東方閃電-小羊の足跡に従っていくこと

東方閃電全能神教会は世界に”神様が帰ってきた”ことを公に証ししています。彼は再臨の主イエスです。神様の羊は神様の声を聞き分けます。多くの真理を渇仰する人は、東方閃電全能神教会を考察します。

神の心に従う人とは正確には何か。神への信仰の真の証とは何か。

参照聖書箇所

「このときヨブは起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝し、そして言った、『わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな』。」(ヨブ記 1:20-21)

「神は言われた、『あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい』…そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした時、」(創世記 22:2、10)

「彼らは、女にふれたことのない者である。彼らは、純潔な者である。そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。彼らは、神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者である。彼らの口には偽りがなく、彼らは傷のない者であった。」(ヨハネの黙示録 14:4-5)

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関連する神の言葉

「イエスが神の任務――全人類を贖う業――を完了することができたのは、イエスが神の心に全ての注意を払い、彼には個人的な計画や思慮がなかったからである。だからイエスも神と心を一つにする者であった――神自身であった。それは、あなたたち皆がとてもよく理解しているとおりである。(実際、イエスは神によって証しされた神自身であった。わたしがこのことをここで述べるのは、イエスに関する事実を取り上げてこの問題を例証するためである。)イエスは神の経営(救いの)計画を全ての中心に置くことができ、いつも天の父に祈り、天の父の心を求めた。イエスは祈り、次のように語った。『父なる神よ。あなたの心にかなうことを成し遂げたまえ。わたしの思うようにではなく、あなたの計画によってことを為したまえ。人は弱いかもしれないが、なぜあなたは人のことを気遣うのですか。あなたの手の中では蟻のような人間が、どうしてあなたの配慮の対象になれるのでしょうか。わたしが心の中で願うのは、あなたの心を成就することだけです。わたしの望みは、あなたがわたしの内で行なう業を、あなたが自らの意図にしたがって為すことです。』エルサレムへ向かう途上、イエスは苦悶して、あたかもナイフが心の中で捻じ曲げられているかのように感じたが、神の言葉に背く思いは微塵もなかった。いつも強い力がイエス磔刑の場所に向かって突き進ませた。最終的に、イエスは十字架に釘付けにされ、罪深い肉と同様になり、人類を贖う働きを完了し、死と黄泉の束縛を克服した。イエスの前に、死も、地獄もハデスも力を失い、イエスによって打ち負かされた。イエスは三十三年生きたが、生涯を通して彼はいつも全力を尽くし、その時の神の働きに従って神の心を全うした。決して自分の個人的損得は考慮せず、いつも父なる神の心のことを思った。従ってイエスが洗礼を受けた後、神は次のように語った。『これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。』イエスの神に対する奉仕は神の心にかなうものだったので、神はイエスの肩に全人類を贖うという大きな重荷を負わせ、それを成し遂げるためにイエスをつかわし前進させた。そして、イエスにはこの重要な任務を完成する資格と権限があった。」

『言葉は肉において現れる』の「神の心にかなう奉仕とは」より

 「神に仕える者は、神と心を一つにする者でなければならず、神に愛されており、神に最大限の忠誠を示すことができなければならない。人々の後ろで行動しようと、前で行動しようと、あなたは神の前で神を喜ばすことができ、神の前ではしっかり立つことができる。また、他の人々があなたをどのように扱おうとも、あなたはいつも自分の道を歩み、神の重荷に一心に注意を払う。こういう者だけが神と心を一つにする者なのだ。神に親しい者が直接神に仕えることできるのは、彼らが神から重大な任務や重荷を与えられているからである。彼らは神の心を自分の心とし、神の重荷を自分の重荷とすることができ、将来の展望を得るか、失うかなど一切考慮しない。将来の展望が何もなく、何も得るものがない時でさえ、彼らは常に愛に溢れる心で神を信じるだろう。そこでこのような人は神と心を一つとする者なのである。神と心を一つにする者は神の腹心でもある。神の腹心だけが、神の絶え間ない憂慮や神の願いを共有することができる。彼らの肉体は弱く、苦痛を味わうが、彼らは痛みに耐え、神を満足させるために、自分の愛するものを断念することができる。神はそのような人々にさらなる重荷を与え、神がしようとすることはこれらの人々を通して表現される。従って、これらの人々は神に愛され、神自身の心に適った神の僕である。そして、このような人々だけが神と共に統治することができる。」

