましい社会生活を経験する必要はない。浅ましい社会生活は、神の肉を啓発しない。神の働きと言葉は人の不従順を明らかにするだけで、人に世界と取り組むための経験や教訓を与えはしない。神が人にいのちを与えるとき、社会や人の家族を調べる必要はない。人を暴き、裁くことは神の肉の経験の表現ではない。それは人の不従順を長いこと知り、人類の堕落を忌み嫌ったあと、人の不義を明らかにすることである。神が行う働きはすべて、神の性質を人に明らかにし、神の存在を表すことである。この働きができるのは神のみであり、生身の人が達成できることではない。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人の働き」より

サタンの教科書は私達の毒である

私と私の主人は、若い頃十分に勉強せず、何の知識も持ち合わせていなかったため「厳しい肉体労働」で人生を過ごしてきたといつも思っていました。ですから、どれだけ大変で、どれだけ苦しむことになろうとも、息子と娘達には何かを成し遂げ、私達と同じ道を歩まなくて済むよう、学校に通わせる決意しました。この決意をもとに、私と私の主人は質素な食事と服装をし、コツコツと貯金し、長女を専門学校へ、長男を大学へと送り出しました。しかし、私達にはあと2人子供がいました。この子達を大学へ通わせるために、主人は一度に何年も出稼ぎに行き、私も朝から晩まで畑仕事をしたり、家で豚の世話をしたりして働きました。飼育場での仕事で疲労が極限に達する度、私はいっそのこと辞めてしまいたいと感じました。しかし競争の激しい最近の世の中や、もし子供達を学校へ通わせなかった場合、この子達は将来、私のように泥まみれになって働き、何も達成できず、人々から見下されること、そして大学の入学試験に合格しなければ良い仕事を見つけたり、役人になったりすることができず、何の成功も収められず、理想の将来を手にすることもできず、そして私達に栄光をもたらすこともできなくなると考えました。そのとたんに、この苦しみと疲労感は耐え抜く価値があるように思いました。そして、私は毎日、朝起きてからずっと忙しく働いていたので、神の御言葉を飲食したり、普通の霊的な生活を送ったりする時間がとれないことが頻繁にありました。教会で普段通りの生活をしたり、本分を尽くしたりするために充てられる時間はもっと少なくなりました。しかし、私はつい最近、神の交流でこれらの神の御言葉を耳にするまでは、何も考えず、ただ子供達のためにあくせく働き続けました。「人々はみな自分の子供が成功することを願います。有名大学に行き、高度な研究に従事し、学位を取得し、その後注目される存在となって社会でしっかりとした地盤を築くことを願います。人々はみなこのような観点で考え、『学問を研究することは他のあらゆる追求に優る』という格言の通りに、自分たちの子供が高等教育を続けることを望みます。さらに、この現代社会における競争は激化しています。大学の学位がなかったり、社会にしっかりとした地盤を築くことができなかったりすれば、将来生活を成り立たせることは困難です。これは誰もが考えであり、見方です。……けれども、そのような教育を受けることで、あなたの子供たちにどれくらい毒になるものとサタンの考えや理論を植え付けられてしまうかを考えたことがあるでしょうか。……ある日あなたの子供たちが帰ってきた時に、あなたが子供達に神を信じることについて話すと、子供たちは嫌悪感を示すことになります。真理について話すならば、あなたが愚かであると子供たちは笑い、あざ笑います。その時あなたは思うでしょう、「ああ、子供たちにあんな学校に行かせて教育を受けさせたのは間違えだった。道を誤ったが、悔やんでももう遅い。」……神が要求する見方や考え方を子供たちがそのまま受け入れるように、また、神が求めるような人になるようにと子供たちを神の前に連れてくる親は一人もいません。人々はそのようなことを進んでしようとなど思わず、自分から決してしようとはしません。もしそのようなことをすれば、子供たちは生計を立てることはできず、将来的に社会で生きていけないとは深く恐れます。このような考え方が表わすのは何でしょうか。人々は真理や神に対する関心、信頼、さらには真の信仰もないことを示しています。人々の心が見上げているのはやはりこの世界で、心の中で崇拝するのはこの世であり、この世界を捨てたならば生き残れないと考えるのです。……このような考え方や見方が神に敵対しており、神を裏切り拒絶することであると人々に知らせ、真理と相容れないことを人々に知らせるためです。」(『キリストの言葉の記録』の「己を知るには心の奥深くに根付いた考えと観点を知ることが必要」より)。神の御言葉1つ1つが私の心に深く響きました。私達は、子供達が大学に行くことを望んで、何年も悲惨な思いをしながら貯金したり、つらい肉体労働をして苦労したり、全てを注ぎ込んできました。でもなぜでしょうか。それは、私が「他のことを追求する価値は小さい。学業が何よりも大切なのだ」というサタンの言葉が生き抜くためのルールだと信じ込んでいたためです。サタンの毒に犯されていた私は、知識を得ることを最優先し、知識を持つ人のみが他から抜きん出て、成功を収め、将来を手にし、世の中で地位を獲得することができるのだと考えていました。学歴のない人々は軽蔑に値する下層階級に属し、最低な人間だと思っていました。だからこそ、子供達が世の中で成功を収め、「厳しい肉体労働」に追われるような生活を確実に避けられるよう、私は出来る限りのことをして子供達を学校に通わせ、高等教育を受けさせました。私は、何年もの間、この目標を心の中で何よりも優先し、その間、神の御言葉、私の本分、そして私自身が救われることを心の奥底に葬っていました。私はサタンの毒にひどく犯されていました!私がこれほどの犠牲を払ってまで子供達を学校に通わせた一番の理由は、私自身が若かった時に十分勉強していなかったことを悔やんでいたからです。だから、私が実現できなかった夢を代わりに果たしてほしく、子供達に希望を託しました。私は、何十年にも渡り、知識というたった1つのものだけを追い求めて努力し続け、それに気が付く事すらありませんでした。何年もの間、神に従い生きてきたにもかかわらず、私は依然として真理を得ておらず、私の観点にも何の変化も起きていませんでした。依然として私が崇拝するのは知識であり、サタンを渇望し、頼りにしているのです。私は未だに世俗的な傾向に流され、神に抵抗する不信者です!

