東方閃電-小羊の足跡に従っていくこと

東方閃電全能神教会は世界に”神様が帰ってきた”ことを公に証ししています。彼は再臨の主イエスです。神様の羊は神様の声を聞き分けます。多くの真理を渇仰する人は、東方閃電全能神教会を考察します。

キリスト教映画「私の主は誰か」抜粋シーン(5)神様の足跡に従う人だけが永遠のいのちの道を獲得できる|日本語

聖書は、神の言葉だけではなく、わたし達にいのちを与えてくれるとても有益な、人間の経験と証しにあふれています。主イエスによると、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか 」(ヨハネによる福音書11:25-26)とあります。しかし、2000年経った今、聖書を読み主を信じている者が、なぜ未だ誰一人として永遠の命を手に入れていないのでしょう?聖書は永遠の命への道になり得ないのではないでしょうか?主イエスが贖いの働きをされた時、人類に永遠のいのちへの道を授けなかったのではないでしょうか?わたし達は永遠のいのちへの道をみつけるために、一体何をすべきなのでしょうか?

クリスチャン映画「福音の使者」 抜粋シーン(1)主イエスは、十字架の上で「すべてが終った」と言われたとき、何を意味されたのでしょうか?

宗教界の多くの人々はこう考える、「主イエスが十字架の上で『すべてが終った 』と仰せられたということは、人類を救う神の働きは終わった証拠だ。我々は主を信じるだけで、罪を赦され、信仰によって義とされ、恵みによって救われる。主が来られれば、我々を天の御国に引き上げてくださる。更なる救いの働きなどなさるはずがない。」この見解は神の働きの事実と合致しているだろうか?

 

神の愛の実相とは

「あなたは、自分がわたしに対して常に忠実であり、わたしを愛しているにもかかわらず、病の苦痛や生活上の束縛、友人や親戚に見捨てられること等の人生における不幸を受けたとしたら、わたしに対するあなたの忠誠や愛は依然として継続するであろうか。」(『言葉は肉において現れる』の「極めて深刻な問題:裏切り(2)」より)、という神の言葉を目にする度に、私は特に憂鬱になります。みじめな気持ちになり、「神よ、あなたに忠実で、あなたを愛する人達がなぜそのような不幸な目に合うのですか。」と心の中で不満を漏らしってしまいます。そのため、私は、聖霊によって使われた者が言った「神の人々に対する最後の要求は愛情のこもった、誠実なものである」という言葉の意味を理解できずにいます。

つい先日、一緒に仕事をしていた姉妹が甲状腺機能亢進症に罹り、次第に彼女は1日に6食も取らなくてはならない状態に陥りました。彼女は病気のストレスからどんどん弱くなり、鬱状態で、弱々しく、疲れやすい状態で毎日の生活を送っていました。彼女の体は、本分を尽くしたいという本人の希望通りには動かなくなり、病状も悪化していきました。なぜこんな事が起っているのか、私には理解できませんでした。この姉妹は、自分の本分を尽くす事に専念できるようにと、家族から離れ、待遇の良かった高収入の仕事を辞めただけでなく、非常に忠実でもありました。彼女ほど自分を捧げた人が、どうしてこんな病魔に襲われるような事になってしまうのでしょうか。・・・自分の気持ちを外には出しませんでしたが、私の心は動揺し、誰かがこの事を口にする度に、私は冷静さを失ってしまうほどでした。

それから間もなく、この姉妹と私は離れ離れになりましたが、私は決して彼女の事を忘れる事はありませんでした。ある日、私はリーダーに彼女がどうしているのかを聞いてみると、リーダーはこう言いました。「最初彼女はとても否定的で、神の働きを受け入れる事を拒んでいたのですが、後に、彼女は意識的に自分の状態を調整し、自分の病気に苦しむ中で神の意図を求めようと努力していました。彼女は神の言葉を通して自分自身を知り始め、真の意味で信仰していなかったと気が付きました。彼女の信仰には依然として、神を信仰するから神から祝福をもらいたいという『交換』的な要素が残っていました。さらに彼女は、自分自身の中にある反抗的要素も多く見出していきました。彼女が自分自身のこういった部分に気が付くと、健康状態も劇的に改善していきました。彼女は日々回復しています。食事も1日3食にまで減り、状態はかなり良くなっています。自分が滞在しているホストファミリー宅で兄弟姉妹達がそれぞれの状態を調整する手助けまでしていますよ・・・」この良い知らせを聞いて、私は本当に驚きました。私は病気の苦痛が彼女の決意をすり減らし、彼女をひどく苦しめるだろうと思っていたからです。病気に悩まされていた彼女の将来はどんどん暗くなっていくだろうとまで思っていました。この先、信仰を失ってしまうかもしれないとさえ感じていました。しかし今日、彼女の現状を知った私はショックを受けました。彼女は神への信仰を失っていないだけでなく、病気の精錬を通して神の働きを理解し、自分自身の堕落にも気付いたのです。彼女は経験から学び、自分のいのちにおいても改善を遂げていたのです。この病気は、神の真の愛、そして神による救いの現れではないでしょうか。