『言葉は肉において現れる』の「神の心にかなう奉仕とは」より

「神の意志を本当に実行する者は、神の裁き、刑罰、試練のただ中でも心の奥深くから讃美に溢れ、完全に神に従い、自我を捨て去り、こうして誠実で純粋な心を一つにして神を愛することが出来る。こういう人こそが完全にされた者である。またそれは、神が行いたいと願い、達成することを望んでいる業でもある。」

『言葉は肉において現れる』の「神の業の段階について」より

「ペテロは、神を信じる中で、全てにおいて神を満足させること、そして神から来るもの全てに従うことを追い求めた。そしてペテロは不平一つ言わず、刑罰や裁きと同様に、精錬、苦難と生活上の欠乏も受け入れ、そのいずれも彼の神への愛を変えることはなかった。これこそ神への究極の愛ではないだろうか。これこそ被造物の本分を尽くすということではないだろうか。刑罰、裁き、試練――これらの中にあっても、死に至るまで従順であることができ、そしてこれこそが、被造物が達成すべきことであり、純粋な神への愛である。仮に人がここまで達成できたのなら、その人は被造物としての資質があるということであり、これ以上創造主の満足を得られることはないであろう。」

『言葉は肉において現れる』の「成功するかどうかはその人の歩む道にかかっている」より

「ペテロの名を聞くと、誰もがみな、たたえの心に満ち、…彼はわたしの言葉を飲み食べるだけではなく、わたしの意図するところを把握しようと注意を払った。そして、常に思慮深く、慎重に考えた。だから、彼はいつでも霊が敏感で、その行いのすべてにおいて、わたしの心に適うようにすることができたのだ。ふだんの生活では、失敗の網にかかるようなことを深く恐れ、過去に失敗した人々の教訓を元に、より大きな働きができるよう、自らを励ました。ペテロはまた、遠い昔から神を愛した人々すべての信仰と愛から学んだ。このようにして、ペテロはどのような状況からも学び、急速に成長し、わたしの前で最もよくわたしを知る者となったのだ。このため、想像に難くないことだが、彼は所有物をすべてわたしの手に託し、もはや食べること、着ること、眠ること、どこに宿るかにおいてさえ、自分の主人であることをやめ、あらゆる点においてわたしを満足させ、それによってわたしの恵みを豊かに得たのである。まことに、わたしは何度もペテロを試した。もちろん彼は死にかけたのだが、そうした何百もの試練の中にあっても、彼は一度たりとわたしへの信仰を失ったり、わたしに失望したりしなかった。わたしがもう彼を捨て去ったと告げた時でさえ、ペテロの心が弱ってしまったり、絶望してしまったりすることなく、それまでと同じように、わたしへの愛を実現するため、自分の信じることを続けた。…わたしの前で忠実であったため、また、わたしの与えた恵みのゆえに、ペテロは数千年もの間、人類のための手本、見習うべき者となったのだ。」

