東方閃電-小羊の足跡に従っていくこと

東方閃電全能神教会は世界に”神様が帰ってきた”ことを公に証ししています。彼は再臨の主イエスです。神様の羊は神様の声を聞き分けます。多くの真理を渇仰する人は、東方閃電全能神教会を考察します。

日々の神の御言葉「ペテロはどのようにしてイエスを知るようになったか」抜粋522

    今、ペテロがどんな道を歩んだのかあなたは明確に見ることができるはずである。もしこれがはっきり見えたら、今日なされている働きに確信を得ることができ、あなたは不満を言ったり、消極的になったり、何かを待ち焦がれたりすることもないだろう。あなたは当時のペテロの気持ちを経験すべきである。彼は悲しみに打ちひしがれ、もはや未来も祝福も求めることはなかった。彼は利益、幸福、名声、世の富を求めることはせず、最も意義のある人生を生きることだけ求めた。それは神の愛に答え、彼にとって最も貴重なものを神に捧げることであった。そうすることで、彼の心は満たされた。ペテロはしばしば「主イエス・キリスト様、私はかつてあなたを愛していましたが、本当には愛してはいませんでした。私はあなたを信じていると言いましたが、私は決して真の心であなたを愛してはいませんでした。私はあなたを見上げ、敬愛し、お会いしたいと思いましたが、あなたを愛していたのでもなく、心からあなたに信仰を持っていたのでもありませんでした。」とイエスに祈った。彼は常に決意をするために祈り、絶えずイエスの言葉によって励まされ、それらの言葉を動機へと変えたのである。いくつかの事を経験したのち、イエスはペテロがイエスをもっと慕うようにと、あえてペテロを試した。ペテロは「主イエス・キリスト様、私はどんなにかあなたと一緒にいたいと願い、あなたを見上げる時を待ち焦がれていることでしょう。私には余りにたくさん欠けた所があり、あなたの愛に答えるに相応しいものではありません。私を早く取り除いてくれるよう切にお願いします。あなたはいつ私が必要でしょうか。あなたは私をいつ取り除いてくださるのでしょうか。私はいつもう一度あなたの御顔を拝することができるでしょうか。この体でこのまま生き、堕落し続けることを望んではいません。これ以上反抗することも望んではいません。できるだけ早く私が持っている全ての物をあなたに捧げる用意ができていますし、あなたをこれ以上悲しませたくありません。」とペテロは言った。ペテロはこのように祈ったが、その時はイエスが彼の中で何を完全にするのか、まだ分からなかった。彼が試みの中で苦しんでいる間、イエスは彼に再び現れ「ペテロよ、わたしはあなたを完全にしたいと思っている。わたしがあなたを完全なものとし、わたしの働きの結晶として、あなたが一つの実になり、わたしが喜ぶものとなるためである。あなたは本当にわたしの証しとなることができるのか。わたしがあなたに願ったことをあなたはしたのか。わたしが語った言葉をあなたは生きてきたのか。あなたはかつてわたしを愛した。あなたはわたしを愛したけれど、わたしを生き抜いたのか。わたしのために何をしてくれたか。あなたはわたしの愛にふさわしくないと思っているのが、わたしのために何をしてくれたのか。」と言った。ペテロはイエスのために何もしてこなかったことが分かり、神に自身のいのちを捧げるという以前の誓いを思い出した。それから、彼はもはや不平不満を言わず、その後の彼の祈りは更にもっと素晴らしくなった。ペテロは「主イエス・キリスト様、私はかつてあなたから去りましたが、あなたも私から去られました。私たちはともに離れて過ごしたり、いっしょに過ごしたりしてきました。でも、あなたは他の何よりも私を愛してくださいました。私はあなたに何度となく反抗し、あなたを悲しませました。そのようなことをどうして忘れることができましょう。あなたが私の中で行われた働き、私をいつも信じてくださったことなど私はいつも覚えており、決して忘れることはありません。あなたが私にしてくださった働きで持って、私は最善を尽くします。あなたは私ができることを御存知で、私の役目ももっとご存知です。あなたの願いは私の指令で、私はあなたに持っているもの全てを捧げます。私があなたにできることはあなただけが御存知です。サタンは私をずいぶん欺き、私はあなたに反抗したけれども、あなたはこのような罪を犯した私を覚えておられず、それを基準に私を取り扱われないと信じています。あなたに私の全人生を捧げたいです。私は何も求めませんし、他の望みも計画も持っていません。私はただあなたの意図に従って行動し、あなたの御心を行うことを望むだけです。あなたの苦い杯から飲み、私はあなたの意のままです。」