その後、私は人との交流の中でこの一節を読みました。「第5節:『あなたは、自分がわたしに対して常に忠実であり、わたしを愛しているにもかかわらず、病の苦痛や生活上の束縛、友人や親戚に見捨てられること等の人生における不幸を受けたとしたら、わたしに対するあなたの忠誠や愛は依然として継続するであろうか。』(『言葉は肉において現れる』の「極めて深刻な問題:裏切り(2)」より)神の働きは人々の観念と一致していません。神は全ての時代を通して、人々を救うというこの原則に従って働いてきました。この神の働きを経験した人は皆この事実を認識します。人々は神に対して忠実であり、愛情に満ちています。そして今度は神がその人達に対し愛を分け与えます。・・・私達が神に対して真に愛情を抱き、神に対し真に忠実であれば、どのような不幸であっても、それは神の愛の現れです。私達が神の心を真に理解できているならば、神に対してより忠実になるべきであり、完全に神をもっと愛するべきです。試練に直面する中で神の心を見出す事ができず、神を誤解したり、神を裏切ったりするような事があれば、神の働きを全く認識できていないという事になります。神を愛し、神に対し忠実であったとしても、私達の中には依然として裏切りの要素が存在しています。これについて議論する人はいないでしょう。神は人を清めて救うために、人を精錬しようとします。」(『キリストと教会のリーダーおよび働き手の会談記録』収録の「神の人々に対する最後の要求は愛情のこもった、誠実なものである」より)この交流の一節を読んで初めて、私はいつも肉に縛られた思考の観点からのみ神の働きを判断していた事に気が付きました。私は、神の愛は溢れんばかりの恵み、そして肉の喜びと安心感を保証していただけるものだと勘違いしていました。苦しむ事も神からの祝福の一形態であるなどとは考えた事もありませんでした。私は、姉妹の経験を知り、苦しみによる精錬は神の愛の真の現れであるという事を初めて認識する事ができました。神はある状況を作り出し、神の人々に対して不幸を与えます。それが肉体的な苦痛であろうが、金銭的な苦難であろうが、その他のいずれの苦難であろうが、それは悪意からではなく、神の愛情こもった優しさなのです。人の堕落や欠点を修正するため、神はありとあらゆる状況を作り出し、人を試し、精錬します。神はこの苦難を通して人を清め、人の中に変化を起こし、人にいのちを与えます。精錬の過程では、不運や乗り越える事ができないと考えられてしまう事もある、信じられないような苦難を人の肉は乗り越える必要がありますが、それは神が、その人が自分自身を知る事ができるように、その人の不純な性質を精錬し、その人が神とより普通の関係を築けるようにする事で、心の中に神に対する愛情を少しずつでも深めていけるようにと、働いているのです。このような恩恵はのんびりと生活していたのでは受け取る事はできません。人は自分の受けた試練から得た教訓を学び、それまで歩んできた道を振り返って初めて、神の裁きと刑罰、および懲らしめと鍛錬には神の無限の愛情が行き渡っていたのだと理解する事ができます。神の愛は単に糧となるものを与え、情け深いというだけではありません。それは肉体的な利益を授ける以外にも、精錬、懲らしめそして鍛錬における苦しみを与える事でもあるのです。

神よ、私の不合理で誤ったものの考え方を是正するため、私を取り巻く環境の全側面を通してお働きくださった事に感謝いたします。そして、神の愛が私達の観念と一致しない時でも、そのお示しは、常に私達を進歩させ、救う事に焦点を当てているという事も解りました。神の愛情こもった働きには、神の心の大変な苦労と、言葉では言い尽くせないほどの知恵が常に吹き込まれています。これまで、神についてほんの僅かも理解できておらず、神の愛はあらゆる状況の中に隠されているという事を理解していなかった事にも気が付きました。神よ、私は、神が私達と共有してくださる愛に敬意を表し、神を讃え、感謝の気持ちを捧げます。私も将来このような愛を受けられるようになりたいと思います。私が万一このような愛を受けられる時には、神の愛を体験し、神の愛に証を立てる事ができるように、どれだけ厳しい苦難でも受け止める事を誓います。

黑龙江省绥化市 思秋

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神は創られたもの全ての命の源である | 東方閃電

私は神のために歌いたい | 東方閃電

私は神の真実な働きから既に多くを得た。私は御言葉から人間の堕落を見た。神の真理と性質から、私は人生の意義を知った。神の裁きが人の反抗を明らかにしたので、サタンによる堕落が見えた。試練により私に真理がないことが現され、私は神の前に伏し悔い改める。私は心の中にある言葉を神のために歌いたい。神は御業によって私を世から選び出し救われた。私は心の中にある言葉を神のために歌いたい。神は御業によって私を世から選び出し救われた。私は神のために歌いたい