『言葉は肉において現れる』第一部「全宇宙に向かって語った神の言葉」の「六番目の言葉」より

「最初に試練にあったヨブは彼の財産と子ども達を失ったが、ヨブはそれによって躓くことも神に対して言葉で罪を犯すこともなかった。ヨブはサタンの誘惑に勝利し、物質的財産と子孫に勝利し、世的な財産を失うという試練に勝利した。それはつまり、ヨブは神が彼から取ることに従い、そのことに感謝し、神を讃美することができたということである。それがサタンの最初の誘惑に対するヨブの振る舞いであり、それはまた、神の最初の試練におけるヨブの証しでもある。2度目の試練では、サタンはその手を伸ばしてヨブを苦しめた。ヨブは経験したことのない痛みに苦しむが、それでもヨブの証しは人々を驚かせるほどのものだった。ヨブはその不屈の精神、強い信念、神への従順、そして神への畏れにより、再びサタンに勝利した。ヨブの態度と証しはまたしても神に認められ、喜ばれた。この試練の間、ヨブはサタンに対し、肉の痛みが神への信仰と従順を揺るがすことはなく、神に対する献身と畏れを奪うことはできないということをその態度により表明している。彼は死に直面したからといって、神を放棄したり、自身の完全さと正しさを捨てたりはしない。ヨブの決意はサタンを弱腰にし、ヨブの信仰はサタンを怯えさせ震えさせた。サタンとの生死をかけた戦いにより、サタンの中の強い憎しみと恨みが膨らみ、ヨブの完全さと義の前にサタンは為す術もなく、ヨブへの攻撃を止め、ヤーウェ神の前でヨブを告発することを諦めたのである。これが意味するところは、ヨブが世に打ち勝ち、肉に打ち勝ち、サタンに打ち勝ち、そして死に勝ったということである。ヨブは正に、完全に神に属する人であった。この2度の試みの間、ヨブは自らの証に固く立ち、その完全さと正しさを生き通し、神を畏れ悪を避けるという生きる上での原則の適用範囲を広げた。ふたつの試練を通ったヨブは更に経験豊かになり、成熟し、鍛えられた。ヨブはそれまで以上に強くなり、更に強い確認に立ち、自身が手放さずに来た義と誠実さは更に確固たるものとなった。ヤーウェ神によるヨブへの試練はヨブに神の人間への配慮に対する深い理解と実感を与え、神の愛の尊さを理解させた。その結果ヨブは、神に対する畏れに加えて、思いやりと愛を持つようになったのである。ヤーウェ神による試みは、ヨブをヤーウェ神から遠ざけなかったばかりか、ヨブの心を神に近づけた。ヨブの肉の痛みが頂点に達した時、ヤーウェ神のヨブに対する労りを感じたヨブは、自分の生まれた日を呪うしかなかった。ヨブのこのような振る舞いは長期計画によるものではなく、神への配慮と愛の自然な表現であり、神への配慮と愛によるものである。つまり、ヨブは自身を嫌ったため、神を苦しめることを望まず、神を苦しめることに耐えられなかった。ゆえに、ヨブの配慮と愛は無私のレベルに達したのである。この時ヨブの長年の神への愛と神を切望する思い、そして献身の思いは、配慮と愛というレベルへ引き上げられたのである。同時に、ヨブの信仰と従順、そして神への畏れも、配慮と愛というレベルへ引き上げられた。ヨブは神にとって痛みの原因になり得ることは一切せず、神を傷つけることは一切せず、神にとって悲しみ、嘆き、さらには不幸の原因とはなるまいとした。神の目には以前と同じヨブであったが、ヨブの信仰、従順、神への畏れは神にとって満足するもので、喜びとなった。この時、神がヨブに対して期待した完全性をヨブは獲得し、神の目から見て、「完全であり義である」と呼ばれるに相応しい者となった。ヨブの義なる行いによりサタンに勝利し、神の証しに堅く立つものとなった。そうしてヨブの義の行いは彼を完全にし、完璧にし、いのちの価値を引き上げさせ、これまでにはなかった高みに登らせ、二度とサタンによる攻撃や誘惑を受けない最初の人物とさせた。ヨブはその義の故にサタンに責められ、誘惑された。義の故に、サタンに渡された。そして義の故に、サタンに勝利し、サタンを打ち倒し、堅く証しに立った。そのようにして、ヨブは二度とサタンの手に渡されることのない最初の人となり、真に神の座の前に出た。そして神の祝福の中で、サタンの監視も破滅もなく、神の目には真の人となった――自由になったのだ。」

