東方閃電-小羊の足跡に従っていくこと

東方閃電全能神教会は世界に”神様が帰ってきた”ことを公に証ししています。彼は再臨の主イエスです。神様の羊は神様の声を聞き分けます。多くの真理を渇仰する人は、東方閃電全能神教会を考察します。

神の働きの各段階と神の名前との関係は何か。

(1)律法の時代に神がヤーウェという名を用いたことの意義
参照聖書箇所

神はまたモーセに言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい『あなたがたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と。これは永遠にわたしの名、これは世々のわたしの呼び名である。」(出エジプト記3:15)

関連する神の言葉

「ヤーウェ」はわたしがイスラエルで働きを行っている間に用いた名前であり、人を憐れみ、人をののしり、人の生活を導くことのできる、イスラエル人(神に選ばれた人々)の神という意味である。それは偉大な力を所有し、英知に満ちた神という意味である。……すなわち、ヤーウェだけがイスラエルの選ばれた人々の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、モーゼの神、イスラエルのすべての人々の神である。そこで現代、すべてのイスラエル人は、ユダヤの部族は別として、ヤーウェを崇拝している。彼らは祭壇でヤーウェに捧げものをし、神殿で祭司の祭服を着て神に仕える。彼らが望むのは、ヤーウェの再来である。……ヤーウェの名前は律法の下に生きたイスラエルの人々のための特別な名前である。各時代、各段階の働きにおいて、わたしの名前は根拠のないものではなく、代表的意味を持っている。それぞれの名前は一つの時代を表す。「ヤーウェ」は律法の時代を表し、イスラエルの人々が崇拝した神の敬称である。……

『言葉は肉において現れる』の「救い主はすでに『白い雲』に乗って戻って来た」より

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律法の時代に、人類を導く働きはヤーウェの名によってなされた。そして第一段階の働きは地上で実行された。この段階の働きは神殿と祭壇を建てることで、律法を用いてイスラエルの人々を導き、彼らの間で働くことであった。イエスラエルの人々を導くことによって、神は地上での働きの拠点を築いた。この拠点から、神はその働きをイスラエルを越えて拡張した。すなわち、イスラエルから開始して、神はその働きを外に向けて拡張した。それにより、後の世代が、次第にヤーウェが神であること、ヤーウェが天と地とすべてのものを創造し、すべての被造物を造ったことを知るようになった。神はイエスラエルの人々を通してその働きを広めた。イスラエルの地は地上におけるヤーウェの働きの最初の聖なる地で、地上における神の最も初期の働きは、イスラエル全土でなされた。それが律法の時代の働きであった。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より

律法の時代を通じて、ヤーウェは多くの戒めを定め、モーゼがエジプトを出て彼に従うイスラエル人にそれを伝えるようにした。ヤーウェは、この戒めをイスラエル人に与えた。それはエジプト人とは無関係で、イスラエル人を律する意味があり、イスラエル人にヤーウェが課した要求であった。人が安息日を守ったか、両親を敬ったか、偶像を崇拝したかなど、人が罪を犯したか、義であるかを裁く上での原則であった。人がヤーウェの火により焼かれるか、石打ちで処刑されるか、ヤーウェの祝福を受けるかは、これらの戒めに従ったかどうかで決められた。安息日を守らない者は、石打ちで処刑される。祭司で安息日を守らなかった者は、ヤーウェの火により焼かれた。両親を敬わなかった者も、石打ちで処刑にされた。これら全ては、ヤーウェによって称されたことである。ヤーウェは戒めと律法を設定し、彼らの生活を導く際に人々がヤーウェの言葉に聞き従い、そして背くことのないようにした。ヤーウェはこれらの律法を、新たに生まれた人類を治めるために、そして自身の働きの基礎を作るために用いた。したがって、ヤーウェが行った働きにより、この最初の時代は律法の時代と呼ばれた