     あなたがたは自分が歩く道について明確でなければならない。あなたがたがこれから歩く道について、神が完全にさせること、あなたが任されたことなどについても明確でなければならない。いつか、おそらくあなたがたが試されるとき、あなたがたがペテロの体験から霊感を得ることができるなら、あなたがたはペテロの道を歩こうとしていることを示している。ペテロは彼の真の信仰、愛、神への忠誠のために、神に褒められた、そしてそれは神が彼を完全にした彼の実直さ、彼の心の神へのあこがれであった。もしあなたが本当にペテロと同じ愛、信仰を持っているなら、イエスは必ずあなたを完全にしてくれるであろう。

『言葉は肉において現れる』より引用

日々の神の御言葉「実践に集中する者だけが完全にされることができる」抜粋549

     あなたがたが現在追求しているのは何か。それは神に完全にされること、神を知ること、神を得ることである。あるいは、90年代のペテロの風格を身につけることや、ヨブに勝る信仰を持つことを求めているかもしれない。または、神に義なる者と呼ばれて神の玉座の前に到達することや、神を地上に表して神のために力強く響き渡るような証しをすることを求めているかもしれない。求めるものが何であれ、あなたがたは全体として、神に救われるために求めている。義なる者となることを求めるか、ペテロの風格を求めるか、ヨブの信仰を求めるか、神に完全にされることを求めるかにかかわらず、それはどれも神が人において行う働きである。換言すると、何を求めようと、それは全て神に完全にされるため、神の言葉を経験するため、神の心を満足させるためである。何を求めようと、それは全て神の美しさを見出すためであり、現実の経験において実践する道を求めるためであり、その目的は反抗的性質を払拭し、自身の中で正常な状態を実現し、神の心に完全に一致できるようになることであり、それで正しい人間となり、あらゆる行いにおいて正しい動機をもつようになる。あなたがこうしたことを全て経験する理由は、神を知り、いのちの成長を達成するためである。あなたが経験するのは神の言葉であり、実際の出来事であり、また周囲にある人や物事であるが、最終的にあなたは神を知り、神に完全にされることができる。義なる者の道を歩むことや、神の言葉を実践することを求めるのであれば、それが走路であり、神を知り、神に完全にされることが終着点である。現在、あなたが求めているのが神による完全化であろうと、神のために証しすることであろうと、全体的に見ると、それは全て最終的に神を知るためである。それはあなたの中で神が行う働きが無駄にならないようにするため、あなたが最終的に神の現実性を知り、神の偉大さを知り、そしてさらに、神の謙りと隠秘性を知り、神があなたにおいて行う多くの働きを知るためである。神は、これほどまで自らを低くしたので、汚れて堕落した人において働きを行い、この集団を完全にするのである。神は人間のもとで生活し、食べ、人々を牧し、人々に必要なものを与えるためだけに受肉したのではない。さらに重要なのは、耐えがたいほど堕落した人を救い征服する大規模な働きを行うことである。あらゆる人が変えられ一新されるように、最も堕落した人を救うために赤い大きな竜の核心に神が来たことである。神が耐える大いなる苦難は、受肉した神が受ける苦難だけでなく、それは何よりも神の霊が受ける極度の屈辱である。神は大いに自分を低くし隠れるために凡人となる。神が正常な人間の生活を送り、正常な人間と同じものを必要としていることを人々が理解できるように、神は受肉して肉の姿となった。神がかなりの程度まで自ら謙ったことは、これで十分証明される。神の霊が肉の姿で現れている。神の霊は極めて高貴かつ偉大であるが、霊の働きを行うため、神は取るに足りない凡人の姿となっている。あなたがた各人の素質、識見、理知、人間性、生活は、あなたがたがこのような神の働きを受ける価値が本当にないことを示している。あなたがたのためにこのような苦難を神に受けさせるだけの価値は、あなたがたにはない。神は極めて偉大である。神は至高の存在であり、人は極めて卑しく下等であるが、それでも神は人に働きを行う。神は受肉して人間に必要なものを与え、人間と話すだけでなく、人間と一緒に生活している。神は極めて謙遜で、愛しむべき存在である。神の愛の話になるとすぐに、また神の恵みの話になるとすぐに涙を流しながら大いなる讃美を口にするならば、この状態に達するならば、あなたは神を真に認識している。