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身2」より

「あなたは、自分はすでに征服されていると言うかもしれないが、死に至るまで服従できるだろうか。あなたは、自分の将来性があるかどうかにかかわらず、最後まで従うことができなければならない。また、まわりの状況に関わらず、神への信仰を失ってはならない。最終的に、あなたは証しにおける二つの側面を達成しなければならない。ヨブの証し──すなわち死に至るまでの従順──そして、ペテロの証し──神への至上の愛だ。ある意味で、あなたはヨブのようでなければならない。ヨブは物質的なものを何も持っておらず、肉の痛みに苦しめられたが、それでもヤーウェの名を捨てなかった。これがヨブの証しだった。ペテロは死に至るまで神を愛することができた。ペテロが死んだとき──つまり十字架につけられたとき──彼はなおも神を愛していた。彼は自分の前途のことを思わず、輝かしい願いや途方もなく贅沢な思いを追い求めなかった。そして、ひたすら神を愛し、神のはからいのすべてに従うことだけを求めた。あなたが証しをしたと見なされることができる前に、また、征服された後で完全にされた者になる前に、あなたはこのような水準に達しなければならない。」

『言葉は肉において現れる』の「征服の働きの内なる真実(2)」より

「真の証とは、正確に言うと、何であろうか。ここで言う証には2つの部分がある。ひとつは征服されたことに関する証であり、もうひとつは完全にされたことの証(すなわち、それは必然的に、今後の一層大きな試練と、苦難の後の証)である。つまり、あなたが苦難や試練の時に揺るぎなく耐えることが出来るのであれば、あなたは証の第2段階に立ったことになる。現在重要なのは、証の第1段階、すなわち罰と裁きの試練全てにおいて揺るぎなく耐えることである。これが征服されることの証である。なぜなら、現在は征服の時だからである。(現在は神の地上における業の時であることを、あなたは知るべきである。受肉した神の地上における業は、裁きと罰の使用により神に付き従う人間の集団を征服することである。)あなたが征服された証を行うことが出来るかどうかは、あなたが最後まで付き従うことが出来るかどうかだけでなく、更に重要な条件として、あなたが神の業の各段階を経験する時に、この業の刑罰と裁きに関する真の認識を得ることが出来るかどうか、あなたが真にその業の全てを知っているかどうかによる。もたもたしながらでも最後まで付き従えば、なんとかなる、というわけではない。あなたは、あらゆる刑罰と裁きにおいて自ら進んで委ねることができ、自分が経験する業の各段階を知ることができ、神の性質に関する認識を持ち、それに服従できなければならない。これがあなたに要求される、征服されることの究極の証である。征服されることの証は、おもに神の受肉に関する認識を指す。重要な事として、証のこの段階は、神の受肉に関するものである。この世の人々や権力を振りかざす者の前で何をするか何を言うかは問題ではない。何よりも問題となるのは、神が述べた言葉と神の業全てに従うことが出来るかどうかである。したがって、証のこの段階は、サタンと神のすべての敵を対象とする。つまり、神が2度目の受肉を行い、一層大いなる業を行うために来ることを信じず、神の再受肉という事実を信じない全ての悪魔と敵を対象とする。つまり、それは神の受肉を信じない敵である反キリスト者全員を対象とする。

…………

終わりの日の証は、あなたが完全にされることが可能であるかどうかにある。つまり、最後の証は、あなたが肉にある神が述べた言葉を全て受け容れ、神に関する認識を備え、神に関して確信した上で、神が述べた言葉全てを行動で示し、神が自分に求める条件を満たすことである。それはペテロの生き方とヨブの信仰を持つことであり、死に至るまで神に従い、自分の全てを神に捧げ、最終的に基準を満たす人間像、つまり、征服され、罰と裁きを受け、完全にされた者の人間像に到達することである。これが、最終的に完全にされた人間が持つべき証である。」

