東方閃電-小羊の足跡に従っていくこと

東方閃電全能神教会は世界に”神様が帰ってきた”ことを公に証ししています。彼は再臨の主イエスです。神様の羊は神様の声を聞き分けます。多くの真理を渇仰する人は、東方閃電全能神教会を考察します。

聖霊が諸教会に語られた御言葉「神の働きと人の働き 」その2


全能神は言われます「人が表すものは自分が見るもの、経験するもの、想像できるものである。教義、あるいは見解であっても、これらはすべて人が考えれば到達可能である。人の働きは大きさに関係なく、人の経験、見るもの、想像、あるいは思いつけるものの範囲を越えることはできない。神が表すものは神自身であり、これは人の力が及ばないもの、つまり、人の考えの及ばないものである。神はすべての人類を導くという働きを表し、これは人の経験の詳細とは関係なく、むしろ神自身の経営に関係している。人は自分の経験を表し、神は自身の存在を表す―この存在は神に固有の性質であり、人の力の及ばないものである。」
更に多くの内容:滅びゆく都聖書の預言の成就

聖霊の御言葉「あなたは人間全体が現在までどのように発展してきたかを知るべきである」その2


全能神は言われた。「六千年に渡るその働き全体は、時代とともに次第に変化してきた。その働きにおける変化は、これまで世界全体の情勢に従って起こってきた。神の経営の働きは、全体として人間の発展に従って次第に移り変わってきただけである。それは創造の始まりにおいて、すでに計画されていたわけではなかった。……神の働きのすべては最も現実的である。神は時代の進展に従って自身の働きを実行し、物事の変化に従って自身の最も現実的な働きを実行する。神にとって働きの実行は、病気に薬を用いることに似ている。神は自身の働きを行う時、観察をする。神は自身の観察に従って働きを行う。神は、自身の働きのどの段階においても、自身の豊かな英知の表現と、自身の豊かな能力の表現を行える。神はその時代の働きにおいて自身の豊富な英知と豊富な権威を示し、その時代に神によって連れ戻された者ならだれでも、自身の性質を全て知ることができるようにした。神は人々の必要を満たし、それぞれの時代で実行されなくてはならない働きに基づいて自身のすべき働きを実行する。神は人々がサタンに堕落させられた程度に応じて、その必要を満たす。」

復活後にパンを食べ、聖句を説明するイエス

一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。(ルカによる福音書 24:30-32)

こう話していると、イエスが彼らの中にお立ちになった。〔そして「やすかれ」と言われた。〕彼らは恐れ驚いて、霊を見ているのだと思った。そこでイエスが言われた、「なぜおじ惑っているのか。どうして心に疑いを起すのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」。〔こう言って、手と足とをお見せになった。〕彼らは喜びのあまり、まだ信じられないで不思議に思っていると、イエスが「ここに何か食物があるか」と言われた。彼らが焼いた魚の一きれをさしあげると、イエスはそれを取って、みんなの前で食べられた。(ルカによる福音書24:36-43)