『言葉は肉において現れる』より引用

日々の神の御言葉「働きと入ること(1)」抜粋190

    神が人間を完全にし、その人の性質を変える中で、神の働きは決して止まらない。なぜなら、人間には欠けている部分が多すぎ、神が定めた基準にまったく達していないからである。したがって、神の目から見れば、あなたがたは永遠に生まれたての赤子であり、神を満足させる要素をほとんど備えていないと言える。なぜなら、あなたがたは神の手中にある創造物に過ぎないからである。自己満足に陥った人は、神に忌み嫌われるのではなかろうか。あなたがたがいま神を満足させられると言うのは、あなたがたの肉体の限られた観点から話すことであり、もしあなたがたがほんとうに神と比較されるならば、永遠に闘技場で打ち負かされるだろう。人間の肉は、いまだかつて勝利を味わったことがない。人間が短所を補う長所を得るには、聖霊の働きによるほかない。事実、神による無数の創造物の中で、人間は最も賤しい。人間は万物の長でありながら、サタンの策略にはまるのも、サタンの堕落へと至る無限の道に陥るのも、万物の中で人間だけである。人間は自身を支配したことがない。大半の人がサタンの汚れた地で生活し、サタンの笑い物にされている。サタンはあの手この手で人間を悩ませ、やがて人間は死にかけの状態となり、ありとあらゆる人生の浮き沈みや人の世の苦難を経験する。人間を弄んだ後、サタンは人間の運命に終止符を打つ。したがって、人間は朦朧とした混乱状態で一生を過ごし、神が人間のために用意した良き物事を一度も享受できず、それどころかサタンに傷めつけられ、ずたずたにされる。現在、人間は無気力になって熱意を失い、神の働きに留意する気がまったくない。神の働きに留意する気がないのであれば、その人の経験は永遠に断片的かつ不完全なままであり、人々の入りは永遠に空虚である。神が世に来てから数千年の間、高尚な理想を抱く人間が何人も、そして何年もの間、神により用いられ、神のために働いてきた。しかし、神の働きを知る者は極めて少なく、ほぼ皆無である。そのため、無数の人間が神のために働きを行なうと同時に、神に反抗する役割を担っている。なぜなら、人間は神から授けられた地位において、神の働きを行なうよりも、むしろ実際には人間の働きを行なっているからである。これが働きと言えるだろうか。そのような人がどうしていのちに入れるのか。人間は神の恵みを受け取り、それを葬り去った。そのため何世代にもわたり、神の働きを行なう者には入りがほとんどない。彼らは神の知恵をあまりに理解していないので、神の働きを知ることについてまったく語らない。神に仕える者は多数いるが、そうした者は、神がいかに称揚されているかを知らないと言える。そのため、誰もが自分を神に仕立て、他人に礼拝させるようにしたのである。
 神は長年にわたり創造物の中に隠れたままで、霧に包まれながら何度も春と秋を迎え、第三の天から見下ろしながら無数の昼夜を過ごし、無数の年月にわたって人間の中を歩んできた。神はすべての人の上に座し、無数の冬の間、静かに待ち続けてきた。神は誰かの前に公然と現われたことも、物音一つ立てたこともなく、何の痕跡も残さずに去り、同じく静かに戻ってくる。誰が神の素顔を認識できようか。神は人間に話しかけたことも、姿を見せたこともない。人間が神から託された働きを行なうのは、どれほど容易なことか。あらゆる物事のうち、神を知ることが最も困難であることを人々は知らない。現在、神は人間に対して語っているが、人間が神を知ったことはない。なぜなら、人間のいのちへの入りがあまりに狭く浅いからである。神の目から見ると、人間は神の前に出るのにまったく不適である。神に関する人間の理解はあまりに乏しく、神から離れすぎている。さらに、人間が神を信じる心はあまりに複雑であり、心の奥底に神の姿をまったく抱いていない。その結果、神の苦心や働きは、砂に埋もれた金のように、光を放つことができない。神にとって、そのような人たちの素質や動機、考え方は極めて忌み嫌うべきものである。人間は理解力に乏しく、鈍感になり、劣化し、退化し、極度に卑屈で、弱く、意志の力がなくなるほど何も感じないので、牛や馬と同じように導かれる必要がある。霊への入り、あるいは神の働きへの入りについて言えば、人間はそれらをまったく気に留めず、真理のために苦しむ決意がこれっぽっちもない。こうした人間が神によって完全にされるのは簡単なことではない。したがって、あなたがたがこの角度から入っていくことが、そして働きといのちへの入りを通じて神の働きを知るようになることが不可欠なのである。