『言葉は肉において現れる』の「実践(4)」より

「神の明白な証しに立つことは、実践の神に関する認識があるか如何、そしてその平凡であるだけでなく普通の人物の前に従い、今後も死ぬまで従い続けられるか如何に専ら関連する。この従順さによって真に神の証しに立つならば、それはあなたが神により得られたことを意味する。死ぬまで従い、神の前で不満がなく、批判したり中傷したりせず、観念を抱かず、その他いかなる意図ももたないことにより、神は栄光を得るであろう。人々により蔑まれている普通の人物の前における従順さと、死ぬまで観念を抱かずに従うことが出来ることが、真の証しである。神が人間に対して入るよう要求する現実とは、あなたが神の言葉に従い、神の言葉を実践し、実際の神に服従し、自らの堕落を知り、神の前で自らの心を開き、最終的には神の言葉によって神に得られることが出来ることである。神は、そうした言葉があなたを征服し、あなたを完全に神に対して従順にする時、栄光を得る。それによって神はサタンを辱め、神の働きを完了する。」

『言葉は肉において現れる』の「神の実際性に絶対的に服従できる者は真に神を愛する者である」より

「あなたは、神がどのようにして自分を精錬するかを問わず、完全に確信し、神への確信を決して失ってはならない。あなたは人間がすべき事をしなければならない。それが、神が人間に要求している事であり、人の心は、いかなる時も完全に神へと戻り、神へと向かわねばならない。それが勝者である。神が勝者と呼ぶ者は、サタンの影響下に置かれ、サタンに包囲された時、つまり闇の軍勢の中にいる時でも、神の証しに立ち、神への確信と献身を維持できる者である。何があっても、あなたが依然として純真な心と神に対する真実の愛を維持できるのであれば、それは、あなたが神の前で証しに立っているということであり、それは神が言うところの勝者となることである。」

『言葉は肉において現れる』の「あなたがたは自らを神に捧げ続けなければならない」より

「神が人々に対して行う働きのあらゆる段階で、物事があたかも人の手配で生まれたかのようであり、あるいは人の干渉から生まれたかのようであり、外面的には人々の間の相互作用のように見えるかもしれないが、舞台裏では、働きのあらゆる段階、起こるすべてのことは、神の面前でサタンが作った賭けの対象であり、人々は、神に対する証しにしっかりと立つことが要求される。ヨブが試練に会った時のことを例にとってみよう。秘かにサタンは神と賭けをしており、ヨブに起こったことは人間の行為であり、人間による干渉であった。神があなたに対して行うすべての段階の背後にはサタンと神との賭けがある――その背後にはすべて戦いがある。例えば、あなたが兄弟姉妹に対して偏見を持っているなら、あなたには言いたい言葉――神にとって不愉快かもしれないとあなたが感じる言葉―― があるだろうが、心の中ではあなたにとって言わずにいるのは難しいことである。そしてこの時、あなたの心の中には戦いが始まる。私は話すべきか否か。これは戦いである。従って、すべての中に戦いがあり、あなたの心の中に戦いがある時、あなたの実際の協力と実際の苦しみのおかげで、神はあなたの中で働く。結局、心の中であなたは問題を脇にどけておくことができ、怒りは当然消滅する。それが、あなたが神に協力した結果である。あなたが行うすべてはあなたが一定の代償を努力で支払うことを要求する。実際の困難がなければ、あなたは神も満足してもらうことはできないし、神に満足してもらうことに近づくことさえなく、それらは空虚なスローガンに過ぎなくなる。これらの空虚なスローガンは神に満足してもらうことができるだろうか。神とサタンが霊的領域で戦う時、あなたは神に満足してもらうためにどうすべきか、どのように固く証しに立つべきだろうか。あなたは自分に起こることのすべては大いなる試練であり、その試練の時に神があなたの証しを必要とすることを知るべきである。外面的には大したことではないように見えるかもしれないが、これらのことが起こると、あなたが神を愛しているかどうかが示される。愛していれば、あなたは神への証しに固く立つことができるが、神への愛を実践に移さなければ、これはあなたが真理を実践しない人であること、あなたには真理もなくいのちもないこと、あなたは無用の物であることが示される。人々にすべてが起こるのは、彼らが神に対する証しに固く立つことを神が必要とする時である。当面、あなたには重要なことは何も起こっていないし、あなたは重大な証しはしていないが、あなたの毎日の生活の詳細はすべて神への証しに関連している。あなたが兄弟姉妹、あなたの家族、あなたの周囲のすべての人から称賛を得られたら、また、いつか不信心者が来て、あなたの行うことのすべてを称賛し、神の行うすべては素晴らしいことがわかったら、その時、あなたは証しをしたことになるのである。あなたには洞察力がないし、能力は乏しいが、神があなたを全き者とすることによって、あなたは神に満足してもらうことができ、神の心に留意することができる。他の人々は、最も能力の乏しい人々に神がとても偉大な働きを行ったことがわかるだろう。人々は神を知るようになり、サタンの前で克服者になり、ある程度神に忠実になる。この一群の人々ほど気骨を持っている人はいないだろう。これが最大の証しである。」