神の裁きのお陰で私たちには浄められるチャンスがある。神の救いはほんとうに偉大で現実であり、神の愛は報いきれない程大きい。肉なる神は謙虚で目立たず、私たちに真理をもたらすために全ての苦難を受ける。神の民は御言葉を喜び、豪華な祝宴に加わる。私は心の中にある言葉を神のために歌いたい。神は御業によって私を世から選び出し救われた。私は心の中にある言葉を神のために歌いたい。神は御業によって私を世から選び出し救われた。私は神のために歌いたい

御言葉はいのちの豊かさに満ち、私が人間らしく生きれるようにしてくれる。私は自分の使命を果すよう決意し、真理を求め、神を証しし、讃美する。真理を求め、神を証しし、讃美する。私は心の中にある言葉を神のために歌いたい、神は御業によって私を世から選び出し救われた。私は心の中にある言葉を神のために歌いたい。神は御業によって私を世から選び出し救われた。私は神のために歌いたい。私は心の中にある言葉を神のために歌いたい。神は御業によって私を世から選び出し救われた。私は心の中にある言葉を神のために歌いたい。神は御業によって私を世から選び出し救われた。私は神のために歌いたい

なぜ主イエスはパリサイ人を呪ったのか。パリサイ人の本質は正確には何か。

参照聖書箇所

「なぜ、あなたがたも自分たちの言伝えによって、神のいましめを破っているのか。神は言われた、『父と母とを敬え』、また『父または母をののしる者は、必ず死に定められる』と。それだのに、あなたがたは『だれでも父または母にむかって、あなたにさしあげるはずのこのものは供え物です、と言えば、父または母を敬わなくてもよろしい』と言っている。こうしてあなたがたは自分たちの言伝えによって、神の言を無にしている。偽善者たちよ、イザヤがあなたがたについて、こういう適切な預言をしている、『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』。」(マタイによる福音書 15:3-9)

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「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない。〔偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈をする。だから、もっときびしいさばきを受けるに違いない。〕

偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたはひとりの改宗者をつくるために、海と陸とを巡り歩く。そして、つくったなら、彼を自分より倍もひどい地獄の子にする。

盲目な案内者たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは言う、『神殿をさして誓うなら、そのままでよいが、神殿の黄金をさして誓うなら、果す責任がある』と。愚かな盲目な人たちよ。黄金と、黄金を神聖にする神殿と、どちらが大事なのか。 また、あなたがたは言う、『祭壇をさして誓うなら、そのままでよいが、その上の供え物をさして誓うなら、果す責任がある』と。盲目な人たちよ。供え物と供え物を神聖にする祭壇とどちらが大事なのか。 祭壇をさして誓う者は、祭壇と、その上にあるすべての物とをさして誓うのである。 神殿をさして誓う者は、神殿とその中に住んでおられるかたとをさして誓うのである。 また、天をさして誓う者は、神の御座とその上にすわっておられるかたとをさして誓うのである。

偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。それもしなければならないが、これも見のがしてはならない。盲目な案内者たちよ。あなたがたは、ぶよはこしているが、らくだはのみこんでいる。

偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。杯と皿との外側はきよめるが、内側は貪欲と放縦とで満ちている。盲目なパリサイ人よ。まず、杯の内側をきよめるがよい。そうすれば、外側も清くなるであろう。

偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。このようにあなたがたも、外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである。

偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは預言者の墓を建て、義人の碑を飾り立てて、こう言っている、『もしわたしたちが先祖の時代に生きていたなら、預言者の血を流すことに加わってはいなかっただろう』と。このようにして、あなたがたは預言者を殺した者の子孫であることを、自分で証明している。あなたがたもまた先祖たちがした悪の枡目を満たすがよい。へびよ、まむしの子らよ、どうして地獄の刑罰をのがれることができようか。それだから、わたしは、預言者、知者、律法学者たちをあなたがたにつかわすが、そのうちのある者を殺し、また十字架につけ、そのある者を会堂でむち打ち、また町から町へと迫害して行くであろう。こうして義人アベルの血から、聖所と祭壇との間であなたがたが殺したバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、地上に流された義人の血の報いが、ことごとくあなたがたに及ぶであろう。よく言っておく。これらのことの報いは、みな今の時代に及ぶであろう。」(マタイによる福音書 23:13-36)

「しかし、祭司長、長老たちは、バラバをゆるして、イエスを殺してもらうようにと、群衆を説き伏せた。総督は彼らにむかって言った、『ふたりのうち、どちらをゆるしてほしいのか』。彼らは『バラバの方を』と言った。 ピラトは言った、『それではキリストといわれるイエスは、どうしたらよいか』。彼らはいっせいに『十字架につけよ』と言った。 しかし、ピラトは言った、『あの人は、いったい、どんな悪事をしたのか』。すると彼らはいっそう激しく叫んで、『十字架につけよ』と言った。ピラトは手のつけようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の前で手を洗って言った、『この人の血について、わたしには責任がない。おまえたちが自分で始末をするがよい』。 すると、民衆全体が答えて言った、『その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい』。 そこで、ピラトはバラバをゆるしてやり、イエスをむち打ったのち、十字架につけるために引きわたした。」(マタイによる福音書 27:20-26)