神の御言葉で、サタンは勉強することの重要性を巧みに利用して人々を騙し、教育を受けさせ、サタンの毒と思想を心に受け入れさせているということも解りました。一旦この毒に犯された人々は、神を否定し、神に抵抗する無神論者の考えや虚偽に完全に支配されてしまいます。サタンはこのような形で人々を堕落させ、騙していきます。サタンの策略を見破ることができなかった私は、子供達をどのようにして神の前に導くか、どのようにして神の真理を受け止めさせるか、そしてどのようにして神の要件に従って生きさせるかということを全く考慮せず、期待を胸に子供達をサタンの教育に送り出し、悪の手に引き渡していたのです。最近、私の息子が名門大学を卒業しました。彼が実家に戻った際、多くの知識を学んできたはずの息子が完全に死の道を歩んでしまっていることが分かりました。私が神に対する信仰について話すと、息子はありとあらゆる科学知識と理論をひけらかして私に反論するのです。息子は、私は教養がなく、無知で、愚鈍であると言いました。詐欺に遭わないように気を付けて、迷信でなく、科学を信じるべきだとまで言いました。……私は後悔した時に初めて、高等教育を受けさせるために子供達を送り出したのは間違いだったと気付きました。現実を目にした私は世俗的な文化や知識は全て神の教えに反するものであり、真理とは正反対なものであることがやっと理解できました。これらはサタンが人々を堕落させ、支配するために用いる道具に過ぎません。人々は教育レベルが高ければ高いほど、より多くの知識を持ち、サタンの毒が心の中でさらに広がり、神からもっと離れ、神のより大きな敵となり、そして神のお救いを受けることがより困難となります。本を読めば読むほど、知識が増え、神に対する抵抗が深まると言っても過言ではないでしょう。知識はとても危険なものです!

神のお啓示により、「他のことを追求する価値は小さい。学業が何よりも大切なのだ」という言葉は、サタンによる虚偽であり、サタンが人々を欺き、誤解させ、堕落させるために利用する嘘の1つだと理解することができました。私はさらに、自分の子供達をサタンの学校に送り出すことは、自分の子供達を死の底や地獄の炎に突き飛ばしているのと同じことだったと理解することもできました。神よ、私はもうサタンの計略の手下として働きたくありません。私は真理を求め、私自身の間違った観点を改めたいと思っています。神の御言葉を私の存在の土台とし、私の下の子供二人が神のお救いを受け、なるべき人へと成長できるように、神の前にお連れしたいと思います。

湖北省咸寧市 配合