『言葉は肉において現れる』より引用

日々の神の御言葉「神を愛する人は永遠に神の光の中に生きる」抜粋501

真理を実践するほど、より多くの真理を得る。真理を実践すればするほど、より神の愛を得る。そして、真理を実践すればするほど、神の祝福を受ける。いつでもこのように実践するなら、徐々に神の愛を内に見出し、ペテロがそうだったように、神を知るようになる。ペテロは、神が天地万物を創造する知恵をもっているだけではなく、そのうえ、人々の中で実際的な働きを行う知恵を持っていると語っている。ペテロは、神が天地万物を創造したから人々の愛にふさわしいだけではなく、そのうえ、人間を創り、人間を救い、人間を完全にし、人間に愛を与えてくれる力がありだから人々の愛にふさわしいのだと述べている。だから、ペテロは、神には人間の愛を受けるに値する点が数多くあるとも言うのである。ペテロはイエスに言った。「主は、天地万物を創られた以上に人々に愛されるにふさわしいのではありませんか。あなたが愛されるべきに他の理由はあなたの中にあります。あなたは現実の生活の中で働き、動いておられます。あなたの御霊はわたしの内に触れ、わたしを懲らしめ、わたしを咎められます。こうしたことは、ずっと、人々の愛にふさわしいのではありませんか。」神の愛を見、経験したいと望むのなら、それを現実の生活の中で探し、求めなければならない。そして、進んで自分の肉を捨てなければならない。このように心を定めることができなければならない。固く決心し、あらゆる点で神の心にかない、怠ることなく、肉の喜びに貪欲にならず、肉のためではなく神のために生きることのできる者でいなさい。あなたが神の心にかなわない時もあるだろう。それは、神の心を理解していないからだ。次にはもっと努力が必要であっても、神に満足してもらえるようにしなさい。肉の欲望を満たそうとしてはいけない。このようにして経験していくと、神を知るようになる。神が天地万物を創造したことを知り、人々がほんとうに実際に彼を見、実際に交流することのできるよう、また、神が人々の間を歩きその霊が現実の生活の中で人々を完全にできるよう、人間が神のすばらしさを見て、その鍛えや懲らしめ、祝福を経験できるようになるために受肉したことがわかるようになる。いつでもこのような経験をしていれば、現実に神と分かち難くなり、いつの日か、神との関係が正常のものではなくなる場合、叱責を耐えることができ、悔いる気持ちを覚えるようになる。神と正常な関係にあるときは、決して神と離れようと思わず、ある日、神が去ろうと言われるようなことがあれば、恐れ、神と離れるよりは死にたいと言うだろう。そうした感情を持つとすぐに、神と離れることはできないのだと感じ、そうして基礎ができ、真に神の愛を享受できる。