関連する神の言葉

10.パリサイ人によるイエスの審判

「身内の者たちはこの事を聞いて、イエスを取押えに出てきた。気が狂ったと思ったからである。また、エルサレムから下ってきた律法学者たちも、『彼はベルゼブルにとりつかれている』と言い、『悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ』とも言った。」(マルコによる福音書 3:21-22)

11.イエスによるパリサイ人に対する戒め

「だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。」(マタイによる福音書 12:31-32)

「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない。〔偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈をする。だから、もっときびしいさばきを受けるに違いない。〕偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたはひとりの改宗者をつくるために、海と陸とを巡り歩く。そして、つくったなら、彼を自分より倍もひどい地獄の子にする。」(マタイによる福音書 23:13-15)

上記には、個別の聖句が2つある。この2つのうち最初に挙げた聖句「パリサイ人によるイエスの審判」について、まず検討する。

「聖書によると、イエスと、イエスの行動に対するパリサイ人の評価は『気が狂ったと思った⋯「彼はベルゼブルにとりつかれている」⋯「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ」』(マルコによる福音書 3:21-22)というものであった。律法学者とパリサイ人による主イエスに対する審判は、何の根拠もなく下されたものではなく、律法学者とパリサイ人が主イエスの行動について見たこと、聞いたことに基づいた結論であった。その審判は、表層的には法に基づき行われ、人々は、それが十分な根拠に基づくものと考えたが、イエスを裁いたその傲慢さを、律法学者とパリサイ人は抑えることが出来なかった。人々の主イエスに対する激昂した憎悪のエネルギーが、神を拒絶する邪悪な本性とともに、人々の向こう見ずな野望と邪悪なサタンのような形相に現れていた。主イエスの審判で律法学者とパリサイ人が口にしたことは、人々の向こう見ずな野望、嫉妬、そして人々の神と真理に対する敵意の、醜く邪悪な本性を動機とするものであった。律法学者とパリサイ人は主イエスの行動が何によるものかを調査せず、イエスの言動の本質を調査することもなかった。その代わりに、律法学者とパリサイ人は、主イエスが取った行動を、盲目的に、苛立って、狂気のように、そして計画的な悪意をもって非難し、卑しめた。それは、主イエスの霊すなわち聖霊、神の霊を見境なく卑しめるような状態にまで達していた。律法学者とパリサイ人が『気が狂った、ベルゼブルと悪霊どものかしら』と言うのは、そうしたことを意味するものであった。つまり、神の霊はベルゼブルであり、悪霊の頭である、と言ったのであった。彼らは、受肉した神の霊による業を、狂気であるとした。彼らは神の霊をベルゼブル、悪霊の頭として冒涜したのみならず、神の業を罪であるとした。律法学者とパリサイ人は、主イエスを有罪とし、冒涜した。彼らの神に対する反逆的、冒涜的本質は、サタンと悪魔の神に対する反逆的、冒涜的本質と同じである。彼らが象徴するものは、腐敗した人間だけでなく、サタンの権化でもあった。彼らはサタンと人類の繋いでおり、サタンに力を貸す伝令であった。主イエス・キリストに対する彼らの冒涜と誹謗の本質は、神の地位を奪おうとする奮闘努力であり、終わることのない神への反抗、挑戦であった。彼らの神への反抗、神に対する敵対心の本質、そして言葉や考え方が、神の霊を直接冒涜し、怒らせた。それゆえに、神は律法学者とパリサイ人の言葉と行動に妥当な裁きを下し、その行動を聖霊に対する冒涜の罪であるとした。この罪は、この世でも後生でも赦されることがないのは、聖句に『聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない』、また『聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。』とある通りである。⋯⋯」

「これら二つの聖句について、何か気付くことはあるだろうか。一部の人々は、神の怒りに気付くと言う。また別の人々は、人間による侮辱を赦されることがないという神の性質と、人々が神を冒涜すると神の赦しを得ることができないことが分かる、と言う。この二つの聖句から、神の怒りと、人間の冒涜に対して神が不寛容であることを人々が理解しているが、人々は神の姿勢を真に理解していない。この二つの聖句には、神を冒涜し、神を怒らせた者に対する神の真の姿勢と処遇を示す部分がある。この『聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。』という聖句には、神の真の姿勢と処遇が含まれている。人々が神を冒涜した時、あるいは怒らせた時、神は審判を下し、その審判は神の最終的な結論である。そのことについては、聖書において『だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。』(マタイによる福音書 12:31)、また『偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。』(マタイによる福音書 23:13)と説明されている。」