『言葉は肉において現れる』の「律法の時代における働き」より

イスラエルの人々は皆ヤーウェを主と呼んだ。当時イスラエルの人々は神を家長とみなし、イスラエル全体がひとつの大きな家族となり、家族全員が主であるヤーウェを崇拝した。ヤーウェの霊はしばしばイスラエル人に現れ、彼らに声を出して話しかけ、雲の柱と音をもって彼らの生活を導いた。当時、神の霊は直接イスラエルで導きを与え、人々に声をもって話しかけた。そして人々も雲を見、雷が鳴り響くのを聞いた。神はこのようにして何千年ものあいだイスラエルの人々の生活を導いた。そのため、イスラエルの人々だけが常にヤーウェを崇拝してきた。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(2)」より

イスラエルにおけるヤーウェの働きと言葉は、全土のすべての人々の生活を導いた。そして、ヤーウェは、人がヤーウェの命をもち、塵から形作られ、神の創造物になるように人に息を吹き込んだだけでなく、人類を支配するための杖を使って人類を炎で焼くこともできるし、人類を呪うこともできることを、ヤーウェの働きと言葉によって人に示した──ヤーウェが地上で人の生活を導き、昼と夜との時間によって人の中で語り、働くことができるのを人が知るために。人はヤーウェにより拾い上げられた塵から来て、人はヤーウェより創られたということを創造物である人自身が知ることができるように、ヤーウェはひたすら働きを行った。さらにまた、他の人々と民族(実際にはイスラエルとは別の人々と民族ではなく、イスラエル人から分かれ出た人々と民族であり、依然としてアダムとエバの子孫である)が、イスラエルからヤーウェの福音を受け取るようになり、宇宙における全ての創造物がヤーウェを畏れ、ヤーウェを崇めるようになるために、ヤーウェはイスラエルで働きを始めた。

『言葉は肉において現れる』の「律法の時代における働き」より

ヤーウェの名前は神のすべての性質を表すことはできない。神が律法の時代に働きを実行した事実は、神が律法の下でしか神であることができないと証明しているのではない。ヤーウェは人間のために律法を定め、戒めを言い渡し、神殿と祭壇を造るように命じた。ヤーウェが行なった働きは律法の時代だけを表す。ヤーウェが行なった働きは、神は律法を守るようにと言う神だとか、神殿にいる神だとか、祭壇の前にいる神だと証明しているのではない。そのようなことは言えない。律法の下の働きは一つの時代だけを表すことができる。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

(2)恵みの時代に神がイエスという名を用いたことの意義
参照聖書箇所

彼がこのことを思いめぐらしていたとき、主の使が夢に現れて言った、「ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。(マタイによる福音書 1:20-21)

すると御使が言った、「恐れるな、マリヤよ、あなたは神から恵みをいただいているのです。見よ、あなたはみごもって男の子を産むでしょう。その子をイエスと名づけなさい。1:32彼は大いなる者となり、いと高き者の子と、となえられるでしょう。そして、主なる神は彼に父ダビデの王座をお与えになり、彼はとこしえにヤコブの家を支配し、その支配は限りなく続くでしょう」。(ルカによる福音書 1:30-33)

関連する神の言葉

エスの名は恵みの時代の始まりを印した。イエスがその職分を始めたとき、聖霊がイエスの名に証しはじめ、ヤーウェの名はもはや語られなかった。その代わり、聖霊がおもにイエスの名のもとに新しい働きを始めた。神を信じる人たちの証はイエス・キリストのためになされ、彼らが行なった働きもまたイエス・キリストのためであった。旧約聖書の律法の時代の終わりは、ヤーウェの名の下でおもに行われた働きが終局を迎えたことを意味した。この後、神の名はもはやヤーウェではなくなった。神はイエスと呼ばれ、ここから聖霊がおもにイエスの名の下で働きを開始することになった。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より