『言葉は肉において現れる』より引用

日々の神の御言葉「神の働きのビジョン(3)」抜粋81

どの時代においても、神は自身の働きを繰り返さない。終わりの日が到来したので、神は終わりの日に行なう働きを行ない、終わりの日における自身の性質を余すところなく現わす。終わりの日と言うとき、それは別の時代を指しており、その際イエスは、あなたがたは必ずや災害に見舞われ、地震、飢饉、疫病に遭遇すると言ったが、そのことは、それが新しい時代であり、もはや古くなった恵みの時代ではないことを示す。人々が言うように、神が永久に不変で、その性質は常に憐れみ深く慈愛に満ち、人間を自身のように愛し、すべての人に救いを提供し、決して人を憎むことがないのなら、神の働きが終わりを迎えることは果たしてあるだろうか。到来して十字架にかけられ、すべての罪人のために自分を犠牲にし、自身を祭壇に捧げたとき、イエスはすでに贖いの働きを完了させ、恵みの時代に終止符を打っていた。ならば、終わりの日にその時代の働きを繰り返す意味は何だろうか。同じことをするのは、イエスの働きを否定することではないだろうか。もしも神がこの段階に来た際に磔刑の働きを行なわず、慈愛に満ちて憐れみ深いままならば、時代を終わらせることができるだろうか。慈愛に満ちて憐れみ深い神は、その時代に終止符を打つことができるだろうか。時代を終わらせる神の最後の働きにおいて、神の性質は刑罰と裁きであり、神はその中で不義なるすべてのものを暴き、それによってすべての人を公然と裁き、真摯な心で神を愛する人たちを完全にする。このような性質だけが時代を終わらせることができる。終わりの日はすでに来ている。すべての被造物は種類ごとに選り分けられ、その本性を基にして異なる種類に分けられる。その瞬間、神は人の結末と終着点を明らかにする。もし人が刑罰と裁きを受けなければ、その人の不従順と不義を暴く術はない。刑罰と裁きを通じてでなければ、すべての被造物の結末を明らかにすることはできない。罰せられ、裁かれて初めて、人は本当の姿を示す。悪は悪と共に、善は善と共に置かれ、すべての人は種類ごとに選り分けられる。刑罰と裁きを通じ、すべての被造物の結末が明らかにされ、それによって悪人は罰せられ、善人は報いられる。そして、すべての人が神の支配に従属することになる。この働きのすべては義なる刑罰と裁きを通じて達成されなければならない。人の堕落は頂点に達し、人の不従順は極度に深刻になってしまったので、おもに刑罰と裁きから成り、終わりの日に明らかにされる神の義なる性質だけが、人をすっかり変えて完全な者とすることができる。この性質だけが悪を暴き、よってすべての不義なる者を厳しく懲罰することができる。したがって、このような性質には時代の意義が吹き込まれており、神の性質はそれぞれの新しい時代における働きのために顕示され、表出される。そのことは、神が自身の性質を気まぐれに意味もなく明らかにするということではない。終わりの日に人の結末を明らかにする中で、神が依然として人に無限の憐れみと愛を授け、相変わらず人に愛情深く、人を義なる裁きにさらさず、むしろ寛容、忍耐、赦しを示し、人がどんなに深刻な罪を犯してもそれを赦し、義なる裁きが少しもないのであれば、神の経営のすべてはいったいいつ終わりを迎えるだろうか。このような性質がいつ人々を導き、人類の正しい終着点へと連れ出せるだろうか。いつも愛情に満ちている裁判官、優しい表情と柔和な心をもつ裁判官を例に取ってみよう。この裁判官は犯した罪に関係なく人々を愛し、また相手が誰であっても、愛情深く寛容である。そうであれば、いったいいつ正しい判決にたどり着けるのか。終わりの日には、義なる裁きだけが人を種類ごとに選り分け、新しい領域に連れて行くことができる。このように、裁きと刑罰から成る神の義なる性質を通じ、時代全体に終わりがもたらされるのである。