『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身3」より

ユダヤのパリサイ人は、モーセの律法に基づいてイエスを罪に定めた。彼らは当時のイエスとの融和を求めず、律法に文字通りに忠実に従うあまり、イエスが旧約の律法に従っておらず、またメシヤでもないという罪で、ついに無実のイエスを十字架につけたのである。彼らの本質は何であったのか。彼らは真理と融和する道を求めていなかったのではないか。彼らは聖書の一字一句にこだわり、わたしの心とわたしの働きの手順や方法には無関心でいた。彼らは真理を求めた人々ではなく、聖書の言葉に厳密に従った人々であった。彼らは神を信じたのではなく、聖書を信じていた。つまるところ、彼らは聖書の番犬であった。聖書の影響力を擁護するため、聖書の権威を維持するため、聖書の評判を守るため、彼らは慈悲深いイエスを十字架につけることまでした。彼らは、ただ単に聖書を守るため、人々の心の中にある聖書の一字一句の地位を維持するために、そうしたのである。だから、彼らは未来と罪のための捧げ物を見捨て、聖書の教義に従わなかったイエスを罪に定めて殺したのである。彼らは聖書の一字一句に隷属していたのではないか。」

『言葉は肉において現れる』の「キリストと融和する道を探せ」より

「二千年前にユダヤ人たちがイエスを十字架に釘づけにしたあと何が起きたかを思い起こしてみるがよい。ユダヤ人はイスラエルから追放され、諸国に逃亡した。多くは殺され、全ユダヤ民族は前例を見ない破壊を受けた。彼らは神を十字架に釘付けにし——凶悪犯罪を犯し——そして神の性質を侵害した。彼らは自分たちが為したことの代価を払い、その行動の結果に耐えなければならなかった。彼らは神を罪に定め、神を拒絶したので、たどる運命は一つしかなかった。すなわち、神の罰を受けたのである。これが彼らの支配者たちが彼らの国と民族にもたらした苦い結果と災害である。」

『言葉は肉において現れる』の「神は全人類の運命を支配する」より

「あなたがたはパリサイ人がイエスに逆らったことの根拠を知りたいか。あなたがたはパリサイ人の本質を知りたいか。彼らはメシアに関する空想に満ちていた。さらに、彼らはメシアが来ると信じていただけで、いのちの真理を求めなかった。だから未だに彼らはメシアが来るのを待ち続けている。いのちの道に関して何の認識もなく、真理の道がどのようなものかも知らないからだ。これほど愚かで頑固で無知な彼らが、神の祝福を得られるだろうか、とあなたがたが言ってみよ。彼らがメシアに会うことなどできるだろうか。彼らは聖霊の働きのめざすものを知らなかったためにイエスに敵対した。イエスの語った真理の道を知らなかったために、イエスに敵対し、さらにはメシアを理解できなかったためにイエスに敵対した。彼らはメシアに会ったことがなく、メシアとともに過ごしたこともないために、彼らはみなメシアの名前をむなしく守りながら、どのようなことをしてでもメシアの本質に逆らうという過ちを犯した。これらパリサイ人は本質的に頑固で、傲慢で、真理に従うことはなかった。彼らが神を信じる原則は、『どれほどあなたの説教が奥深く、どれほどあなたに権威があろうとも、あなたがメシアと呼ばれない限り、あなたはキリストではない』というものである。これらの見方は不合理でばかばかしいものではないのか。」

『言葉は肉において現れる』の「あなたがイエスの霊のからだを見る時は、神が天と地を新しくした時である」より

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パリサイ人 | 東方閃電

クリスチャンの証し「対話」抜粋シーン(1)中国共産党はクリスチャンをなぜこれほどに監視、迫害するのか?

中国の憲法は信教の自由を明確に謳っていますが、その陰では政府は莫大な人材、財源を使い宗教信仰を抑圧しクリスチャンを迫害しています。クリスチャンを監視、追跡、逮捕するための最新の監視装置の購入さえ止めていません。中国政府は国民の信教の自由を奪い、信者に対しては信教の自由どころか生存権まで脅かされる状態です。中国共産党がここまでする理由とその目的は一体何なのでしょう。

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 神の御国 | 東方閃電

神の恩寵を享受するだけで神への信仰の真の証であるのか

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関連する神の言葉

「もしあなたが、平和な家庭生活や物質的祝福を伴う神の恵みのみを享受するのであれば、あなたは神を得ていないのであって、神への信心は成り立っていない。神は肉における恵みの働きを既に一段階行っており、人に物質的な恵みを既に与えている──しかし人は、恵みと愛と慈悲だけでは完全になれない。人は経験により神の愛の一部分に出会い、神の愛と慈悲を知るが、ある一定の期間経験すると、人は神の恵みと神の愛や慈悲では完全になれず、人の内にある邪悪さを明らかにすることもできず、またその邪悪な性質を取り除くことも、その愛と信仰を完全にすることもできないことを理解するのである。神の恵みの働きは一時の働きであった。神の恵みの享受に依存することで神を知ることはできないのである。」