エス」はエマヌエルであり、愛に満ち、慈悲心に満ち、人の罪を贖う捧げものを意味する。イエスは恵みの時代の働きを行い、恵みの時代を表すので、経営(救いの)計画の一部分しか表すことはできない。……イエスだけが人類の救い主である。イエスは罪から人類を救った捧げものである。つまり、イエスの名前は恵みの時代から来ており、恵みの時代の贖罪の働きのために存在した。イエスの名前は恵みの時代の人々が生き返り、救われるために存在したのであり、全人類の贖罪のための特別な名前である。そこで、イエスという名前は贖罪の働きを表し、恵みの時代を意味する。……イエス」は恵みの時代を表し、恵みの時代に救われたすべての人々の神の名前である。

『言葉は肉において現れる』の「救い主はすでに『白い雲』に乗って戻って来た」より

恵みの時代には、神の名はイエスであり、それは神が人類を救う神であり、神は憐れみ深く、いつくしみ深いという意味である。神は人と共にいた。神の愛、神の憐れみ、そして神の救いはひとりひとりに伴っていた。もし人がイエスの名を受け入れ、神の存在を受け入れるなら、人は平安と喜びを得ることができ、神の祝福、いくつもの大いなる恵みを受け、救いを受け取ることができる。イエスの十字架刑を通して、イエスに従うすべての人たちは救いを受け、その罪が赦された。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より

エスが現れたとき、イエスは神の役割も実行した。そして、いくつかの言葉を話した。しかし、イエスが成し遂げた主な働きは何だったろうか。イエスが主として成し遂げたことは、磔の働きであった。イエスは、磔の働きを完成し全人類を贖うために罪深い肉の似姿になった。そしてイエスが罪の贖いの供え物となったのは、全人類の罪のためであった。これが、イエスが成し遂げた主な働きであった。最終的に、イエスは、後から来るひとたちを導くために、十字架の道を与えた。イエスが現れたとき、それは主として、贖いの働きを完了するためであった。イエスは全人類を罪から救い、天の国の福音を人にもたらし、そして天の国をもたらした。その結果、やってきた人たちは皆こう言った。「我々は十字架の道を歩くべきだ。そして十字架のために、我々自身を犠牲にすべきだ」。もちろん、最初イエスは、人に悔い改めさせ罪を告白させるために、他の働きもいくつか行い、多少の言葉も語った。しかし、彼の本来の役割はやはり、磔であった。そしてイエスが道を説きながら費やしたあの3年半は、その後にやってきた磔に向けての期間であった。イエスが祈った何回かは磔のためでもあった。イエスが暮らした一人の普通の人としての人生や、地上で彼が生きた33年半は、主として、磔という働きを完成するためであった。そしてイエスに力を与え、イエスをこの働きに取り組むことができるようにした。その結果として神はイエスに磔という働きを託した。

『言葉は肉において現れる』の「すべてが神の言葉によって達成される」より

恵みの時代の働きでは、イエスが人を救う神であった。神がもつもの、神であるものは恵み、愛、憐れみ、慎み、忍耐、謙遜、思いやり、寛容であり、イエスが行った働きの多くは人の贖いであった。神の性質に関して言えば、それは憐れみと愛であった。そして神は憐れみ深くいつくしみ深かったので、人間のために十字架に釘づけにされなければならなかった。そうすることで神は自身の全てを犠牲にするほど人類を自身のように愛していることを示した。サタンは「人間を愛しているのだから、極限まで人間を愛さなければならない。人間を十字架から、罪から解放するためにあなたは十字架に釘打たれなければならない。人類すべての代わりにあなた自身を捧げてもらおう」と言った。サタンは以下のようにもちかけた。「あなたは愛にあふれ憐れみ深い神なのだから、極限まで人間を愛さなければならない。十字架にあなた自身を捧げなければならない。」イエスは「人間のためである限り、わたしのすべてを喜んで犠牲にしよう」と言った。その後イエスは躊躇することなく十字架にかけられ、人類全体を贖った。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より