次に、上記の聖句を検討する。前者は復活後の主イエスがパンを食べながら聖句について説教している部分の説明、後者はイエスが焼き魚を食べている部分の説明である。神の性質を知る上で、これらの聖句はどのように役立つであろうか。パンを食べている主イエスと、焼き魚を食べている主イエスの描写から、そのような場面を想像することが出来るであろうか。主イエスがあなたがたの前に現れ、パンを食べているとしたら、あなたがたは何を感じるであろうか。あるいは、イエスがあなたがたと同じ食卓で人々と共に魚とパンを食べているとしたら、あなたはどのように感じるであろうか。イエスはあなたがたに極めて親しく、懇意な存在であると感じるとしたら、その感情は正しい。復活後にイエスが大勢の人々の前でパンと魚を食べることにより主イエスが求めていた結果は、正にそうした感覚を与えることであった。仮に復活後の主イエスが人々と話をするだけであり、イエスの身体を感じることが出来ず、イエスが触れることの出来ない霊であると感じたとしたら、人々はどのような印象を抱いていたであろうか。人々は落胆していたのではないだろうか。人々が落胆した時、人々は見捨てられたように感じていたのではないだろうか。主イエスキリストとの間に隔たりを感じていたのではなかろうか。こうした隔たりは、神と人々の間に、どのような悪影響を与えるであろうか。人々は、間違いなく恐怖を感じ、敢えて主に近づかず、イエスに対する敬意を示すに十分な距離を置く態度を取るであろう。その後、人々は主イエス・キリストとの親しい関係を絶ち、恵みの時代以前における、人間と天の神との関係へと戻るであろう。人々が見ることも触れることも出来ない霊的存在が原因となり、神との親密な関係が解消されてしまい、受肉した主イエス・キリストが人間と密接にかかわることにより築き上げられた懇意な関係もまた消滅するであろう。霊的存在に対し、人々は、恐怖、回避を感じ、目を丸くして絶句するような感覚となる。人々は、霊的存在に近づいたり、会話したり、ましてや従ったり、信じたり、望みを持ったりはしないであろう。神は、人々が自身に対してこうした感覚を持つことについて、難色を示した。神は、人々が自身を回避したり、自身の前から立ち去ったりするのを望まなかった。神は、人々が自身を理解し、自身に近づき、自身の家族となることを望んでいた。あなたの家族や子ども達が、あなたを見て、あなたであることを認識せず、あなたに敢えて近寄らず、常に回避していたとしたら、あなたが家族や子のために尽くしたことを、家族や子ども達に理解してもらえなかったとしたら、あなたはどのように感じるであろうか。それは辛いことではなかろうか。あなたの心が痛むのではなかろうか。人々が神を避けた時に神が感じるのは、まさにそうした感覚である。そこで、復活後、主イエスは肉と血のある姿で人々の前に現れ、人々と飲食を共にしたのである。神は人々を家族と考え、また人々にも神を家族と考えることを望む。なぜなら、神が真に人々を得て人々が真に神を愛し、礼拝することが出来るのは、この方法によるほかはないからである。これで、主イエスが復活後にパンを食べながら聖句について説明している聖句と、使徒がイエスに焼き魚を差し出している聖句の2つをわたしが取り上げた趣旨が理解できたであろうか。

復活後にパンを食べ,聖句を説明する,イエス,焼き魚を食べて

エスが復活後に述べた言葉と行った業は、思いやりがあるものであり、親切な旨をもって行ったものである、と言えるであろう。こうした言葉や業は、人間に対する親切さと愛情、イエス受肉した時に築き上げられた人間との親密な関係に対する認識と周到な慈しみに満たされていた。さらに、そうした言葉と業は、受肉したイエスが自身に付き従う者と飲食を共にしていた頃に対するイエスの懐古と希望で満たされていた。そうしたわけで、人間が神との間に距離を感じることも、人間が神から距離を置くことも、神は望まなかった。さらに、神は復活した主イエスが、もはや人間と親密であった時の主ではない、また主が霊の世界、人間が決して見ることも触れることも出来ない神の元へ戻ったので、もはや人間と共にはいない、と感じることを望まなかった。神は、自身と人間との立場に相違があると人間が感じることを望まなかった。神に付き従いたいと望みながら、神との間に敬意として相応しい距離を置いていた人間を神が見た時、神は心を傷めた。なぜなら、それは人間の心が神から遠く離れていること、神が人間の心を得るのは極めて困難であることを意味するからである。そうしたわけで、仮にイエスが誰も見ることも触れることも出来ない霊的存在として人々の前に来ていたとしたら、再び人間を神から遠ざけてしまい、またその結果として、復活後のキリストは、高尚な、人間とは違う存在となり、人間は罪深く、汚れ、決して神には近づくことの出来ない存在であるから、人間と食卓を共にできない存在となった、といった人間の誤解を招いていたことであろう。こうした人間の誤解を払拭するため、聖書に「パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられる。」とあるとおり、主イエスは、受肉していた時に頻繁に行っていた多くの業を行った。また主は、従前のように、人々に聖句を説明した。こうしたイエスの業により、主イエスと会った人々は皆、イエスが変わっていないと感じ、またイエスが依然として主イエスであると感じた。イエスは十字架にはり付けられ、死んだのだが、復活し、人間から去っては居なかった。イエスは人間の中に戻り、しかも全く変わっていなかった。人々の前に現れた人の子は、依然として人々が従前知っていた主イエスであった。イエスの態度や人々との会話は、なじみ深いものであった。イエスは依然として親愛、恵み、そして寛容さに溢れていた。自らと同様に人々を愛し、人間を七の七十倍赦すことのできる主イエスであった。従前通り人間と食事を共にし、人々と聖句について話し、またとりわけ重要なこととして、従前と同様に、見て触れることのできる肉と血のある姿であった。こうした人の子の姿により、人々はそうした親密さを感じ、くつろぎを感じ、失った何かを取り戻した喜びを感じ、また人々は安心できたので、果敢かつ確信をもって、人類の罪を贖うことのできる人の子を頼りとして敬うようになった。また人々は、主の恵みと祝福を得、主からの平和と喜び、そして慈しみと保護を得るため、ためらいなく主イエスの名に祈りを捧げるようになり、また主の名において癒しを行い、悪魔を追い出すようになった。