『言葉は肉において現れる』の「辛い試練を経験して初めて、神の素晴らしさを知ることができる」より

「もし神の恵みを単に楽しむだけなら、神に完全にしてもらうことはできない。一部の人たちは、肉の平和と喜び、逆境や不運のない安楽な人生、争いやいさかいもなく家族と平和に生きること、などで満足するかも知れない。彼らは、このことが神の祝福であるに違いないとさえ信じるかも知れない、しかし実際は、それは単なる一つの神の恵みであるにすぎない。あなたがたは、神の恵みを楽しむだけで満足してはいけない。このような考え方は、あまりにも低俗である。あなたが日々、神の言葉を読み、毎日祈りを捧げているさえとしても、そしてあなたの霊が特別な喜びや平和を感じるとしても、しかし、結局のところ、あなたは、神やその働きに関するどんな認識についても話すことはできない、あるいはそのようなことをした経験も持っていない。そして、あなたがどれ程たくさん神の言葉を食べ、飲んできてたにしても、もし霊の中で平和や喜びを感じるだけなら、そして神の言葉はまるで十分に喜び尽くせないかのように比類なく甘美であると感じるならば、だがしかし、あなたが神の言葉について実際の経験を持たず理解をしていない、あなたはそのような神への信仰のあり方の結果として、何を受け取ることが出来るだろうか。もしあなたが、神の言葉の本質を実現することができないなら、あなたの食べ、飲み、祈ることがまさに、宗教に関わっている。そして、そのような人々は神に完全にしてもらうことはできないし、神のものとされることもできない。」

『言葉は肉において現れる』の「完全にされた人々への約束」より

「神の恩恵を享受することしかしない人々は完全にはされないし、変えられることもない。彼らの従順、敬虔、愛と忍耐はすべて表面的である。神の恩恵を享受するだけの人々は本当に神を知ることはできず、神を知ったとしても、その知識は表面的であり、神は人を愛するとか、神は人に対して憐れみ深いというぐらいのことしか言えない。これでは人のいのちを表わすとは言えないし、人々が本当に神を知っているとは言えない。神の言葉が人々を精錬しようとする時、あるいは神の試練が人々に臨む時、彼らが神に従うことができなければ――それどころか、疑い深くなり、つまづくなら――彼らには従順さなどほんの少しさえ見当たらない。」

『言葉は肉において現れる』の「神を信じているなら神に従うべきだ」より

「人々は恵みの獲得と平安の享受を神への信仰の象徴と見なし、祝福を求めることが神への信仰の基礎であると考えている。神を知ることを求め、自分の性質が変えられることを求める人々はごく僅かである。人々の神への信仰とは、神が彼らに適切な終着点を与えることを要求し、彼らに日の下にあるあらゆる恵みを与え、神を彼らの召使にし、神に彼らとの平和で友好的な関係を維持させ、彼らの間に決して対立がないことを求めることである。すなわち、ちょうど聖書に『わたしはあなたたちのすべての祈りに耳をかたむける。』と記されているように、神への信仰において、彼らは神に彼らのすべての要求を満たすことを約束し、祈り求めるものは何でも彼らに与えることを要求する。彼らは神に誰も裁かないように、誰も取り扱わないよう要求する。彼らにとって神はいつも優しい救い主イエスであり、いつでもどこでも人々と良い関係を保つ方であるからだ。彼らの信仰とはこうである。彼らはいつも臆面もなく神にものを求め、彼らが反抗的であろうと従順であろうと、神はなんでも見境なく彼らに授ける。人々は絶えず神からの『支払い』を要求し、神はまったく抵抗せずにそれを支払わなければならず、神が彼らから何かを得ようと得まいと、神は二倍払わねばならない。神はただ彼らのなすがままである。神は思いのままに人々を指揮することはできない。ましてや彼らの許可なしに、神の望むままに長年隠されてきた神の英知や義の性質を人々に現すことはできない。彼らはただ自分の罪を神に告白し、神はただそれを赦免するだけである。神は彼らの罪にうんざりすることもできずに、こういうことが永久に続くのである。聖書に『神は人に仕えられるためではなく、人に仕えるために来た。彼は人の召使になるために来たのだ。』と記されているのをいいことに、彼らはただ神をこき使い、神はただそれに従うのである。あなたたちはいつもこのように信じてきたのではないか。神から何も得られないとあなたたちは逃げたがる。そして何か理解できないことがあると、ひどく憤慨しあらゆる種類の悪態を浴びせかけさえする。あなたたちは神自身が英知と奇跡を充分に表現することをどうしても許そうとせず、その代わりにただ一時的な気楽さと心地よさを楽しむことを望む。今に至るまで、神への信仰におけるあなたたちの態度は相変わらずの古い見解である。神があなたたちにほんの少しでも威厳を見せれば、あなたたちは不愉快になる。あなたたちはいま自分の背丈がどのぐらいなのか正確にわかっているのだろうか。あなたたちの古い見解は実の所変化していないのに、自分たちは皆神に忠実だなどと考えてはいけない。悪いことが何も自分に降りかからない時は、あなたはすべてが順調に進んでいると考え、神を絶頂まで愛する。しかし、ちょっと些細なことが起こると黄泉の国にまで落ちる。これではあなたが神に忠実だと言えるだろうか。」