『言葉は肉において現れる』より引用

日々の神の御言葉「神を愛することだけが本当に神を信じることである」抜粋498

これらの試練は、人々の心の中のどのような状態に狙いを定めているのだろう。それらは、神に満足してもらうことのできない人間の反抗的性質を対象としている。人々の心の中には汚れたものや偽善的なものがたくさんある。だから神はそれらを清めるために試みに遭わせるのである。だがもし今日、あなたが神に満足してもらうことができれば、将来の試練はあなたを全き者とするためのものとなる。今日、あなたが神を満足させることができなければ、将来の試練はあなたを誘惑し、あなたは無意識のうちに倒れてしまう。その時、あなたは自分自身を助けることはできないだろう。それはあなたが神の働きについていくことができず、本当の背丈を持っていないからである。そこで、あなたが将来しっかり立っていることができ、神にさらに満足してもらい、最後の最後まで神に従うことを望むなら、今日、あなたは強い基礎を構築し、すべてのことにおいて真理を実践することによって神を満足させ、神の心を心に留めておかなければならない。あなたがいつもこのように実践していれば、あなたの中に基礎ができ、神はあなたに神を愛する心を生じさせ、あなたに信仰を与えるだろう。いつか、試練が本当にあなたに降りかかった時、あなたは多分、多少の痛みに苦しみ、ある程度まで不当に扱われていると感じ、死ぬかと思うほどの痛烈な悲しみに苦しむだろう――しかし、あなたの神に対する愛は変わらず、一層深くなるだろう。それが神の祝福である。神が今日語り、行うすべてのことをあなたが従順な心で受け入れることができるならば、あなたは必ず神に祝福され、それであなたは神に祝福された人となり、神の約束を受ける人になるだろう。今日、あなたが実践しなければ、いつか試練が降りかかる時、あなたには信仰も、愛する心もなく、その時、試練は誘惑になるだろう。あなたはサタンの誘惑の真っただ中に投げ込まれ、脱出する手段はない。今日、小さな試練が降りかかる時、あなたはしっかり立っていられるかもしれないが、いつか大きな試練が降りかかる時、必ずしもしっかり立っていることはできないだろう。うぬぼれていて、自分達はすでに完成に近づいていると考える人々もいる。そのような時、あなたが深刻にならず、現状に満足したままでいると、あなたは危険に陥るだろう。今日、神は大きな試練の働きは行っておらず、外見上、すべてはうまくいっているように見えるが、神があなたに試練を課す時、あなたは自分に欠けているものがあまりにも多いことに気付くだろう。というのも、あなたの背丈はあまりにも取るに足らないので、あなたは大きな試練に耐えることができないからである。今日、あなたが着実に進歩せず、同じ場所にとどまっているならば、大風が吹いた時、あなたは倒れるだろう。あなたは自分の背丈が取るに足らないものであることをしばしば見つめるべきである。そうして初めてあなたは進歩するのである。あなたが自分の背丈が取るに足らないものであること、自分の意志の力がとても弱いこと、あなたの中に本質的なものはほとんどないこと、あなたは神の心には適さないことを知るのが試練の間だけであるなら――そしてあなたがこれらのことにその時になってようやく気付くのであれば、遅すぎるだろう。