『言葉は肉において現れる』の「神を愛することだけが本当に神を信じることである」より

「あなたは、最終的にどんな証しをすることを求められるのだろう。あなたは汚れの地に住んでいるが、聖くなることができ、もはや汚れておらず、不純なものもなくなる。あなたはサタンの支配下に住んでいるが、サタンの影響から脱け出すのだ。もはやサタンに所有され、悩まされることもなく、全能者の手の中で生きる。これがその証しであり、サタンとの戦いに勝利した証拠である。あなたはサタンを捨てることができる。あなたが生きて実現したことは、サタンを明らかにするのではなく、神が人間を創造したとき、人間が達成するよう求めたものを明らかにする。すなわち、普通の人間性、普通の理知、普通の見識、神を愛そうという普通の意思、そして神への忠誠だ。これこそが神の創造物が為す証しである。あなたは言う。『私たちは汚れの地に住んでいるが、神の守りの故に、神の導きの故に、また、神が私たちを征服した故に、サタンの影響を振り払った。私たちが今日従えるのもまた、神に征服されたことの効果であり、これは私たちが良いからではなく、また、私たちが自然に神を愛したからでもない。私たちが今日征服されており、神について証しでき、神に仕えられるのは、神が私たちを選び、私たちを予め定めたからである。また、神が私たちを選び、私たちを守ったから、私たちは救われ、サタンの支配から助け出され、赤い大きな竜の国にあって、汚れを捨てて清められることができるのだ。』さらに、あなたが生きて外部に現すものが、あなたが普通の人間性をもっていることを示す。また、あなたの言うことには理知があり、あなたは本来の人間のようになる。他の人々があなたを見たとき、『これは赤い大きな竜の姿ではないのか。』とは言わないだろう。姉妹の振る舞いは姉妹にふさわしくない、兄弟の振る舞いは兄弟にふさわしくない。それに、彼らには聖徒らしい礼儀作法がまるでない。他の人々は『神が、あの人たちはモアブの子孫だと言ったのは、もっともだ。神が言ったことは、全部ほんとうだったのだ。』と言うはずだ。もし人々があなたたちを見て『神はあなたたちはモアブの子孫だとおっしゃるが、あなたたちの生き方は、あなたたちがサタンの影響を振り切ったことを証ししている。あれらのものはまだあなたたちの内にあるけれど、あなたたちはそれに背を向けることができる。』と言うなら、それは、あなたたちが完全に征服されたことを示している。征服され救われたあなたたちは、こう言うだろう。『私たちがモアブの子孫であるというのはほんとうだが、私たちは神に救われたのだ。モアブの子孫はかつては捨てられ、呪われ、イスラエル人に異邦人の間に追放されたけれども、今日、神は私たちを救ってくださった。私たちが、すべての人々の中で最も堕落していた者であるのは本当だ──それは神の掟、事実であり、誰にも否定できない。しかし、今日、私たちはその影響を逃れた。私たちは、私たちの祖先を忌み嫌っている。私たちは自ら進んで祖先に背を向け、彼らを完全に放棄して、神のすべての秩序に従い、神の意志に沿って行動し、神が私たちに要求することを実現し、神の心を満足させることを達成する。モアブは神を裏切った。彼は神の意志によって行動しなかった。そして彼は神に憎まれた。しかし、私たちは神の心を思い、今日、神の心を理解しているので、私たちは神を裏切ることができない。そして、私たちはかつての祖先を捨てなければならない。』」