恵みの時代、イエスはすべての堕落した人類(イスラエル人だけではない)を罪から救うために現れた。イエスは人に慈愛と憐れみを示した。恵みの時代に人が見たイエスは憐れみに満ちており、いつも愛情にあふれていた。というのは、イエスは人を罪から救い出すために来たからである。イエス磔刑を受け、本当に人類を罪から救い出すまで人の罪を許すことができた。その間、神は人の前に慈愛と憐れみを持って現れた。すなわち、イエスは人のために罪の生け贄になり、人が永久に許されるように人の罪のため磔刑にされた。イエスは慈悲深く、憐れみ深く、我慢強く、愛情があった。恵みの時代にイエスに従ったすべての人々も、あらゆることにおいて我慢強く、愛情深くあろうとした。彼らはすべての苦しみに耐え、たとえ叩かれても、罵られても、石を投げつけられても、決して反撃しなかった。

『言葉は肉において現れる』の「二度の受肉受肉の意義を完成させる」より

恵みの時代には、神の名はイエスであった。すなわち、恵みの時代の働きはおもにイエスの名の下でなされた。恵みの時代には、神はイエスと呼ばれた。イエス旧約聖書を越えて新しい働きを行い、イエスの働きは十字架刑で終わり、それがイエスの働きのすべてであった。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より

(3)神の国の時代に神が全能神という名を用いることの意義
参照聖書箇所

「もろもろの国はあなたの義をもろもろの王は皆あなたの栄えをそして、あなたは主の口が定められる新しい名をもってとなえられる。」(イザヤ書 62:2)

「勝利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない。そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう。」(ヨハネの黙示録 3:12)

「今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、全能者にして主なる神が仰せになる、『わたしはアルパであり、オメガである』。」(ヨハネの黙示録 1:8)

「今いまし、昔いませる、全能者にして主なる神大いなる御力をふるって支配なさったこと感謝します。」(ヨハネの黙示録11:17)

「全能者にして主なる神あなたのみわざは、大いなる、また驚くべきものであり万民の王あなたの道は正しく、かつ真実であります。」(ヨハネの黙示録 15:3)

関連する神の言葉

終わりの日には、神の名は全能なる神──全能なるものであり、神はその力で人を導き、人を征服し、人を自分のものとし、最終的にはその時代を終わらせる。どの時代でも、神の働きのどの段階でも、神の性質は明らかである。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より

全能神、すなわち神の国の王が証しされて以来、神の経営(救い)の範囲は全宇宙にくまなく広がっている。神の現れが中国で証しされただけでなく、全能神の名もまた各国、そして各地で証しされている。皆がその聖なる名を叫び、あらゆる手を尽くして神との交わりを求め、全能神の旨を把握し、教会にて協調して仕えている。聖霊は、このような不思議な方法で働くのだ。

「キリストが最初に発した言葉と証し」より

だから最後の時代──終わりの日の時代──が来た時、わたしの名前はまた変わるのである。わたしはヤーウェやイエスとは呼ばれないし、ましてやメシアとは呼ばれないが、力ある全能の神自身と呼ばれ、この名前の下でわたしは時代全体を終らせるだろう。わたしはかつてヤーウェとして知られていた。わたしはメシアとも呼ばれたし、人々はわたしを愛し、尊敬したので、ある時は救い主イエスと呼んだ。しかし、今日わたしは人々が過去に知っていたヤーウェでもイエスでもない。わたしは終わりの日に戻ってきた神、時代を終らせる神である。わたしは、わたしの全性質を余すところなく顕し、権威、名誉、栄光に満ちて地の果てに立ち上がる神自身である。人々は一度もわたしと関わったことがなく、わたしを知ったことがなく、ずっとわたしの性質に無知であった。天地創造から今日に至るまで、わたしを見たことがある者はひとりとしていなかった。これは終りの日に人の前に現れるが、人々の間に隠れている神なのである。神は真実で現実的に、照りつける太陽や燃え立つ火のように、力に満たされ、権威にあふれて人々のあいだに存在する。わたしの言葉によって裁きを受けない人や物は一人として、一つとしてない。燃える火によって浄化されない人や物は一人として、一つとしてない。最終的には、あらゆる諸国はわたしの言葉のために祝福され、わたしの言葉のために粉々に砕かれもする。このようにして、終わりの日にすべての人は、わたしが戻ってきた救い主であり、人類のすべてを征服する全能神であり、かつては人のための罪の捧げものであったが、終わりの日にはすべてを焼き尽くす太陽の炎にもなり、またすべてのものを顕示する義の太陽でもあることを理解するだろう。それが終わりの日のわたしの働きである。わたしはこの名前を名乗り、この性質を持ち、すべての人がわたしが義の神であり、照りつける太陽、燃え立つ火であることが理解できるようにする。そうするのはすべての人が唯一の本当の神であるわたしを崇め、わたしの本当の顔を見ることができるようにである。わたしはイスラエル人たちの神であるだけではなく、贖い主であるだけでもなく、天、地、海の至る所にあるすべての創造物の神である。