神の性質を知らなければ、あなたは試練の最中に必ず倒れるだろう。なぜならあなたは神がどのように人々を完全にするか気づいていないし、どのような手段で神が人々を完全にするか、いつ神の試練があなたに降りかかり、それらがあなたの概念に合わないかを気付かないので、しっかり立っていることができないからである。神の本当の愛は神の全性質であり、神の全性質があなたに示される時、これはあなたの肉体に何をもたらすだろう。神の義である性質があなたに示される時、あなたの肉体は必然的に多くの痛みに苦しむだろう。あなたがこの痛みに苦しまなければ、あなたは神によって全き者とされないし、本当の愛を神に捧げることもできないだろう。神があなたを全き者とすれば、神は必ずその全性質をあなたに示すだろう。天地創造の時から今日まで、神は全性質を見せたことはなかった――しかし、終わりの日の間、神は運命づけて、選んだこの人々の一群に神の性質を明らかにし、人々を全き者とさせることによって神の性質をさらけ出し、それによって人々の一群を完全にする。それが人々に対する神の本当の愛である。人々に対する神の本当の愛を経験するには、激しい痛みに耐え、高い代償を払うことが要求される。この後ようやく人々は神のものとされ、彼らの本当の愛を神に還元することができ、そうして初めて神の心は満ち足りる。人々が神により全き者とされることを望むなら、また、神の意志を実行し、彼らの本当の愛を十分に神に捧げることを望むなら、彼らは多くの苦しみとたくさんの苦痛を周囲の状況から経験しなければならず、死よりもひどい痛みに苦しむためには、結局彼らは本当の心を神に還元することを強いられる。本当に神を愛しているかどうかは困難と純化の期間に明らかにされる。神は人々の愛を清めるが、これも困難と純化の真っただ中でしか達成されない。


『言葉は肉において現れる』より引用

日々の神の御言葉「正常な霊的生活について」抜粋415

正常な霊的生活を送るには、日々新たな光を受け取ることができ、神の言葉を真に認識しようと求めなければならない。真理をはっきりと見すえ、すべてにおいて実践の道を見出し、日々神の言葉を読んで新たな問題を発見し、自分の不備に気づかなければならない。それは自分の全存在を揺り動かすほど慕い求める心をもち、遅れをとることを深く恐れて、いつでも神の前に静まることができるようになるためである。そのような慕い求める心を持ち、絶えず入って行こうとしている人は、霊的生活において正しい道を歩んでいる。聖霊に動かされ、さらなる向上を願い、神による完成を進んで求め、神の言葉をさらに深く認識することを切望し、超自然的なものを求めず、むしろ実際の代価を払い、真に神の心意を思いやり、自分の体験がさらに純粋で実際的になるよう実際に入り、空しい言葉や教義を求めたり超自然的なものを感じようとしたりせず、偉人を崇拝しない人、このような人が正常な霊的生活に入っているのである。彼らがすることはすべて、いのちのさらなる成長を達成し、霊において新鮮で生き生きとするためであり、それゆえ彼らは常に積極的に入って行くことができる。知らず知らずのうちに真理を認識し、現実性に入るのである。正常な霊的生活を送っている人は、日々に霊の解放と自由を見出し、神の言葉を自由に実践して神を満足させることができる。このような人にとって祈りは形式でも手続きでもない。日々彼らは新たな光に歩調を合わせることができる。たとえば、神の前に心を静めるように訓練し、実際に神の前で心を静めることができ、誰にも邪魔されない。このような人の正常な霊的生活を阻止できる人、出来事、ものは何もない。そのような訓練は成果を上げるためであって、人を規則に従わせるのが目的ではない。この実践は、規則に従うためではなく、人のいのちにおける成長を促すために行われるのである。このような実践を単に従うべき規則ととらえるなら、いのちは決して変わらない。他の人たちと同じように実践していて、その人たちがついには聖霊の働きと歩調を合わせて歩むことができるようになっても、あなたは聖霊の流れから除外されるとすれば、自分を欺いていることにはならないのか。こういうことを言う目的は、人が神の前に心を静め、心を神に向けることで、人の中の神の働きが妨げられることなく実を結ぶためである。その時はじめて人は神の心意にかなうことができる。

『言葉は肉において現れる』より引用