『言葉は肉において現れる』の「あなたたちは地位の恩恵は脇に置き、人を救済する神の御心を理解するべきである」より

「ほとんどの人々が、平穏やその他の利益のために、神を信じている。あなたは、自分の利益にならなければ、神を信じず、神の恵みを受けられないのであれば不機嫌になる。これがどうしてあなたのほんとうの背丈でありえようか。家族の中で避けられない出来事(子どもが病気になる、夫が入院する、農作物が不作に見舞われる、家族の者たちからの迫害等)については、あなたは、日常生活で度々起こるこうした出来事を乗り越えることすら出来ない。このような事が起きると、あなたは当惑してどうして良いか分からなくなる――そして殆どの場合、神について不満の言葉をこぼす。神の言葉に騙された。神の業が自分を混乱させたのだと、不平を言う。あなたがたは、そのような思いを抱いたことはないだろうか。このようなことが自分に起こるのは希であると思っているだろうか。あなたがたは、こうした出来事のただ中で生活し日々過ごしている。あなたがたは、神への信仰を成功させることや、神の旨を満たす方法については、少しも考えることが無い。あなたがたの真の背丈は小さすぎる。それは、ひよこよりも小さい。自分の夫の事業で損失が出ると神について不平を言い、神の守りが無い状況に遭遇すると、やはり神について不平を言い、ひよこが一羽死んだり、囲いの中の年老いた牛が病を煩った時でさえ、不平を言い、自分の息子が家族を設ける時が来たが、十分な資金が無い場合にも、不平を言う。また、教会の働き人があなたの家で数回食事したが、教会から払戻しが無い場合や、誰も自分に野菜を送って来ない時も、不平を言う。あなたの腹は不満ではち切れそうだ。また、そのために時折集会へ行かなかったり、神の言葉を食すことも飲むこともなく、長期間にわたって否定的になるのが目に見えている。あなたに今日起こる出来事は一つとしてあなたの先行きや運命と関係が無い。これらの事は、あなたが神を信じていなかった時も起こったものだが、今日はそそれらの責任を神に負わせ、神が自分を排除したと主張する。あなたの神への信仰はどうなったのであろうか。あなたは真に自らのいのちを全て神に捧げたのではなかったか。仮に、あなたがたがヨブと同様の試練を受けたとしたら、今日、神に付き従うあなたがたのうち、揺るぎなく立つことが出来る者は一人もいないだろう。あなたがたはみな倒れるであろう。また単純に、あなたがたとペテロの間には、雲泥の差がある。今日あなたがたの資産の半分が差し押さえられたならば、あなたがたは神の存在を否定しさえするであろう。もし自分の息子や娘が自分から奪い去られたならば、不当だと叫びながら町中を走り回るであろう。あなたが人生に行き詰まったならば、『神』にそれを持ちかけ、わたしが最初にあなたに対して多くの言葉を話して脅したのは何故かと尋ねようとするであろう。こうなれば、あなたがたはどんなことでもするであろう。このことは、あなたがたがまだ何も理解せず、真の背丈を備えていないことを示している。」

『言葉は肉において現れる』の「実践(3)」より

「あなたは、サタンの領域で、ちょっとした肉の享楽と共に平和に喜んで暮らすことに満足しているであろうか。あなたは全ての人間のうち、最も卑しい者ではなかろうか。救いを見たことがあるが、それを追求しない者よりも愚かな者は居ない。そうした者は、自らを肉で満たし、サタンを堪能する者である。あなたは、神に対する自分の信仰が、問題や苦難、些細な問題の原因とならないことを望む。あなたは、常に無価値な物事を追求し、いのちの価値を全く認めず、自分の途方もない考えを真理よりも優先している。あなたは極めて無価値である。あなたは豚のように生きている。あなたと、豚と犬には、何か相違があるだろうか。真理を追求せずに肉を愛する者は、皆獣ではなかろうか。霊の無い死んだ者は、皆生ける屍ではなかろうか。あなたがたに対して語られた言葉は、いくつあるであろうか。あなたがたに対して行われた業は、ほんの少しであろうか。わたしは、あなたがたに対して、どの程度与えたであろうか。それでは、あなたがそれを得ていないのは何故だろうか。あなたが不平を言うべき物事は、何があるだろうか。あなたが肉を愛しすぎているので、何も得られなかったということではなかろうか。また、その原因は、あなたの考えが突飛すぎることではなかろうか。また、その原因はあなたが愚か過ぎることではなかろうか。あなたは、自分がこれらの祝福を得られない場合、自分が救われなかったことについて、神を責められるであろうか。あなたが求めていることは、神を信じた後に平和を得ることが出来るようになることである。つまり、自分の子が病気にかからないこと、自分の夫が好ましい職に就くこと、自分の息子が良い妻と出会うこと、自分の娘が人並みの夫を見つけること、自分の牛や馬が十分に土地を耕すこと、一年間、作物に適した気候となることなどである。あなたは、そうした物事を求める。あなたの追求は、単に快適に暮らすためであり、自分の家族に事故が起こらないこと、風が自分に当たらないこと、顔に砂がかからないこと、家族の作物が洪水に遭わないこと、災害を受けないこと、神に抱かれて生きること、快適な住処で生活することを求めている。常に肉の欲を求める、あなたのような臆病者には、心や霊があるだろうか。あなたは獣ではなかろうか。わたしは、何も見返りを求めずに、真の道を与えるが、あなたは求めない。あなたは、神を信じる者のひとりであろうか。わたしは、真の人生をあなたに与えるが、あなたは求めない。あなたは豚や犬とは違わないのではないか。豚は、人生や、清められることを追求せず、人生とは何かを理解しない。毎日、食べたいだけ食べた後、ただ寝るだけである。わたしは、あなたに真の道を与えたが、あなたは未だにそれを得ていない。あなたは、手ぶらである。あなたは、人生において、そうした豚の生活を続けることを望んでいるのであろうか。そうした人々が生きていることの意味は、何であろうか。あなたの生活は、恥辱的であり、下劣であり、あなたは不浄と放蕩の中で暮らし、何も目指す目標が無い。あなたの人生は、最も下劣ではなかろうか。あなたは、厚かましくも神を見上げるであろうか。あなたは、このような経験を続けるならば、得る物は無いのではなかろうか。」