『言葉は肉において現れる』の「救い主はすでに「白い雲」に乗って戻って来た」より

時代を終わらせる神の最後の働きでは、神の性質は刑罰と裁きであり、それが不義なるもの全てを現わし、すべての人々を公に裁き、神を真に愛する人たちを完全にする。このような性質のみが時代を終わらせることができる。最後の日はすでに来ている。あらゆるものは種類によって区分され、本性に従って種類分けされる。この時に神は人の最後と終着点を明かにする。もし人が刑罰と裁きを受けなければ、人の不従順と不義を明かす方法はないであろう。刑罰と裁きを通してのみ、あらゆるものの終局を明かすことができる。人は罰せられ裁かれて初めて本当の姿を示す。悪は悪に戻り、善は善に戻り、人は種類によって区分される。刑罰と裁きを通して、すべてのものの最後が明かされ、悪人は罰せられ、善人は褒美を得るであろう。そして、すべての人たちは神の支配の下に従属することになるであろう。すべての働きは義なる刑罰と裁きを通して達成されなければならない。人の堕落は頂点に達し、人の不従順はあまりにも深刻になってしまったので、おもに刑罰と裁きであり、終わりの日に明らかにされる神の義なる性質のみが人を完全に変えて全き者とすることができる。この性質のみが悪を暴露し、よってすべての不義なる人々を厳しく罰することができる。よって、この様な性質は時代の意義を持ち、神の性質の顕示と表示はそれぞれの新しい時代の働きのためである。神はその性質を気まぐれに意味もなく顕すことはない。もし、人の終末が終わりの日に明らかにされるときに神が依然として人に無尽蔵の憐れみと愛を与えるなら、もし神が依然として人を愛情深く、人を義なる裁きにさらさずに寛容、忍耐、赦しを示すなら、人がどんなに深刻な罪を犯しても、義なる裁きなしに依然として人を赦すなら、神の経営のすべてに一体終わりはあるのだろうか。このような性質がいつ人類を正しい終着点に導くことができるのだろうか。たとえばいつもいつくしみ深く、優しい、柔和な裁判官を例に取ってみよう。この裁判官は犯した罪に関係なく人々を愛し、誰であっても、いつくしみ深く寛容である。それでいつ正しい判決にたどり着くことができるのか。終わりの日には、義なる裁きのみが人を分類し、新しい領域に連れて行くことができる。この様に、時代全体に神の裁きと刑罰の義なる性質を通して終わりがもたらされるのである。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より

神の今回の受肉において、神の働きは主に刑罰と裁きを通して神の性質を表すことである。これを基礎として、神は人により多くの真理をもたらし、より多くの実践方法を示し、こうして人を征服し、堕落した性質から人を救うという神の目的を達成する。これが神の国の時代における神の働きの背後にあるものである。