『言葉は肉において現れる』の「征服の働きの内なる真実(2)」より

「人々の内で神がいのちになるやいなや、神を離れることはできなくなる。それは神の業ではないのだろうか。これ以上の証しはない。神は一定のところまで働いた。神は人々に、仕えよ、罰を受けよ、あるいは死ねと言ったが、人々は退いていない。このことは、そうした人々が神に征服されていることを示している。真理を持っている人々は、実体験から証しに固く立つことができ、その信仰的立場をしっかりと守り、神の側に立ち、決して退くことがなく、神を愛する他の人々と正常な関係を持つことができ、自分達に何かが起こった時は、完全に神に従い、そして死にまでも神に従う。日々の生活におけるあなたの実践と表現は神への証しであり、教えを実践することであり、神への証しなのであり、それが真に神の愛を享受しているということなのだ。この点まで経験を重ねてくると、その経験は成果を生み出すようになる。真に神の愛を見た者は、教えを実践している者であり、その行いがみな他の人々から賞賛の目で見られ、外見は凡庸であっても、最上の敬虔な生き方をしているのであり、神の言葉を交わり、神に導かれ、神の啓示を受け、自分の言葉で神の心を語ることができ、現実的なことを語ることができ、霊において奉仕することを深く理解し、自然と語り、礼儀正しく高潔で、争うことがなく、品があって、何か起こった場合には、神の按配に従うことができ、証しに固く立つことができ、また、どんな場合にも穏やかで落ち着いていられる。また、まだ若くとも、年配の人のように振る舞う人々もいる。そうした人は成熟しており、真理を把握していて、他の人々から尊敬を受ける。そうした人々は、証しをすることができ、神の存在を示すことができる。それはつまり、ある程度の経験を積むと、心の中に神について理解力が養われ、そこで、外に現れる性質もまた、安定するのだ。」

『言葉は肉において現れる』の「神を愛する者たちは永遠に神の光の中に生きる」より

「人間に対する神の不変の施しと支えの働きの間、神は自身の心全体と要求を人間に示し、自身の業、性質、そして神であることの全てを示す。神に付き従う中で、人間に必要な身丈にまでさせ、神の幾つもの真理を得ることができるようにすることがその目的である。その真理とは、神により人間に与えられた武器であり、それによりサタンと戦うことができる。これらのものが備わったならば、人は神の試みに直面しなければならない。神は人間を試すための多くの手段や道を持っているが、どれも神の敵であるサタンの『協力』が必要となる。つまり、サタンと戦うための武器を人に与えた後、神は人をサタンの手に渡し、サタンが人の身丈を『試す』ことを許可する。人間がサタンの編隊から脱出できるならば、サタンの包囲網から抜け出して生きていられるならば、試験に合格したということである。だがもしサタンの編隊を離れることに失敗し、サタンに服従してしまうのであれば、試験に合格しなかったということである。神が人間を試す時、それがどのような側面をみるのであれ、神の基準はサタンの攻撃に対して人間がしっかりと証しに立っていられるかどうか、そして、サタンに誘惑されている間に神に背き、サタンに降伏して服従してしまうかどうかである。人間が救われるかどうかは、サタンに勝利してサタンを打ち倒せるかにかかっており、自由を獲得できるかどうかはその人間が神に与えられた武器を自ら取り上げてサタンの束縛から自らを解き放ち、サタンが完全に希望を失ってそれ以上攻撃しなくなるかどうかにかかっている。サタンが希望を失い、ある人を手放すのは、サタンは二度とその人を神から奪おうとはしない、二度と非難したり、妨害したり、気まぐれに苦しめたり攻撃したりしないという意味である。サタンをそのような状況に追い込むことができる人だけが、真に神のものとされるのである。神が人を自身のものとする過程はこのようなものである。」

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身2」より

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