『言葉は肉において現れる』の「ペテロの経験:刑罰と裁きに関するペテロの認識」より

「今日、人は神の恵みと愛と慈悲だけでは、真に自分を知ることはできず、ましてや人の本質も知ることができないのを知っている。神の精錬と裁きによってのみ、また、そのような精錬の中にあってのみ、自分の欠点を知り、自分には何もないことを知るのである。このように、人の神への愛は神の精錬と裁きという礎の上に築かれる。」

『言葉は肉において現れる』の「辛い試練を経験して初めて、神の素晴らしさを知ることができる」より

「多くの精錬と苦痛、多くの取り扱いと懲らしめを受ける者は、神への深い愛を持ち、神に関して、もっと深遠で鋭い認識を持つようになることを、あなたは経験の中で知るであろう。取り扱いを体験しなかった者には、表面的な認識しか無く、ただ『神は本当に良いお方だ。人々が神を楽しめるように、彼らに恵みを授けられる。』と言うことしか出来ない。取り扱いと訓練を体験した場合、人間は神に関する真の認識を話すことができるようになるのだ。したがって、神による人間の内なる業が驚異的であればあるほど、それは一層貴重であり、有意義なものである。あなたにとって、それが測り知れないものであればあるほど、またそれがあなたの見解と相容れないものであればあるほど、神の業は、さらにあなたを征服し、あなたを獲得し完全にすることができる。」

『言葉は肉において現れる』の「完全にされる者は精錬されることを体験しなければならない」より

「今やあなたは、神への信仰とは何かを理解しただろうか。神への信仰は、しるしや不思議を見ることだろうか。それは天国に昇ることだろうか。神を信じることは簡単なことではない。今日、そのような宗教的慣行は、一掃されるべきである。神の奇跡の出現を求めること、神の癒しや神が悪魔を追放することを求めること、神によって平和やあり余るほどの恵みが与えられることを求めること、明るい未来や肉の快楽を得ることを求めること、これらは宗教的慣行であり、そのような宗教的慣行は、漠然としてかつ抽象的な信仰の形式である。今日、神に対する真の信仰とは何だろうか。それは、神の真の愛を達成するために、神の言葉をあなたのいのちの真実として受け入れることであり、神の言葉から神を知ることである。明確にするために言うと以下のように言える。すなわちそれは、あなたが神に従うこと、神を愛すること、さらに、神の被造物によって為されるべき本分を遂行することに資するような神への信仰である。これが、神を信じることの目的である。あなたは、神の美しさ、神がいかに尊敬に値するか、造ったものの中で、神がいかに救いの働きを行いそして彼らを完全にしているかについての認識を達成しなければならない。これが、あなたが神への信仰において所有しなければならない最低限である。神への信仰は主として、肉における生活から神を愛する生活への転換、自然のままの生活から神という存在の内部での生活への転換である。そしてそれは、サタンの領域下から出て神の配慮と保護の下で生きることであり、肉への従順ではなく神への従順を達成できることであり、神があなたの心のすべてを獲得しあなたを完全にすることを可能にすることであり、さらにあなた自身を堕落したサタンのような性質から自由にすることである。神への信仰は主として、神の力と栄光があなたの中で明らかに示されるためである。その結果、あなたは、神の旨を遂行し、神の計画を成し遂げることができ、さらに、サタンの前で神への証しとなることができるようになる。神への信仰は、しるしや不思議を見るためであってはいけないし、あなたの個人的な肉のためであってもいけない。それは、神を知ること、神に従うことができること、そしてペテロのように、死を賭してまで神に従うことを追求する行為でなければならない。これが、信仰を達成するために必要な主なものである。」

『言葉は肉において現れる』の「すべてが神の言葉によって達成される」より

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