『言葉は肉において現れる』の「序文」より

終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人を教え、人の本質を明示し、その言葉や行為を解剖する。こうした言葉には、人の本分、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきか、そして神の知恵と性質など、さまざまな真理が含まれる。これらの言葉は、みな人の本質とその堕落した性質に焦点を当てている。とりわけ、いかに人が神を拒絶するかを明らかにする言葉は、人がサタンの化身であり、神に敵対する力であることを語っている。神が裁きの働きを行う際、神はほんの数語で人の本性を明示するのではなく、長期にわたって暴き、取り扱い、刈り込みをする。そうした暴き、取り扱い、刈り込みは、通常の言葉に置きかえることはできず、人が持つことなどない真理でしか置きかえられない。そうした働きのしかたのみが裁きとみなされる。そうした裁きを通じてのみ、人は説得され、神への服従に完全に納得し、神の真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすものは、人による神の真の顔の理解と、自らの背きに対する真の理解である。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、それまで人には理解できなかった奥義について大いに理解できるようになる。また、人が自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し理解し、人の醜さを発見するようになる。これらの効果は全て、裁きの働きによりもたらされる。というのも、裁きの働きの本質は、実際に神を信じる全ての者に、神の真理、道、いのちを開く働きだからだ。これが、神がなす裁きの働きである。

『言葉は肉において現れる』の「キリストは、真理を以て裁きの働きを行う」より

神の国の時代には、肉となった神は、神を信ずるすべての人たちを征服するために、言葉を用いる。これが、「言葉が肉において現れる」ということである。神は、この働きをするために終わりの日にやって来た。つまり、神は、言葉が肉において現れることの実際の意義を成し遂げるためにやって来た。神は言葉を話すだけであり、事実の到来は稀である。これがまさに、言葉が肉において現れることの実体である。そして肉となった神が自身の言葉を話すとき、これが肉における言葉の出現であり、肉へ入り来る言葉である。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。そして言は肉となった。」このこと(言葉が肉において現れるという働き)が、終わりの日に神が成し遂げるだろう働きであり、自身の全経営計画の最終章である。したがって、神は地上に来て、肉の中で自身の言葉を表さなければならない。

『言葉は肉において現れる』の「すべてが神の言葉によって達成される」より

神の国の時代、神は言葉を用いて新たな時代を招き入れ、働きの手段を変え、その時代全体の働きを行う。これが神が言葉の時代に働く原則である。神は異なる観点から語るために受肉し、肉となった言葉である神、その知恵と不思議とを人間が本当に見ることができるようにした。そうした働きは、人間を征服し、人間を完全にし、人間を淘汰するという目的をよりよく成し遂げるために行われる。これが、言葉の時代に言葉を用いて働くということの真の意味である。

『言葉は肉において現れる』の「神の国の時代は言葉の時代」より

神の最初の働きはユダヤで、イスラエルの範囲内で行われた。異邦人の諸国では時代を開始する働きは全くしなかった。神の働きの最終段階は異邦人の間で行われるだけでなく、なおさら呪われた人々の間で行われる。この点はサタンに屈辱を確実に与え得る証拠である。こうして、神は全宇宙の被造物すべての神に「なり」、万物の主、命あるすべてのものにとって崇拝の対象になる。

『言葉は肉において現れる』の「神はすべての被造物の主である」より

終わりの日に、わたしの名は異邦人の間で広められ、わたしの業は異邦人によって知られることとなり、彼らはわたしを、全能の神と呼ぶであろう。その結果わたしの言葉が速やかに実現されるだろう。わたしは全ての人々に、わたしが、イスラエル人の神であるだけではなく、全ての異邦人の神でもあり、わたしが呪った民族の神でさえもあることを、知らしめる。わたしは、全ての人々に、わたしが全ての被造物の神であることを分からせる。これが、わたしにとって最大の仕事であり、終わりの日のためのわたしの行動計画の目的であり、終りの日に達成されるべき働きのすべてである。

『言葉は肉において現れる』の「福音を広める働きは、人を救う働きでもある」より