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聖霊が諸教会に語られた御言葉「ぺテロはどのようにイエスを知るようになったか」



全能神は言われます「あなたがたは自分が歩く道について明確でなければならない。あなたがたがこれから歩く道について、神が完全にさせること、あなたが任されたことなどについても明確でなければならない。いつか、おそらくあなたがたが試されるとき、あなたがたがペテロの体験から霊感を得ることができるなら、あなたがたはペテロの道を歩こうとしていることを示している。ペテロは彼の真の信仰、愛、神への忠誠のために、神に褒められた、そしてそれは神が彼を完全にした彼の実直さ、彼の心の神へのあこがれであった。もしあなたが本当にペテロと同じ愛、信仰を持っているなら、イエスは必ずあなたを完全にしてくれるであろう。」
その他の内容:愛の使命

終わりの日のキリストの語られる言葉 「唯一の神自身 1 神の権威(1)」その1


神の権威により、第一の日に人類の昼と夜が生まれ、確立した
第二の日、神は権威により水と天、そして人間が生活する上で最も基本的な空間を造った
第三の日、神の言葉により地と海が生まれ、神の権威により、世界が生物で満たされた
その他のフォーカス:私の家はどこに

終わりの日のキリストの語られる言葉 「神と人は共に安息に入る」その1


全能神は言われます「人が安息を失ったので、神も安息を失った。神がもう一度安息の中に入る時、人も安息の中に入る。安息の中の生活とは、戦いも道徳的堕落も、持続する不義もない生活である。そのような生活には、神に敵対するいかなる勢力の侵入もないだけでなく、サタン(サタンとは敵対する諸力を指す)による妨害もサタンの堕落も存在しない。万物がおのおのその同類のものに従い、造物主を礼拝する。天上も地上も平穏になる。これが人類が安息に入った生活である。神が安息の中に入った時、地上にはもうどんな不義も持続せず、もういかなる敵対勢力の侵入もなくなる。人類も新しい領域の中に入る。すなわち、彼らはもはやサタンに堕落させられた人類ではなく、サタンに堕落させられた後救われた人類である。」
おすすめコンテンツ:敬虔の奥義:続編

聖霊が諸教会に語られた御言葉「神の業と人間の実践 」その1

全能神は言われます「神の業のあらゆる場合には、人間が知るべきビジョンがあり、そのビジョンの後に、神の人間に対する適切な要求がある。こうした基礎となるビジョンなくして、人間は明らかに実践不可能となり、確固として神に付き従うことは出来ないであろう。人間が神を知らない場合、あるいは神の心を理解しない場合、人間の行いは全て無駄となり、神により認められることが出来ない。人間の賜物が如何に豊富であったとしても、人間は神の業や導きと不可分である。人間の行為がいかに優れているか、多いかを問わず、それらの行為は依然として神の業に代わることが出来ない。ゆえに、いかなる場合も、人間の実践をビジョンと切り離すことは出来ない。新たなビジョンを受け容れない者には、新たな実践が無い。そうした者の実践は真理と全く無関係である。なぜなら、そうした者は教義と死んだ律法を遵守しているからである。そうした者には新たなビジョンが一切無く、その結果そうした者は新たな時代に何も実践しない。そうした者はビジョンを失っており、その過程で聖霊の業と真理も失っている。」